IとYOU-対立の構図
誰でも知っているように、英語では常に自分のことはI、相手はYOUと単純明快なのに対し、われわれは時と場合に応じて自分については「わたくし」「わたし」「ぼく」「あたし」「おれ」「わし」などを使い分け、相手に対しても「あなた」「きみ」「おまえ」「あんた」などの中から適切なものを選んでいる。このほか地方によっては「てめえ(てまえ)」「われ」のように、本来自称だったものが転化した対称すらあるという多彩さだ。
これを見て「日本語はなんと不便な言葉か。どうしてもっと簡単にできないのか」と日本語を習う外国人が言う。日本人の中にもそう思っている人が少なからずある。この言語現象は、一般的に次のように説明されることが多い。
「われわれは相手と自分との相対的な位置関係(目上か、目下か、対等か)に応じて自分と相手の呼称を使い分けている。それを無視して、あえてどんな相手に対しても例えば「わたし」と「あなた」の一本槍で押し通せば、違和感が生じ、ひいては人間関係がそこなわれる」。
しかし、外国人相手ならいざ知らず、この一般的な説明で満足する人は少ないだろう。そこで、もう一歩踏み込んだ考察を試みると、自分と相手を表す言葉には、数が多いということのほかに、いくつかの特徴があることに気づく。
まず第一は、一人称、二人称の代名詞は、もとは自分と相手を直接示す言葉ではなく、別の意味であったものが転用されていることである。「私」は公に対する私であり、自分一人に関することである。「僕」はあなたのしもべということであった。「てまえ(ども)」は自分のすぐ前、つまり場所を意味している。「君」は君主であり、「あなた、おまえ」も元来方向や場所を指す言葉であった。
第二は、歴史的に見ると、これらの言葉の寿命が非常に短いことである。例えば、「僕」は、明治期に入ってから口語として広まった。この言葉は、初めは自分を卑下する、へりくだった言い方だったものが、現在では改まった場面では使わない、少年用語、学生用語になってしまっている。相手を指す「きみ」「あなた」「おまえ」なども、言葉としてならいざ知らず、人称代名詞としてはその歴史を古代にまでたどって行くことができない。これはヨーロッパの諸言語の一人称、二人称代名詞が千年以上の歴史を持っているのと、非常に対照的である。
第三は、一人称、二人称代名詞とも数が多いにもかかわらず、実際にはあまり用いられず、むしろできるだけこれを避けて、何か別の言葉で会話を進めていこうとする傾向が顕著なことである。
われわれは、父親が子供に向かって「お父さんはね」と言ったり、学校の先生が生徒に向かって「先生の方を見なさい」と言ったりするように、相手から見て自分が何であるかを自称に用いている。
対称にも、自分から見て相手が何であるかを表す「お母さん」や「課長」はもちろんのこと、「鈴木さん」「太郎くん」と相手の名前を使い、はては「運転手さん」「看護婦さん」と相手の職業まで動員する。
言語学者の鈴木孝夫氏は、日本語の一人称、二人称の代名詞はタブーの性格を持っていると言う(『ことばと文化』岩波新書)。その部分を引用しよう。
言語学においてタブーとは、ある対象なり事柄を、宗教的理由、恐怖感あるいは羞恥心などから、直接その名を口にすることを避け、どうしても名指すことが必要な場合には、間接暗示的に、何か他のことばを使ってそれに言及する行為をいう。(中略)
間接暗示性を基本とする迂言形式であるタブー語は、長く使用されると、この暗示性が失われてくるため、次々と新しく言い換えられなければならないという宿命を持っている。
現代日本語のいわゆる人称代名詞が、自分及び相手そのものを直接に指し示すことばを持たず、常に間接迂言的な表現を用い、しかも歴史的にも頻繁に交替してきたという事実は、正にタブーの性格を持っていると言わねばなるまい。
では、なぜ人称代名詞がタブーになるのだろうか。これは私の推論であるが、日本の社会が対立回避社会だからではなかろうか。前にもふれたように、われわれは常に対立を避けるように、避けるようにと行動している。激しく言い争うと、あとあとまで影響するので、できるだけ対立を回避する。言い争いがやまないと、「まあまあ」と仲裁が入って、意見の対立は一時棚上げしてその場の和が保たれる仕組みになっている。この心理が、人称代名詞を使う場面でも同じように働くように思われる。
もしIとYOUのような、どんな場合でも変わらない言葉を使えば、いかにも自分を押し出したり、相手を見据えるように感じられて、違和感を覚えると同時に、良くも悪くも、そこに相手を対等な人間として扱う対立の構図が立ち現れる。相手との関係にかかわりなく、常に同じ言葉で通す欧米の自称、対称は、相手との相対的な位置関係をいつも意識し、それに応じて言葉を使い分けるわれわれの関係性の原則になじまないのである。
