ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

極楽船の人々

2018年01月21日 | 読書日記
極楽船の人びと 吉田知子 中央公論社
 豪華客船とはいかないまでも、割合上等な客船に乗って1ヶ月程度の船旅をする人々の物語である。普通こういう船旅は寄港するところと、それぞれの寄港地でどことどこを観光するかが決まっているものだが、この船旅ではそれが全く示されていない。それでも客は乗船してくる。だが、いったん乗船し、出発した以上、どこにも寄港しない船だから、死に向かって降りられない旅を続けなければならない。行く先がわからない人生と同じようなものである。
 物語の前半は、船が出発してから、個々の乗客がそれぞれどんな人生を送ってきたか、どんな覚悟で船旅に参加したかを語る。この船旅を明確に死出の旅のつもりで参加した者もいれば、あまり深く考えず、誘われるままに何日間かを楽しく過ごせれば、その先はどうなってもいいと思って参加した者もいる。旅人の中から3人を取りあげてみよう。 
・息子夫婦と折り合いが悪い老女
 夫と死別したとき、遺言により家と90坪の敷地を自分一人が引き継いだ。家はだいぶ古くなっているので、建て替えるよりいっそのこと土地を売って、老人ケア付きのマンションに住み替えようかと考えていた。ホテルのように豪華な老人ホームもある。食事は食堂へ行ってもよし、ルームサービスもしてくれる。各階にメイドがいて買い物や用足しもしてくれる。
 その話を聞いて、今は別のところに住んでいる息子夫婦は、いずれ土地を相続して自分たちが住みやすい家を建てたいと思っていたから当然反対した。息子の嫁さんが「入るときに何千万か要って、入ってからも毎月何十万でしょう」と言う。「死ぬまであと3年か、5年。こういういいところに住んでみたい」。「3年や5年のために何千万も」と嫁さん。
 息子夫婦は一計を案じた。母親も一緒に住める家を建てようと、設計士に引かせた図面を持ってきて説得にかかる。しかし、母親の居室に予定されている場所は、中2階の6畳一間でなにやら物置という風情のところであった。やがて家を建て替えもしないのに息子夫婦は引き越してきた。息子の言い分は「ここはおれの家だもの。勝手に売られたりしたらかなわんもんな」。もちろん息子夫婦とは、なにかにつけていさかいが絶えない。
 そんな折り、近くにある寺へお参りに行ったら、門前の土産物屋のベンチで船の話を聞いた。地獄からの誘いのように思われたが、帰路同じところで同じ人からまた誘われて、覚悟を決めた。
・手術が必要な病気に加え痴呆の症状が現れてきた男
 妻を心配させぬために言わなかったが、頭痛、吐き気、鬱血乳頭などという症状が2、3ヵ月前から急に顕著になってきている。もっと前からそれに気がついてはいた。手術しか方法がないが、手術も万全ではない。4回繰りかえして死んだ人もいる。手術はしたくなかった。その上もの忘れがひどくなった。
 それに手術のためには車で1時間かかる中都市の病院へ入らねばならぬ。そこへ毎日通うということになれば、妻の方が先にまいってしまうだろう。もはや平均寿命より永く生きているから、惜しい年齢でもない。
 といって放置するわけにもいかぬ。この病気は人間が変わる。内気で小心な男が残忍で暴力的になった例を知っている。短期でわがままになった人間もある。自分がどうなるかはわからぬが、もの忘れがその前駆的症状であることは確かである。
 この船の存在を知ったとき、自分はその出帆の1日も早いことを望み、毎日じりじりしながら待っていた。遅すぎたかも知れぬ。今日も朝食から一旦船室に入り、用をたしたあと、朝食をとったばかりであることを忘れて、また食堂へ行こうとした。どこへ行くかと妻が訊くから「朝めしだ」と答えたら、冗談だと思ったらしく大笑いした。
 なるべく自分からは物を言わぬようにし、行動も妻が動き出してからにしたほうがよいかも知れぬ。自分だけを頼りにしている妻に自分の病気のことをさとられてはならぬ。一瞬にして妻は幸福の絶頂から地獄のどん底へ堕ちるだろう。
・妻子ある男性と長年つきあってきた女性
 ハマは妻子のある安間という男と長年つきあっていた。二人の関係は安間の奥さんも承知しており、黙認しているらしい、と自分勝手に想像している。安間は定年退職することになって、この関係を清算したいと考え、一計を案じた。二人で船に乗ろうと提案したのである。ハマは初め同意しなかった。あまりに予想外の話で、初めはだまって安間の顔を見ているだけだった。安間は会うたびにこの話を蒸し返し、船旅は楽しいとか、もう旅行用のトランクを買ったとか、そんな話ばかりする。
 たまりかねて「奥さんに黙ってそんなことするのはいやです」と言ったら、女房はもちろん知っている、とあっけらかんとしている。ハマは安間には言わずに奥さんに会いに行った。奥さんに言ってもらえば、安間は船に乗るのをあきらめるだろう。
 しかし、奥さんの答は予期に反した。「別に止める気はないわ。あなたも船にお乗りになるんでしょう。ああいう不品行な父親がいるのは、子供のためにも良くないし。お二人で船に乗ってください。約束して」強く言われてハマは頷いてしまった。
 その晩からハマは乗船する支度を始めた。そして安間は出港するギリギリのときになって、ハマを残して逃げだし、乗船しなかった。このときになって、ハマはこの筋書きはすべて奥さんが書いた、奥さんは安間を自分と共有する気なんか全然なかった、と悟った。

