渡辺姓の探検室

全国第五位の大姓 渡辺氏の歴史を探るブログです。

嵯峨天皇陵

2007-09-13 19:08:35 | 渡辺さんの由来
《嵯峨天皇陵》所在地 右京区北嵯峨朝原山町
陵墓名は嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)といいます。
大覚寺(嵯峨院)後ろの山腹に嵯峨天皇陵があります。民家の裏山ともいえる所です。天皇陵入口には石碑があり、そこには陵墓へ続く階段があります。駐車場もないので、自動車の方は大覚寺駐車場に入れるしかないでしょう。
陵墓への道は整備されていますが、山道を15分程登らなければなりません。少し息切れしますよ。
しかし、参道から望む嵯峨野の風景は格別ですよ。

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嵯峨院と大覚寺

2007-08-19 16:28:24 | 渡辺さんの由来
《嵯峨院と大覚寺》所在地 京都市右京区嵯峨大沢町4
嵯峨天皇は、皇太子時代から北嵯峨の地を愛され山荘を持っていました。天皇に即位してからも狩猟の帰りに休んだり、宴を開いて漢詩を詠んだりする別荘として使われました。
譲位し上皇となると、ここを整備し嵯峨院とし皇太后橘嘉智子とともに晩年を過ごしました。これが現在の大覚寺の前身・嵯峨離宮です。
嵯峨の地名は、唐の都長安北方の景勝地嵯峨山に由来するといわれています。
嵯峨天皇との親交が深い空海は、飢饉に際して嵯峨院の持仏堂五覚院に五大明王(大覚寺本尊)を安置し祈願したといわれています。

嵯峨天皇の崩御後の貞観18年(876) 皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺院に改めます。これが大覚寺です。淳和天皇の皇子恒貞親王を開山(初代住職)としています。
鎌倉時代には、亀山法皇や後宇多法皇がここで院政をしき「嵯峨御所」とも呼ばれました。特に、亀山法皇・後宇多法皇の系統は「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と対立し、南北朝分裂の遠因になりました。

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嵯峨天皇

2007-07-12 15:01:53 | 渡辺さんの由来
《嵯峨天皇》
第五十二代天皇 はじめ神野(かみの)親王
延暦5年(786)生~承和9年(842)崩御 在位:大同4年(809)~弘仁14年(823)
桓武天皇の第二皇子 母は藤原乙牟漏 同母兄に平城天皇 異母弟に淳和天皇他
皇后は橘嘉智子(檀林皇后)

病弱の兄平城天皇はわずか3年で退位し大同4年即位しました。しかし、即位後すぐに大きな試練が待ち構えていました。
●薬子の変
平城京に静養していた平城上皇は再び国政に関心を示し、藤原式家の藤原仲成・薬子らと政界復帰を画策しました。上皇は大同4年(809)11月平城京に新宮殿の造営を始め、翌大同5年(810)には平城京修復の功労者に対し独自に叙位を行い、同年9月には「平城京遷都」の詔まで出しました。
この間、嵯峨天皇は新たに蔵人所を設けて藤原冬嗣らを配置し、天皇から指示命令の機構改革を行いました。
しかし、これ以上は「二所の朝廷」の分裂状態を放置できず、ついに嵯峨天皇は弘仁元年(810)9月10日「藤原仲成の佐渡左遷、薬子の宮中追放」を決定します。
これに対し平城上皇側は東国へ逃亡しようとしますが、坂上田村麻呂によって上皇軍の動きは封じ込まれ、仲成は射殺され薬子は自殺し、上皇は剃髪して仏門に入りました。
この結果、平城上皇の第三皇子高岳親王は廃され、異母弟の大伴親王(淳和天皇)皇太弟に立てられました。
その後、在位30年間は政局も安定し宮廷文化の華がひらきました。

嵯峨天皇は、幼くして聡敏で学問を好み、周りに霊気立ちこめ、自ずから天子としての器量があり、漢詩や書道に興味をもち、長じて経書や史書を博覧したといわれています。
嵯峨天皇、空海、橘逸勢(嵯峨天皇皇后の従兄)は能筆家として後世「三筆」と称えられています。天皇は、空海(弘法大師)や小野篁、橘逸勢などの人材も積極的登用しました。
また、律令制を整備するため『弘仁格』『弘仁式』が編纂され、弘仁10年(819)には『続日本紀』に次ぐ史書の編纂を命じています。
晩年を過ごした嵯峨院には多くの文化人を集め、彼らを支援し平安の華やかな文化の基礎を作る働きをしました。
嵯峨天皇は皇妃を寵愛し多くの皇子女に恵まれました。朝廷財政の逼迫していることから、皇子女を臣籍降下させ源朝臣姓を与えました。世にいう“嵯峨源氏”の始まりです。

嵯峨天皇は承和9年(842)7月嵯峨院で崩御しました。陵墓は嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)に造られましたが、葬送は遺詔により徹底した薄葬であったといいます。
天皇が崩御は、次の藤原北家の台頭をもたらすことになります。

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渡辺さんの由来

2007-07-01 16:09:00 | 渡辺さんの由来
渡辺氏は、嵯峨天皇の皇子左大臣源融(とおる)を遠祖とする。融は『源氏物語』の主人公光源氏のモデルともいわれる人物である。
融の孫源仕(つこう)は武蔵守となり、武蔵国足立郡箕田(埼玉県鴻巣市)に下向し、箕田仕と名乗った。
仕の子が箕田源次宛、宛の子が源綱(つな)である。
源綱は、源満仲の娘婿源敦の養子となり、母方の里である摂津国渡辺(大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべのつな)と名乗り、渡辺氏の祖となった。渡辺綱は摂津源氏源頼光の郎党となり、武勇の誉れ高く四天王の筆頭と称えられた。
渡辺氏は、旧淀川河口付近を本拠地に渡辺党という武士団をつくり、瀬戸内海の水運を握り、水軍の棟梁的存在でもあった。また皇室領の大江御厨を統轄し、御所では天皇の身辺警護(滝口の武士)や、衛門府、兵衛府などの官職に就いた。


源頼光の後裔であり、皇室警護の任にあった源頼政の郎党として、宇治合戦では平家軍と戦い討死している。
渡辺氏は、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したのである。

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