渡辺姓の探検室

全国第五位の大姓 渡辺氏の歴史を探るブログです。

三士塚は渡辺氏の墳墓?

2008-02-27 08:08:44 | 渡辺さんの由来
氷川八幡神社から北西へ約350メートルに、別名「三士塚」と呼ばれる箕田2号墳があります。
箕田古墳群の中で2番目の規模をもつ古墳で、現状では直径23m、高さ3mの円墳です。6世紀後半に築造されたといい、築造当時は直径32mの大型古墳であったともいわれています。
「三士塚」の南側一帯は箕田館跡の推定地になっており、このことから武蔵守源仕や妻子の墓とする古記述が残されています。
後世の人が両者を結びついて伝承したものと考えられています。

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源宛

2008-01-28 08:10:52 | 渡辺さんの由来
源宛(みなもとのあつる)
生年不詳~天暦7年(953)歿。
武蔵守源仕の子で、武蔵国箕田郷に住み箕田源次と称しました。
藤原純友を討伐した「天慶の乱」では父に従って西国に赴き武功を挙げています。
『今昔物語』では「魂太く心賢き兵」と評されています。


「天慶の乱」の経過は次の通り
天慶2年(939)12月藤原純友が摂津国須岐駅を襲撃、朝廷は天慶3年(940)1月小野好古を山陽道追捕使に源経基を次官に任じた。
同年2月東国の平将門が滅亡により、朝廷は純友討伐に兵力を投入。
その後も純友は西国各地を襲撃。
天慶4年2月朝廷軍は純友の本拠日振島を攻撃し純友軍は大宰府を占領。
同年5月小野好古・大蔵春実が率いる朝廷軍が九州に到着し純友軍は大敗。
同年6月純友は伊予で捕らえられ獄中死した。

『今昔物語』には坂東平氏祖の平良文と武将としての優劣を一騎打ちで決しようとしたが引き分けとなり、以後両者は仲良く暮らしたことを記している。
※『今昔物語』では「源充」となっている。

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氷川八幡社 鴻巣市

2008-01-27 08:55:33 | 渡辺さんの由来
以下、鴻巣市教育委員会の説明文です。
氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮祀したものであり、字八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社のために奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)に六孫王源経基がが勧請したものといわれる。
昭和62年3月
鴻巣市教育委員会

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箕田源氏の発祥地 鴻巣市箕田

2008-01-26 09:43:01 | 渡辺さんの由来
埼玉県鴻巣市箕田は源仕→源宛→源綱の三代が本拠地とした土地で箕田源氏発祥地といわれています。
箕田氷川八幡神社には箕田源氏発祥の顕彰碑「箕田碑」があります。
 以下、鴻巣市教育委員会の説明文です。

鴻巣市指定金石文 【箕田碑】昭和36年7月11日指定
 箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。
 源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
 箕田碑はの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永七年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。
 初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
       あとをたづねよ むさしのはら
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
 鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。
昭和62年3月
鴻巣市教育委員会

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源仕

2007-12-28 16:17:54 | 渡辺さんの由来
《源仕》
源仕(みなもとのつこう)箕田源氏初代。従五位下。
寛平3年(891)生~天慶5年(942)歿 享年52歳 源昇の次男。兄に適、弟に是茂がいます。
仕は“武蔵権介”(武蔵国司の次官)に任じられて武蔵国へ赴任し、任期が切れた後も武蔵国箕田庄(埼玉県鴻巣市箕田)に居を構え、箕田氏を称しそのまま土着しました。当時は藤原氏が官職を独占し始め、中央での任官は諦め地方に新天地を求めたようです。
仕は武勇に優れ家の子・郎党を養い、周辺の土地を開墾し勢力を拡大していったようです。そのため
延喜19年(919)には新任国司の高向利春と対立しています。
一方、「承平・天慶の乱」が起こると武蔵権介源経基(清和源氏の祖)に仕え武功をたてています。 


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源昇の墓所

2007-12-21 14:35:08 | 渡辺さんの由来
《源昇》
源昇(みなもとののぼる)
貞観元年(859)生~延喜18年(918)6月29日卒 享年71歳 源融の次男。
寛平6年(894)に参議、延喜8年(908)に中納言、そして大納言を歴任し正三位となりました。「河原大納言」と号しました。
父源融の死後、父の供養のために山荘棲霞観に阿弥陀三尊を本尊とした棲霞寺(せいかじ)を建立しました。父源融と同じ清涼寺に供養塔があります。本堂前の「一切経蔵」の近くにあります。

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源融の墓所

2007-12-09 23:59:34 | 渡辺さんの由来
清涼寺境内の多宝塔の後ろに源融の墓所があります。その右側には嵯峨天皇宝塔と開山の然上人墓所があります。

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源融

2007-12-04 14:15:55 | 渡辺さんの由来
《源融》
源融 (みなもとのとおる) 嵯峨源氏融流初代。
弘仁13年(822)生~寛平7年(895)8月25日卒 嵯峨天皇の第十二皇子、母は大原全子。
承和5年(838)に元服し、侍従、右衛門督、大納言などを歴任し、貞観14年(872)に従一位左大臣となる。死後正一位を追贈された。
源融は『源氏物語』の主人公光源氏のモデルといい、豪奢な生活を送ったと伝えられる。
陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営し「河原左大臣」と号し、また別邸として嵯峨野に棲霞観(せいかかん 現在の嵯峨釈迦堂清凉寺)や、宇治に別荘(現在の宇治平等院)を造った。
六条河原院の塩は大阪湾の尼崎市辺りの汐を汲んで運ばれたと伝えられ、尼崎には源融が汐を汲んだという伝承や源融を祭神とする琴浦神社がある。
陽成天皇の後の皇位を争ったが藤原基経に退けられたという。

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源融の別荘地清涼寺

2007-12-03 17:49:40 | 渡辺さんの由来
《清涼(せいりょう)寺 》通称嵯峨釈迦堂 所在地 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
浄土宗の寺院。
ここは、嵯峨源氏の祖源融の別荘栖霞観(せいかかん)があった所です。死後寛平8年(896)に子息が棲霞寺として「阿弥陀三尊」を祀る阿弥陀堂が建立しました。その後に東大寺の僧然(ちょうねん)が宋より持ち帰った「釈迦如来像」を安置するため清涼寺が建立されました。この「釈迦如来像」は日本三如来の一つといわれています。

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源融と六条河原院跡

2007-11-29 00:09:41 | 渡辺さんの由来
国道1号線(五条通り)の五条大橋西詰から南に下った所に、「源融河原院跡」の石碑があります。源融の邸宅「六條河原院」は広大で優美なものであったといわれ、北は五条、南は六条、東は鴨川、西は麩屋町通辺りであったといわれています。(一辺250mの広さ)
陸奥国塩釜の風景を真似て造営したといわれ、大阪湾から海水を運ばせたり、在原業平などの歌人・文人たちを招いて遊興の場に使われたといわれています。「河原左大臣」の通称はここから来ています。
なんとも贅沢ですね。
さらに、宇治平等院の地も、もとは源融が営んだ別荘地だったというのですから驚きです。

《六条河原院跡》 所在地 下京区木屋町通五条下る東側
木屋町五条を下がった高瀬川の東側です。

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