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上杉鷹山・改革

2016-03-16 11:27:30 | お話
🌸🌸上杉鷹山・改革🌸🌸


「受け継ぎて 国の司(つかさ)の 身となれば 忘るまじきは 民の父母」

明和4年(1767年)、鷹山が17歳で上杉家の家督を継ぎ、
米沢藩主となったときに詠んだ歌です。

当時、17歳と言う年齢で家督を継ぐ事は、珍しいことではありませんでしたが、

若い藩主が「民の父母となる」という決意をしたところに、
強く胸を打たれます。

2年後、
鷹山は、江戸から国許へと旅立ちました。

江戸の藩邸で、藩財政がいかに逼迫しているかを聞いてはいましたが、

領民が重税にあえいで夜逃げをするほどに荒れた米沢藩の実情を目の当たりにすると、

さすがの鷹山も気が滅入りそうになったのでした。

しかし、

鷹山は、若くとも「民の父母」。

守るべき者のために、立ち上がらねばなりません。


まず鷹山は、自らが倹約する姿勢を家臣や領民に見せることが大事であると考え、

藩主の生活費を、1,500両(約9000万円)から209両(約1250万円)に減額しました。

日常の食事は一汁一菜、衣服は綿とし、
50人もいた奥女中を、9人に減らしました。

さらに鷹山は、支出を減らすために、
上杉家に伝わるさまざまな虚礼、習わし、必要以上にお金のかかる行事などを、全部廃止しました。

これについては、一部の重臣たちから、
米沢藩の体面に関わると強い反対を受けましたが、

鷹山は、頑として譲りませんでした。

そうして、自ら率先して倹約を行いながら、
家臣たちには帰農を奨励しました。

鷹山の改革により、武士たちが荒れ地を開墾して新田を開いたり、

橋の修復をしたり、

また武家の妻女も、織物に勤しむなど、

上杉家中は、従来の武士階級のしきたりを離れて、

生産活動に従事するようになっていったのです。

鷹山は、農民や職人たちに対しても、
新しい作物を作ったり、特産物を増やしたりすることを奨励しました。

それが功を奏し、やがて、米沢藩では、
米や麦の生産量も増え、

お金になる漆や絹織物なども作られるようになりました。

こうして藩財政は、少しずつ改善されていったのです。

さらに、

鷹山は、飢饉に備えて、非常食も普及させました。

そのため、天明の大飢饉の折にも、周りの藩に比べ、米沢藩の餓死者は少なかったといわれています。

また鷹山の改革には、驚いたことに、

現代の「年金」や、「子ども手当」に相当するような制度もあったのです。

70歳以上の老人は、村全体で面倒を見てやり、

貧しくて結婚できない若者には、土地を提供してあげしました。

貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていましたが、

彼らに、小さな川、池、沼での鯉の養殖を勧めました。

しばらくして、鷹山の狙い通り、美しい錦鯉が江戸で飛ぶように売れはじめると、

老人たちは稼ぎ手としての生き甲斐と誇りを取り戻していったのです。

このように、

鷹山の改革は、藩から領民に対して必要な「扶助」を施しながら、

武士や農民の「自立・自助」を促し、

同時に、
村全体で、助け合う「互助」のシステムを築き上げていく、というものでした。

平洲の教えを守り、

まさに民の父母となり、

「民と労苦を分かち合う」

という姿を貫いた鷹山、

彼の改革は、およそ30年という長い年月をかけて行われ、

気の遠くなるような道を、一歩一歩進んでいきました。


そして、

ついに城下のはずれで、
「棒杭の商い」が起こります。

人気のない所に、棒杭がポツンと立っています。

杭に吊るされたザルの中には、
握り飯、栗、干し柿、野菜、わらじ、火打ち石、合羽など、

生活や旅の必需品が入っていますが、売る人間はいません。

棒杭には、値段表が、ぶら下げてあり、
買う人は、この値段表に応じて、きちんと支払ってから、必要なものを持ち帰るのです。

勘定は、毎日ピタリと合いました。

棒杭の商いは、農作物が豊かに実っただけでは、成り立ちません。

人々の心が、豊かで美しい状態であって始めて、
この商いを成立させることができるのです。


領民の逃散が相次ぎ、荒れ果てていた米沢の地。

そこが今、
豊かな自然と、人々の温かい心が溢れる
「アジアのカルディア」
に生まれ変わったのです。


かつて米沢の地が荒れていたのは、

財政に問題があっただけでなく、

人の心が荒れていたからなのです。

荒れた心を整えることこそが、

鷹山の改革の本質であり、

平洲が鷹山に説き続けた
「治者の務め」でした。


鷹山は、

さらに、

「治者に父母としての愛情を求める一方、

人民の側にも、子として学問の道に勤しみ、

国家有用の人材となることを期待する」

という平洲の教えを実現するために、

「興譲館(こうじょかん)」

という学校を開き、人材の育成に努めました。

「興譲館」と命名したのは平洲で、

「譲りあう心から美徳が生まれる」

という持論から、

「譲りあう心を興(おこ)す」

という意味で、「興譲館」と名付けられたのでした。


平洲は、鷹山に請われ、生涯に3度、米沢を訪れています。

米沢での平洲は、興譲館で武士たちに講義をする一方、

藩内の各地をまわり、

農民や町人たちに対しても、

身分や性別、年齢に関係なく学問を授けました。

平洲の講義を聞いて、感動で涙する人々、…。

江戸時代の庶民の向学心は、身分が固定されていた反動でしょうか、素晴らしいものがありました。


(つづく)

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