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上杉鷹山・起

2016-03-15 21:16:37 | お話
☀️☀️上杉鷹山・起☀️☀️


幕末から明治にかけて、多くの欧米人が日本を訪れました。

その1人に、イギリスの女流旅行家イザベラ・バードがいます。

彼女は、
明治11年(1878年)に日本を訪れ、

東北、北海道、関西の各地を旅行しました。

彼女は日本の至る所で、
風景の美しさや、
女性が1人旅できるほどの治安の良さに驚きました。

その彼女が、
「エデンの園」と呼び、
「アジアのアルカディア(桃源郷)」
という最大級の賛辞を送った場所があります。

それは、
米沢の町と、その郊外にある赤湯温泉です。

ところが、

彼女が旅した日から、さかのぼること、およそ100年。

名門・上杉家の治める米沢藩は、

多額の借財を抱え、

領民が重税にあえいで、夜逃げをするほど荒れた貧しい土地だったのです。

その米沢藩の奇跡の復興を演出したのは、

9代藩主、米沢治憲(鷹山)です。

彼は江戸時代、屈指の名君として知られていて、

彼の的確な経済政策と、
心の教育で、
破綻寸前だった米沢藩の財政を見事に立ち直らせたのです。

現役時代は「治憲(はるのり)」と名乗っていて、
隠居後に「鷹山(ようざん)」と名乗るようになりました。

ここでは、わかりやすく「鷹山」で統一します。


その「上杉鷹山」は、

日向(現在の宮崎県の一部)、高鍋藩(たかなべはん)の秋月(あきづき)家の次男坊として生まれました。

数え年9歳の時、名門・上杉の養子となり、17歳で家督を継ぎます。

上杉家は、
関ヶ原の戦後処理で
会津120万石から、米沢30万石に減封され、

さらに、その後の家督相続の混乱で、
15万石にまで領地を減らされてました。

ところが、

収入が8分の1に減ったにもかかわらず、

会津時代の家臣団6,000人を、召し放つことをせず、
(ある意味、立派です)

家臣たちも上杉家へ仕えることを誇りとして離れなかったため、

他藩とは比較にならないほどの
人口に占める武士の割合が高く、

人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのです。

そして、ついには

上杉家の借財が20万両(現在の貨幣価値で約120億円)に達します。

藩財政は破綻寸前でした。

鷹山が藩主になる前の、
前藩主・重定(しげさだ)は、
領地を返上して領民救済を幕府に委ねようと、本気で考えたといわれています。

この泥船のような米沢藩の財政を、どのようにして立て直したのでしょうか。


この奇跡のドラマは、鷹山14歳の時から始まります。

生涯の師となる「細井平洲」との運命的な出会いです。

すでに上杉家の養子となり、
江戸の米沢藩邸で暮らしていた鷹山は、

当時評判の高かった儒学者・細井平洲(へいしゅう)の講義を受けることになりました。

平洲が、まず鷹山に語って聞かせたのは、

「治者としての心得」です。

これを一言で表せば、

「誠と、慈悲と、慎みの心」。


それと「経済」。

この時代、「経済」という言葉はまだありませんでしたが、

平洲は、その概念を鷹山に伝えました。

「『経済』とは、

『経世済民(けいせいさいみん)』

の略であり、

世の中をよく収め、人々を苦しみから救うことである」

と。

本当の意味の「経済」とは、

「民を愛する政治」ということなのです。

また、平洲は、

「治者は、民の父母である」

という言葉を言いました。

世の親は、子供が飢えれば、自分は我慢して子に食べ物を与えます。

子供が勉強したいにもかかわらず資金が足りなければ、

自分の生活費を削ってでも子供に学費を送るでしょう。

親が子を慈しむように、
政治にも愛が必要だと、平洲は説いたのです。

数えで14歳から17歳と言う多感な時期に、平洲の教えを受けた鷹山。

江戸時代屈指の名君と言われる鷹山の素地は、

この平洲との師弟関係の中で培われていくのでした。


(つづく)

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