ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

IとYOUー対立の構図

2012年05月21日 | エッセイ(日本語)
IとYOU-対立の構図
 誰でも知っているように、英語では常に自分のことはI、相手はYOUと単純明快なのに対し、われわれは時と場合に応じて自分については「わたくし」「わたし」「ぼく」「あたし」「おれ」「わし」などを使い分け、相手に対しても「あなた」「きみ」「おまえ」「あんた」などの中から適切なものを選んでいる。このほか地方によっては「てめえ(てまえ)」「われ」のように、本来自称だったものが転化した対称すらあるという多彩さだ。
 これを見て「日本語はなんと不便な言葉か。どうしてもっと簡単にできないのか」と日本語を習う外国人が言う。日本人の中にもそう思っている人が少なからずある。この言語現象は、一般的に次のように説明されることが多い。
 「われわれは相手と自分との相対的な位置関係(目上か、目下か、対等か)に応じて自分と相手の呼称を使い分けている。それを無視して、あえてどんな相手に対しても例えば「わたし」と「あなた」の一本槍で押し通せば、違和感が生じ、ひいては人間関係がそこなわれる」。
 しかし、外国人相手ならいざ知らず、この一般的な説明で満足する人は少ないだろう。そこで、もう一歩踏み込んだ考察を試みると、自分と相手を表す言葉には、数が多いということのほかに、いくつかの特徴があることに気づく。
 まず第一は、一人称、二人称の代名詞は、もとは自分と相手を直接示す言葉ではなく、別の意味であったものが転用されていることである。「私」は公に対する私であり、自分一人に関することである。「僕」はあなたのしもべということであった。「てまえ(ども)」は自分のすぐ前、つまり場所を意味している。「君」は君主であり、「あなた、おまえ」も元来方向や場所を指す言葉であった。
 第二は、歴史的に見ると、これらの言葉の寿命が非常に短いことである。例えば、「僕」は、明治期に入ってから口語として広まった。この言葉は、初めは自分を卑下する、へりくだった言い方だったものが、現在では改まった場面では使わない、少年用語、学生用語になってしまっている。相手を指す「きみ」「あなた」「おまえ」なども、言葉としてならいざ知らず、人称代名詞としてはその歴史を古代にまでたどって行くことができない。これはヨーロッパの諸言語の一人称、二人称代名詞が千年以上の歴史を持っているのと、非常に対照的である。
 第三は、一人称、二人称代名詞とも数が多いにもかかわらず、実際にはあまり用いられず、むしろできるだけこれを避けて、何か別の言葉で会話を進めていこうとする傾向が顕著なことである。
 われわれは、父親が子供に向かって「お父さんはね」と言ったり、学校の先生が生徒に向かって「先生の方を見なさい」と言ったりするように、相手から見て自分が何であるかを自称に用いている。
 対称にも、自分から見て相手が何であるかを表す「お母さん」や「課長」はもちろんのこと、「鈴木さん」「太郎くん」と相手の名前を使い、はては「運転手さん」「看護婦さん」と相手の職業まで動員する。
 言語学者の鈴木孝夫氏は、日本語の一人称、二人称の代名詞はタブーの性格を持っていると言う(『ことばと文化』岩波新書)。その部分を引用しよう。

 言語学においてタブーとは、ある対象なり事柄を、宗教的理由、恐怖感あるいは羞恥心などから、直接その名を口にすることを避け、どうしても名指すことが必要な場合には、間接暗示的に、何か他のことばを使ってそれに言及する行為をいう。(中略)
 間接暗示性を基本とする迂言形式であるタブー語は、長く使用されると、この暗示性が失われてくるため、次々と新しく言い換えられなければならないという宿命を持っている。
 現代日本語のいわゆる人称代名詞が、自分及び相手そのものを直接に指し示すことばを持たず、常に間接迂言的な表現を用い、しかも歴史的にも頻繁に交替してきたという事実は、正にタブーの性格を持っていると言わねばなるまい。
 
