🏳️🏳️白いマフラー🏳️🏳️
2005年に『白きマフラー』(鉱脈社)という本を出しました。
戦時中、特攻兵だけが首に白いマフラーを着けることが許されていました。
私にとって忘れることのできない思い出がそのマフラーにあり、それで本のタイトルにしました。
私は特攻基地のあった宮崎の赤江海軍基地に勤務していました。
そこから385人の若者が飛び立っていきました。
彼らが首に着けていた白いマフラーは軍から支給されたものではありません。
着けなくてもいいんです。
ただ、特攻兵は17歳から23歳くらいの若い方ですから、
死を飾るような想いからか、皆さん自然と着けるようになっていったのです。
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氏本成文さんという18歳の青年の方のお話です。
氏本さんは出撃の数日前、四国のお母様に「白いふんどし一枚と絹の白いマフラーを一本、送ってください」と手紙を書きました。
その手紙を読んだお母様は思うところがあって、ふんどしとマフラーを持って宮崎の基地まで来られました。
当時は白い布なんて店にはありませんから、お母様はご自分が結婚した時に実家から持ってきた長襦袢(ながじゅばん)の糸をとき、
空襲警報下ですから、真っ黒な網をかぶせた電灯の下で、一晩中ふんどしとマフラーを縫ったそうです。
そして翌朝、あちこち空襲で鉄道が不通の中、乗り換え乗り換えしながら宮崎までやって来られたのです。
宮崎の基地に到着すると、基地の人が「今、練習中です。すぐ降りてきます」と言われました。
お母様は息子さんと会ってどれほど嬉しかったことでしょう。
そして、縫い上げた白いマフラーと白いふんどしを息子さんに渡しました。
でもその時、特攻機の飛行練習をしていたとは考えられない状況でした。
燃料もなく、空はもうアメリカ軍が支配していて、飛び立つとすぐに撃ち落とされてしまうほどの戦況になっていたからです。
きっとその時は天候が悪くて、出撃したけれども視界が悪くて何も見えず、
「無駄死にになるから引き返せ」と上官が命令したのだと思います。
マフラーとふんどしを受け取った氏本さんは、
「今日はもう練習はないので宿に帰って休んでいてください。今夜行きますから」
と言いました。
お母様は旅館に戻られました。
2時頃だったそうです。
これが親子で交わした最後の会話になりました。
氏本さんは、視界が晴れたその1時間後、
特攻機に乗って基地を飛び立って行かれたのでした。
氏本さんは、きっと飛び立つ姿をお母様に見せて悲しませたくなかったのだと思います。
だから「旅館で待っていてください。今夜行きますから」と言ったのだと思います。
そして氏本さんは、魂になって、その夜お母様のところに行かれたのだろうと私は思っています。
その後、お母様は95歳まで長生きされましたが、
「あの日のことが人生で一番つらかった」
とおっしゃっていたそうです。
私はお母様の気持ちが痛いほど分かります。
宮崎の基地で実際にあったお話です。
(「日本講演新聞(旧みやざき中央新聞)1/17 2821号 語り部 安田郁子さんより)