フォーミュラ1なかりせば。
そんなことを思う,コンストラクターです。
確かに,フォーミュラ1での活躍はいまでも印象に残っています。いますが,フォーミュラ1での活動が,ほかのカテゴリでの存在感を急激に落とす,その要因になってしまったことがもったいない,と思うのです。
今回はレーシングなお話,マーチ・エンジニアリング社について書いていこう,と思います。
個人的に思い浮かぶレーシング・マシンは,ちょっとマニアでありますが,F2マシンであったり国際F3000,そしてグループCを戦っていたマシンであります。
まだまだ免許適齢には程遠い年齢だったころ,土曜日の午後だったり日曜日には国内F2選手権やF3000選手権の中継があったように記憶しています。そのときに,鈴鹿やFISCOのグリッドに並んでいたのが,マーチが手掛けるマシンだったわけです。
その後,フォーミュラについての技術規定が変更になって国際F3000規定へと移行すると,マーチも引き続きマシン供給を行います。思うに,この時期のマーチ社は最も存在感が強かったのではないでしょうか。
マーチ社にとって岐路となったのは,このあとの時期ではなかったかな,と思います。オープンホイーラーで言えば,トップ・フォーミュラへの参戦が始まり,グループCマシンで考えるならば,日産とのパートナーシップが終了した時期,であります。
恐らく,日産がグループCマシンの製作をマーチ社からローラ社へとスイッチした,その背景にはマーチ社の資源がフォーミュラ1へと集中していったことが作用しているのではないか,と思います。日産はこの時期,グループCの体制を見直していたと言います。水野さんがグループC開発のために呼ばれた時期だそうです。エンジンにしても,それまでの手堅い(と好意的に書けば書けますが,実際にはちょっとばかり重かったようです。)設計を抜本的に見直しはじめた時期とされます。となると,シャシー・エンジニアリングにしても抜本的な見直しが求められていたとしても,それほどの不思議はありません。
このときに,日産のリクエストに応えられる体制があったか,となると,フォーミュラ1での活動を最優先していただろうマーチの姿が見えるように思うのです。日産の求めるスケジュールでマシンを製作することが,恐らく無理だったのではないかな,と思うわけです。
フォーミュラ1での活動を振り返るに,現代のフォーミュラ1,その萌芽とも言えるような要素が落とし込まれるなど,時代を部分的にせよ飛び越えた設計がされていたように思います。それだけに,と言いますかその代わり,と言いますか,相当の資源を投入する必要があったものと思います。加えて参戦後期には資金的な問題(当時のメイン・スポンサーにまつわる問題に巻き込まれた)もあって,屋台骨が相当に揺らぐことになったように思います。
伝統あるレース屋さん,と言いますか技術屋集団ではありましたが,残念ながらいまはその名前を見つけることができない。彼らが現代にも活動を継続していたならば,どのようなカテゴリに魅力を見出し,クルマをリリースしていただろうか,とちょっとばかりパラレル・ワールドを想像してみたりします。
そんなことを思う,コンストラクターです。
確かに,フォーミュラ1での活躍はいまでも印象に残っています。いますが,フォーミュラ1での活動が,ほかのカテゴリでの存在感を急激に落とす,その要因になってしまったことがもったいない,と思うのです。
今回はレーシングなお話,マーチ・エンジニアリング社について書いていこう,と思います。
個人的に思い浮かぶレーシング・マシンは,ちょっとマニアでありますが,F2マシンであったり国際F3000,そしてグループCを戦っていたマシンであります。
まだまだ免許適齢には程遠い年齢だったころ,土曜日の午後だったり日曜日には国内F2選手権やF3000選手権の中継があったように記憶しています。そのときに,鈴鹿やFISCOのグリッドに並んでいたのが,マーチが手掛けるマシンだったわけです。
その後,フォーミュラについての技術規定が変更になって国際F3000規定へと移行すると,マーチも引き続きマシン供給を行います。思うに,この時期のマーチ社は最も存在感が強かったのではないでしょうか。
マーチ社にとって岐路となったのは,このあとの時期ではなかったかな,と思います。オープンホイーラーで言えば,トップ・フォーミュラへの参戦が始まり,グループCマシンで考えるならば,日産とのパートナーシップが終了した時期,であります。
恐らく,日産がグループCマシンの製作をマーチ社からローラ社へとスイッチした,その背景にはマーチ社の資源がフォーミュラ1へと集中していったことが作用しているのではないか,と思います。日産はこの時期,グループCの体制を見直していたと言います。水野さんがグループC開発のために呼ばれた時期だそうです。エンジンにしても,それまでの手堅い(と好意的に書けば書けますが,実際にはちょっとばかり重かったようです。)設計を抜本的に見直しはじめた時期とされます。となると,シャシー・エンジニアリングにしても抜本的な見直しが求められていたとしても,それほどの不思議はありません。
このときに,日産のリクエストに応えられる体制があったか,となると,フォーミュラ1での活動を最優先していただろうマーチの姿が見えるように思うのです。日産の求めるスケジュールでマシンを製作することが,恐らく無理だったのではないかな,と思うわけです。
フォーミュラ1での活動を振り返るに,現代のフォーミュラ1,その萌芽とも言えるような要素が落とし込まれるなど,時代を部分的にせよ飛び越えた設計がされていたように思います。それだけに,と言いますかその代わり,と言いますか,相当の資源を投入する必要があったものと思います。加えて参戦後期には資金的な問題(当時のメイン・スポンサーにまつわる問題に巻き込まれた)もあって,屋台骨が相当に揺らぐことになったように思います。
伝統あるレース屋さん,と言いますか技術屋集団ではありましたが,残念ながらいまはその名前を見つけることができない。彼らが現代にも活動を継続していたならば,どのようなカテゴリに魅力を見出し,クルマをリリースしていただろうか,とちょっとばかりパラレル・ワールドを想像してみたりします。