 船が航海に入ってまもなく、猛烈な嵐に遭遇した。船は何十メートルも持ち上げられたかと思うと、次の瞬間まるでジェットコースターのようにドスンと落ちる。この繰り返しで、食べるものは何も喉を通らなくなった。
 一夜明けると風はますます強くなっている。一人の客がよろめきながら食堂へ行ったが、客は誰もいない。コックらしい男がテーブルにしがみついている。甲板の上は激流が渦巻いて、とても出られない。「おおい、救命ボートが流されたぞ」と誰かが怒鳴っている。客はしゃがんで吐いた。きのうから吐きづめで、吐くものもなくなった。自分の船室に戻ると、床は相客たちの吐瀉物でぬるぬるしていた。船室の丸窓のガラスが割れ、水が入ってきた。
 「こんなことなら船に乗るんではなかった」と爺さんが泣き出す。中段の客が立ち上がりかけて頭を天井に打ちつけた。おまけに大きな横揺れが来て、床にもんどり打って落ちた。顔が血だらけになっている。「目をやられた。誰か医者を連れてきてくれ」悲鳴やわめき声が鳴り響く。怪我人が続出している。
 何日も続いた揺れも、やがて少しずつおさまったが、ベッドも床も傾斜したままである。ボーイが大きめの握り飯を「倉庫に浸水したので、当分これで我慢していただきます」と言いつつ一人一箇ずつ配った。
 泣いていた爺さんが死んだ。それを船員に告げると、これで6人目だと言った。船員、乗客の約3割が負傷し、約1割が怪我および衰弱のため死亡した。船体・機具もだいぶ損傷し、食糧にも被害があったが航行はできるという。死者は水葬した。本職の僧侶が乗り組んでいて、葬儀を取り仕切った。
 食事の量が極端に減ってきた。時々入水する者がいて、次第に船客の数が減ってくる。ツドイが再開された。ツドイというのは、出航の日から夕食の時に欠かさず催される会合で、一人のインテリ風でスピーチのうまい、チーフと称する船員が死をめぐるさまざまな話をする。当初は参加しない者も少なからずあったが、嵐の後はほとんどの人が参加するようになった。
 「死は安楽です。そこでは、もはや戦う必要がないのです。ここにいる人たちは皆同じ心なのです。今は夜です。舷側から海上までの高さも見えません。皆で手をつなごう。そうして足を一歩前へ出す。それだけでいいのです」チーフの催眠術にかかったのかどうか、毎夜三人、五人と入水するようになった。死にゆく人の中には「お先に」とまるで風呂にでも入るような言い方で、おだやかに姿を消す人もある。
 残っている者は気ままで勝手放題の生活をし始めた。自分の船室でもないのに入り込んでそこを居室にしてしまう者、他人の荷物を開けて下着を探し着用する者、デッキで公然と性行為をする者など。道徳や常識が通用しない世界になった。精神に異常を来し意味不明の言動をする者も増えた。その間にも入水する者は絶えない。こうして八十数名いた船客は一人もいなくなった。

 この作品を読んで、荒唐無稽の絵空事と思うだろうか。私はそうは思わない。文学作品は、時として人生の根本問題をわれわれに突きつけるが、この小説は正にそれに当たる。
 作者は「人は何のために生きるか」と答の出ない問いを問うている。船に乗った人々が死に向かって降りられない旅を続けなければならないというのは、人生の縮図ではないだろうか。
 もう一つのテーマは「集団の狂気」であろう。人は集団になると、その集団の価値観や行動基準に支配されて、思ってもいなかった行動をすることがある。他国で数十名あるいはそれ以上の新興宗教の信者が集団で自殺したというようなニュースを耳にすることがあるが、これもその一例だろう。独裁国家、いったん所属したらやめることが出来ない団体や政党の成員も同様である。日米戦争に突入していった時期の日本陸海軍もまた同じではなかったか。
 作者は、幻の運命共同体「極楽船」が当てのない航海に出て、さまざまな過去を背負った乗客たちが極限状況で繰り広げる死と狂気を描いて、人生の意味を問いかけている。

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