 では、なぜ人称代名詞がタブーになるのだろうか。これは私の推論であるが、日本の社会が対立回避社会だからではなかろうか。前にもふれたように、われわれは常に対立を避けるように、避けるようにと行動している。激しく言い争うと、あとあとまで影響するので、できるだけ対立を回避する。言い争いがやまないと、「まあまあ」と仲裁が入って、意見の対立は一時棚上げしてその場の和が保たれる仕組みになっている。この心理が、人称代名詞を使う場面でも同じように働くように思われる。
 もしIとYOUのような、どんな場合でも変わらない言葉を使えば、いかにも自分を押し出したり、相手を見据えるように感じられて、違和感を覚えると同時に、良くも悪くも、そこに相手を対等な人間として扱う対立の構図が立ち現れる。相手との関係にかかわりなく、常に同じ言葉で通す欧米の自称、対称は、相手との相対的な位置関係をいつも意識し、それに応じて言葉を使い分けるわれわれの関係性の原則になじまないのである。

やさしいことはいいことか(やさしさの功罪 その2)

2012年05月11日 | エッセイー個人
やさしいことはいいことか(やさしさの功罪 その2)
 「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きる資格がない」とはレイモンド・チャンドラーの小説に出てくることばだが、強さとやさしさは車の両輪のようなもので、どちらが欠けても困る。
 ところが、近年は強さよりやさしさが優位になり、あらゆる場面でやさしさが求められるようになっている。昔は、若い女性に結婚相手としてどんな男性がいいかと問うと「甲斐性のある人」と答える人が多かった。甲斐性があるとは、経済力があることで、更に生き方に一本筋が通っていて頼りがいがあればなおいいという意味も多少含まれていた。今は「やさしい人」という答が圧倒的に多いだろう。やさしさは世の中にあふれている。
 私の住んでいる町内の自治会で、妻が会費の値下げを提案しようとしたことがある。事前の根回しで賛同者を増やそうと、近所の主婦に趣旨を説明して歩いたところ、ある主婦から「私は争いごとは嫌いですから」と賛成、反対どちらがわにも付かないといわれたという。
 われわれが対立を回避する傾向が強いことは、すでにこのブログに書いたとおりだが(2010・7・29)、議論や交渉の場ともいえない町内の会合でもこの原則が生きている。これでは、利害が対立する交渉など、とてもできない。
 先日電車で老人に席を譲った若者の気配りについて、新聞に投書がのっていた(2012・4・24朝日新聞)。「ホームで待っている老夫婦に気づいた若い男性が席を立った。前から立っていたかのように、本を読んでいる。彼が作った一つの空席に老夫婦が向かうと、その隣に座っていた若い女性もさりげなく席を空け、別の車両に移っていった。その絶妙なタイミングに二人のやさしさを感じた」と投書者はいう。
 このごろは席を譲ろうとすると、遠慮されたり、まだ若いつもりの老人から断られたりすることがある。ここで押し問答はしたくないし、相手が受けるとしても、感謝されるほどのことをするわけではないから、礼をいわれればかえって照れくさい。そんな気持ちから、老人に気づかれないように席を立ったのだろう。まだ、老人が前に立っても席を譲らない若者のほうがずっと多いとは思うが、こういう繊細な神経の持ち主もいる。
 だが、やさしさ、繊細さが昂じると、かえって人間関係が不自然になってしまう。社会学者の土井隆義によると、昨今の中高生の人間関係は誰からも傷つけられたくないし、傷つけたくもないという繊細なやさしさで成り立っているようなものだが、それがかえって彼らの心をむしばんでいるという。彼らはいつも周囲から浮いてしまわないように神経を張り詰め、その場の空気を読む。自分の身近にいる他人の言動に敏感で、周囲の人間と衝突しないように、相手から反感を買わないようにと心がけることが日々を生きる知恵になっている。
 やさしい関係は、実は相手の機嫌をそこねないように神経を張り詰め、互いに感覚を研ぎ澄ます緊張度が高い関係で、彼らはこのような関係のもとで対人エネルギーを使い果たしてしまうのだという(「友だち地獄」ちくま新書)。
 また、やさしい若者は迷ったときに優柔不断になりやすい。自分で決断して失敗するのが怖いから、決断できないし、人にも相談できない。相談できそうな親しい人はやさしい人ということになるのだが、そういう人は助言したことが裏目にでたとき、自分のせいにされることを嫌ってはっきりものをいわない。
 やさしい若者は、強さをどこかに置き忘れている。これは、一つには彼らの生育環境に原因があると思われる。彼らは親の価値観と衝突するような価値観を自己の内面に育てていない。子どもに対して壁のように立ちはだかるのではなく、子どもに友だちのように接する関係を望む親が増えている。だから、思春期を過ぎても親に寄りかかり、いっこうに社会に出て自立しようとしない。学校の教師も同様に、厳しい先生ではなく、友だちのような接し方をする人が多い。
 もう一つ、強くない若者が生まれる原因と考えられることがある。大人の世界がやさしさを尊ぶ、対立を極端に回避する風潮になっているから、大人の世界を忠実に反映する子どもや青少年の世界もそうなったのだ。
 日本人はもともとやさしい国民性を持っているが、昔はそのやさしさを押し殺して強くならなければ、生存が保証されなかった。現代社会にやさしさが蔓延しているのは、かつての経済成長のおかげで社会保障などのセ-フティネットが不完全ながらもできて、人々が強くなくても生きていけるようになったからだろう。
(この記事は2011・8・11に掲出した「やさしさの功罪」の続編です)