誰でも知っているように、英語では常に自分のことはI、相手はYOUと単純明快なのに対し、われわれは時と場合に応じて自分については「わたくし」「わたし」「ぼく」「あたし」「おれ」「わし」などを使い分け、相手に対しても「あなた」「きみ」「おまえ」「あんた」などの中から適切なものを選んでいる。このほか地方によっては「てめえ(てまえ)」「われ」のように、本来自称だったものが転化した対称すらあるという多彩さだ。
これを見て「日本語はなんと不便な言葉か。どうしてもっと簡単にできないのか」と日本語を習う外国人が言う。日本人の中にもそう思っている人が少なからずある。この言語現象は、一般的に次のように説明されることが多い。
「われわれは相手と自分との相対的な位置関係(目上か、目下か、対等か)に応じて自分と相手の呼称を使い分けている。それを無視して、あえてどんな相手に対しても例えば「わたし」と「あなた」の一本槍で押し通せば、違和感が生じ、ひいては人間関係がそこなわれる」。
しかし、外国人相手ならいざ知らず、この一般的な説明で満足する人は少ないだろう。そこで、もう一歩踏み込んだ考察を試みると、自分と相手を表す言葉には、数が多いということのほかに、いくつかの特徴があることに気づく。
まず第一は、一人称、二人称の代名詞は、もとは自分と相手を直接示す言葉ではなく、別の意味であったものが転用されていることである。「私」は公に対する私であり、自分一人に関することである。「僕」はあなたのしもべということであった。「てまえ(ども)」は自分のすぐ前、つまり場所を意味している。「君」は君主であり、「あなた、おまえ」も元来方向や場所を指す言葉であった。
第二は、歴史的に見ると、これらの言葉の寿命が非常に短いことである。例えば、「僕」は、明治期に入ってから口語として広まった。この言葉は、初めは自分を卑下する、へりくだった言い方だったものが、現在では改まった場面では使わない、少年用語、学生用語になってしまっている。相手を指す「きみ」「あなた」「おまえ」なども、言葉としてならいざ知らず、人称代名詞としてはその歴史を古代にまでたどって行くことができない。これはヨーロッパの諸言語の一人称、二人称代名詞が千年以上の歴史を持っているのと、非常に対照的である。
第三は、一人称、二人称代名詞とも数が多いにもかかわらず、実際にはあまり用いられず、むしろできるだけこれを避けて、何か別の言葉で会話を進めていこうとする傾向が顕著なことである。
われわれは、父親が子供に向かって「お父さんはね」と言ったり、学校の先生が生徒に向かって「先生の方を見なさい」と言ったりするように、相手から見て自分が何であるかを自称に用いている。
対称にも、自分から見て相手が何であるかを表す「お母さん」や「課長」はもちろんのこと、「鈴木さん」「太郎くん」と相手の名前を使い、はては「運転手さん」「看護婦さん」と相手の職業まで動員する。
言語学者の鈴木孝夫氏は、日本語の一人称、二人称の代名詞はタブーの性格を持っていると言う(『ことばと文化』岩波新書)。その部分を引用しよう。
言語学においてタブーとは、ある対象なり事柄を、宗教的理由、恐怖感あるいは羞恥心などから、直接その名を口にすることを避け、どうしても名指すことが必要な場合には、間接暗示的に、何か他のことばを使ってそれに言及する行為をいう。(中略)
間接暗示性を基本とする迂言形式であるタブー語は、長く使用されると、この暗示性が失われてくるため、次々と新しく言い換えられなければならないという宿命を持っている。
現代日本語のいわゆる人称代名詞が、自分及び相手そのものを直接に指し示すことばを持たず、常に間接迂言的な表現を用い、しかも歴史的にも頻繁に交替してきたという事実は、正にタブーの性格を持っていると言わねばなるまい。
では、なぜ人称代名詞がタブーになるのだろうか。これは私の推論であるが、日本の社会が対立回避社会だからではなかろうか。前にもふれたように、われわれは常に対立を避けるように、避けるようにと行動している。激しく言い争うと、あとあとまで影響するので、できるだけ対立を回避する。言い争いがやまないと、「まあまあ」と仲裁が入って、意見の対立は一時棚上げしてその場の和が保たれる仕組みになっている。この心理が、人称代名詞を使う場面でも同じように働くように思われる。
もしIとYOUのような、どんな場合でも変わらない言葉を使えば、いかにも自分を押し出したり、相手を見据えるように感じられて、違和感を覚えると同時に、良くも悪くも、そこに相手を対等な人間として扱う対立の構図が立ち現れる。相手との関係にかかわりなく、常に同じ言葉で通す欧米の自称、対称は、相手との相対的な位置関係をいつも意識し、それに応じて言葉を使い分けるわれわれの関係性の原則になじまないのである。