花散らしの雨がふる花冷えの・・・・という書き出しをしたい頃なのですが、それより「氷雨」という一日の東京でした。
今年はこの寒い天候のせいか長くお花見を楽しむことができました。
ひなちなは3月中旬に修善寺の寒桜から、今年のお花見を楽しみました。
4月の第一土曜日には、墨堤(隅田川堤 浅草側と向島側)。
江戸川橋から面影橋の神田上水、神田上水の上流の神田川。善福寺池。
帰り道に哲学堂とそれぞれの桜を楽しんできました。
「花より団子」という言葉がとってもよく似合うひなちなではありますが(充分に自覚しておりますハイ)桜に関しては
団子より酒よりかも!!花であります 。
桜は題詠にもなっておりますので、とにかくとにかく歌を作らねばならないから・・・というホンネの理由もありますが・・・・・
今日はその桜のお話ではなく、
神田上水 面影橋にある「山吹の里」のことについて・・・・
神田川の江戸川橋から新目白通りの神田上水沿いに桜並木道と緑道が続いている。
このあたりの神田上水は 江戸初期からの水道としての水路でかなり深く掘ってある。
そのために護岸がとても高い!
その高い護岸を埋め込むように枝を伸ばす桜大樹の並びは壮観であります。
護岸がコンクリートであることに、風情がない と評する向きもありますが、ここは江戸時代、明治の初めまで江戸町民の命の元である「水」を供給していたところ。
桜の組み合わせは、命の営みの健気さ を感じて私は好きである。
この桜の道をどんどんいくと、
面影橋に到着する。面影橋とはなかなか すてきな語感をもっていて、事実小説にも歌にもいっぱい使われています。
この橋のかたわらに「山吹の里」の石碑がたっている。
みての通りかなり古いものである。
ここで「山吹の故事」について ちょっと古典より引用してみましょう
太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。定正上総の庁南に軍を出す時、山涯の海辺を通るに、「山の上より弩(おほゆみ)を射懸けられんや、又潮満ちたらんや計り難し」とて危ぶみける。折ふし夜半の事なり。持資、「いざわれ見来らん」とて馬を馳出し、やがて帰りて、「潮は干たり」といふ。「如何にして知りたるや」と問ふに、遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知るとよめる歌あり。千鳥の声遠く聞えつ」と言ひけり。又何れの時にや、軍を返す時、これも夜の事なりしに、利根川を渡らんとするに、暗さは暗し浅瀬も知らず。持資また、「底ひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたてといふ歌あり。波音荒き所を渡せ」と言ひて事無く渡しけり。持資後に道灌と称す。
太田道灌は江戸城を最初に築いた人であるということで、「道灌」を冠する地名も多くあるなど、江戸町民からはとても愛されています。
徳川家康の側室に「お梶の方」という人かいますが、彼女はこの道灌の子孫ということで、尊敬をもって接しられました。
後水尾天皇の中宮には秀忠の娘、和子が入内しますが(平清盛の娘、徳子 以来)家康はこのお梶の方との娘市姫を・・という計画であったという、説もあります(市姫は4歳で夭折してしまいました)。
家康の側室の中では 血筋的には名門ですから、入内するための条件には必要だったのでしょう!
余談になりますが、秀忠の娘和子が内裏に入ったら、織田信長によって滅ぼされた、和子の母、お江の実家浅井氏の女性がかなり女官として採用(?)されています。
京の慣習や内裏のいろいろに便利を図ったのでしょうか?少なくとも三河や関東の女性では勤まらないと判断していたのでしょうね幕府の方々は・・・・
お梶の方は関ヶ原にも家康に同道いたします。
そこで名前を「お勝ちの方」と変えています。
道灌に 山吹の枝を差し出した少女と彼女を家康はだぶらせたのかもしれません。
道灌の霊力を担いだのかもしれません。
おかじをお勝ち とした家康。
話は戻りますが、神田上水開発責任者(笑)大久保某は「主水」という名前をいただきます。
ふつうは「もんど」と読みますが、上水であるので濁ってはいけないということで
「もんと」とよむように言ってます。縁起担ぎの家康じい様です。
石碑は見てのとおりとても古いものです。
鎌倉武士を鑑とした江戸期の武士たち。参勤交代に伴って江戸にきた全国の武士たちもここには来ていたんだろうなああと思いました。
山吹の里はここ 武蔵の国豊島郡高田村以外に埼玉県の越生(おごせ)にあります。
どちらが山吹の故事の地であるかはわかりませんが、何か所もあるということが 道灌への尊敬のしるしだと思います。
道灌は生涯に多くのすぐれた和歌を残しています。
また紹介していきたいと思っております。