🍀孫正義🍀③
正義も弟の泰蔵も口をそろえて言うのが
「オヤジは最高の教育者だった」
ということだ。
正義は「僕は幼稚園くらいの時からオヤジに怒られたことがない」
と言う。
三憲の教育の基本はとにかく褒めることだ。
それもただ褒めるというレベルではない。
正義の言葉を借りると、「恐ろしく褒める」のだ。
「大人目線で子供を諭すように、あやすように褒めても子供を見破るんですよ。
オヤジはそうじゃない。
ほんとにもう、椅子から転げ落ちるような勢いで褒めるんです。
『すごい!お前は天才!』
やってね。
そうやって、心の底から言われると子供は信じるようね」
正義によると三憲には褒めるポイントがあった。
それは計算や読み書きのような技術や知識の類ではなく、
自分の頭で考えたかどうかが、「恐ろしく褒める」かどうかの基準になっていることだった。
正義は小さい頃から毎日のように父から
「お前は天才!」
と言われて育ったため、
自分は天才だと信じて疑わなかったほどだと言う。
「その状態が忘れられずに子供は、どんどん努力していくんですよ。
だから僕はオヤジから1度も勉強しろと言われたことがない。
今思えばオヤジなりに考えてのことだったと思う。
だって、やろうと思っても、なかなかできないでしょ」
泰蔵の証言も兄とピタリと一致する。
15歳離れたこの兄弟は、幼い頃にともに暮らした記憶がほとんどないが、
父の教育方針は同じだったようだ。
ある日、泰蔵が家に帰るといつものように父が話しかけてくる。
とにかく子供の話をよく聞く父親だったようだ。
「泰蔵、今日は何を勉強したん?」
「今日は分数の掛け算やったばい」
まずは泰蔵にその日に習ったことを披露させる。
泰蔵が喜々として話し終えると、三憲はこう言ったという。
「そげんか。偉かねぇ。けど学校の先生は嘘ば教えよるよ」
「父ちゃん、なんば言いよっとね」
三憲が子供たちに口を酸っぱくして言ったのは
「他人に習うな。自分で考えろ」
だったと言う。
そして米国へと羽ばたいていった「天才正義」の話を聞かせ
「泰蔵、お前も志を持って生きんといかんばい」
と繰り返す。
ちなみに三憲は80歳を超えた今でも、息子たちがやっていることに並々ならぬ関心を寄せている。
泰蔵が言う。
「この前もオヤジから電話があって、
『Googleのディープ・ランニングっていうのは、すごかね』
と言うんです。
どこで調べたのだか、興味津々でしたよ」
その父が大量の血を吐いて倒れたのが、
孫が九州の名門校として知られる久留米大学附属高校に進学したばかりの頃だ。
若い頃から過労と酒好きがたたり、十二指腸が破れてしまったのだ。
『竜馬がゆく』に感化された孫は悩みに悩みながらも、
高校を中退して単身渡米するという道を選んだ。
事業家になるための種を探すためだ。
なにより、高校に入ってすぐの語学研修でカリフォルニアを訪れ、
すっかり米国の自由な空気のとりこになっていたのだ。
小さい時に「朝鮮人!」と言われて額に石を投げつけられてから、
在日韓国人としての出自をひた隠しにして「安本正義」と生きてきた。
だが海の向こうの米国では、そんな出自などみじんも気にならない。
もちろん米国にも人種差別は根深く残っていることは聞いている。
でも、自分が見た、あのカリフォルニアの青い空の下では、白人も黒人もアジア人もヒスパニックも、
みんなが同じように肩を並べて歩いている。
そんな世界で、俺も人生を燃やす何かを見つけたい。
それは少年 孫正義の心に宿った希望の光だった。
「それは僕にとっての脱藩だった」
父が血を吐いて入院する一家存亡の危機の時に、
高校を辞めて米国に旅立つと言う正義に、母親は泣き崩れた。
親戚からも
「なんて冷たい奴や」
と後ろ指を指される。
正義は母にこう言ったという。
「病院の先生に聞いたらオヤジは死にはせん。
これから何十年先のことを考えたら家族のためにも、
何か事を成すために自分の人生をささげたか」
高校に退学届を出しに行くと担任が驚いて止めに入った。
せめて休学届けにしたらどうだと。
孫はこの時初めて、退路を断つ選択をしたという。
「帰ってくるところがあると困難がさらに大きくなってしまう。
退路がないと困難を感じる余裕さえなくなるでしょう。
だからキッパリと退路を断った。
あれは僕の人生の1回目のパラダイムシフトだったね」