目を見て話せは本当か

2012年05月01日 | エッセイー個人
目を見て話せは本当か
 「人と話をするときは、相手の目を見て」と言う人は、意外に多い。たしかに、そっぽを向いたまま話をするのは、相手に対して失礼だが、だからといって直視するのもむずかしい。一瞬ならともかく、長時間相手を見続けるのは気が引けて、つい視線をそらしてしまう。相手からじっと見られると、睨まれているように感じるし、覗き込むようなまなざしの場合は、心のなかを見透かされているような気がして落ちつかない。
 テレビドラマを見ていると、向かい合った二人のうちの一人が、つと立ち上がって窓際へ行き、相手に背をむけながら、話を続けるといった場面がよく出てくる。ことに男女が愛情を告白するようなところでは、決して相手を正視しながら話したりしない。これは、一つの演出の手法ではあるが、同様のことを、われわれは日常生活でもしばしばやっている。酒場のカウンターで隣り合わせに座って話すというのも、その例だろう。
 どうやら、われわれは他人と向かい合った状況で、双方が視線を合わせながら話をするのは苦手らしい。それにもかかわらず、「相手の目をみて話をしなさい」と言われるのは、一体何故か。
 実はこういうところにも、欧米文化が影を落としている。文化人類学者の井上忠司氏は、学術調査のためイタリアに滞在したとき、どこへ行っても出会うイタリア人の強いまなざしに当初閉口し、それに耐えるだけで、なにがしかの努力が必要だったという。イタリア人は並んで歩きながら話をしていても、いざ大事な話になると、立ち止まって対面の位置をとるのだそうだ。(「まなざしの人間関係」講談社現代新書)
 似たような話を北欧に駐在していた社員に聞いたことがある。北欧諸国では、パーティなどで乾杯をするとき、相手の目をじっと見ることが作法になっている。乾杯の発声をしたあと目を見なかったら、相手は見てくれるまで酒を飲まずに待っていたという。
 イタリア人、北欧人にかぎらず、一般に欧米の文化では、人と人とが向かい合っているとき、目をそらすのは、失礼とされている。交渉の席などで視線をそらす人は、自信がないか、何かやましいことがあると思われてしまう。欧米は強い視線の社会といえよう。
 それに対して、日本は弱い視線の社会である。われわれは、まなざしないしは視線にたいそう敏感で、互いにじっと目を見つめ合ったりすると、むしろ苦痛を感ずるほどである。特に自分の感情を告白するときなど、面と向かって話すことができない。他人の視線を恐れる視線恐怖症は、日本人に特異な神経症だといわれるが、これもこの間の事情を物語っている。
 井上氏によると、アラブ系の人は欧米人よりももっと強く相手を見つめ、終始睨むようにして語るという。昔テレビで見たアメリカの事件記者ものに、「インディアンは目上の人と話すとき、目を見つめるのは失礼だと子供に教え、白人教師はそれは逆だと教える」というくだりがあった。相手の目を見たり、まなざしを返したりする目の作法は、民族によってまったく異なるのである。
 われわれは欧米からの借り物でない、自前の視線作法を持つべきである。欧米から入ってきた作法でも、握手などはすっかり日本人の習慣として定着し、誰も不自然には感じなくなったけれども、人前でのキスや強いまなざしは、恥じらいの多い日本人には不向きである。