今日も朝、5:00に目覚める。
暗闇に目が慣れてから、電灯を点ける。
電灯に目が慣れてから、作晩、眠る前まで読みかけの本を開く。
『흰 すべての、白いものたちの』

韓 江 ハン・ガン 著
夜が明ける前に、読了。
作晩、就寝前に、読み始めた時、「霧」の章。(P.27)
ああ、この映像の描写は、ここは、ワルシャワ蜂起博物館だと、気付いた。
私の記憶と、ハン・ガンの文章と、私の中で、あの場所で生じた感情が、蘇り、交錯する。
『少年が来る』を書き終わったあと、「しばらくどこかへ行って休むのはよさそうに思えた。」(P.174 「作者のことば」)とあった。
『少年が来る』を読み終えたとき、理不尽にも虚しく死んでいった人たちと、ここまで対峙して、文字に表現するきつさに、精神状態は耐えられたんだろうかと、私は気になった。
この一文を読んで、私は、「やっぱりだ」と思った。
間違いなく、何をすべきか、自覚するのだけれど、そしてその自覚は、間違いなく、自分をも壊していく課程なのだと、私は思う。
だから、「しばらくどこかへ行って休むのはよさそうに思えた。」という、修復の時間と場所が必要なのだと思う。
ハン・ガンも、また自分の意志と関係なく、殆ど偶然というか成り行きで、そういう「場所の記憶」のあるところへ、行ってしまうのだと思った。
『흰 すべての、白いものたちの』を読んで、少し、自分のことに、分別がついたような、気がした。
それにしても、平野啓一郎の「解説」は、いらない。