こうして若き孫は米国へと旅立った。
(つづく)
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)
正義も弟の泰蔵も口をそろえて言うのが
「オヤジは最高の教育者だった」
ということだ。
正義は「僕は幼稚園くらいの時からオヤジに怒られたことがない」
と言う。
三憲の教育の基本はとにかく褒めることだ。
それもただ褒めるというレベルではない。
正義の言葉を借りると、「恐ろしく褒める」のだ。
「大人目線で子供を諭すように、あやすように褒めても子供を見破るんですよ。
オヤジはそうじゃない。
ほんとにもう、椅子から転げ落ちるような勢いで褒めるんです。
『すごい!お前は天才!』
やってね。
そうやって、心の底から言われると子供は信じるようね」
正義によると三憲には褒めるポイントがあった。
それは計算や読み書きのような技術や知識の類ではなく、
自分の頭で考えたかどうかが、「恐ろしく褒める」かどうかの基準になっていることだった。
正義は小さい頃から毎日のように父から
「お前は天才!」
と言われて育ったため、
自分は天才だと信じて疑わなかったほどだと言う。
「その状態が忘れられずに子供は、どんどん努力していくんですよ。
だから僕はオヤジから1度も勉強しろと言われたことがない。
今思えばオヤジなりに考えてのことだったと思う。
だって、やろうと思っても、なかなかできないでしょ」
泰蔵の証言も兄とピタリと一致する。
15歳離れたこの兄弟は、幼い頃にともに暮らした記憶がほとんどないが、
父の教育方針は同じだったようだ。
ある日、泰蔵が家に帰るといつものように父が話しかけてくる。
とにかく子供の話をよく聞く父親だったようだ。
「泰蔵、今日は何を勉強したん?」
「今日は分数の掛け算やったばい」
まずは泰蔵にその日に習ったことを披露させる。
泰蔵が喜々として話し終えると、三憲はこう言ったという。
「そげんか。偉かねぇ。けど学校の先生は嘘ば教えよるよ」
「父ちゃん、なんば言いよっとね」
三憲が子供たちに口を酸っぱくして言ったのは
「他人に習うな。自分で考えろ」
だったと言う。
そして米国へと羽ばたいていった「天才正義」の話を聞かせ
「泰蔵、お前も志を持って生きんといかんばい」
と繰り返す。
ちなみに三憲は80歳を超えた今でも、息子たちがやっていることに並々ならぬ関心を寄せている。
泰蔵が言う。
「この前もオヤジから電話があって、
『Googleのディープ・ランニングっていうのは、すごかね』
と言うんです。
どこで調べたのだか、興味津々でしたよ」
その父が大量の血を吐いて倒れたのが、
孫が九州の名門校として知られる久留米大学附属高校に進学したばかりの頃だ。
若い頃から過労と酒好きがたたり、十二指腸が破れてしまったのだ。
『竜馬がゆく』に感化された孫は悩みに悩みながらも、
高校を中退して単身渡米するという道を選んだ。
事業家になるための種を探すためだ。
なにより、高校に入ってすぐの語学研修でカリフォルニアを訪れ、
すっかり米国の自由な空気のとりこになっていたのだ。
小さい時に「朝鮮人!」と言われて額に石を投げつけられてから、
在日韓国人としての出自をひた隠しにして「安本正義」と生きてきた。
だが海の向こうの米国では、そんな出自などみじんも気にならない。
もちろん米国にも人種差別は根深く残っていることは聞いている。
でも、自分が見た、あのカリフォルニアの青い空の下では、白人も黒人もアジア人もヒスパニックも、
みんなが同じように肩を並べて歩いている。
そんな世界で、俺も人生を燃やす何かを見つけたい。
それは少年 孫正義の心に宿った希望の光だった。
「それは僕にとっての脱藩だった」
父が血を吐いて入院する一家存亡の危機の時に、
高校を辞めて米国に旅立つと言う正義に、母親は泣き崩れた。
親戚からも
「なんて冷たい奴や」
と後ろ指を指される。
正義は母にこう言ったという。
「病院の先生に聞いたらオヤジは死にはせん。
これから何十年先のことを考えたら家族のためにも、
何か事を成すために自分の人生をささげたか」
高校に退学届を出しに行くと担任が驚いて止めに入った。
せめて休学届けにしたらどうだと。
孫はこの時初めて、退路を断つ選択をしたという。
「帰ってくるところがあると困難がさらに大きくなってしまう。
退路がないと困難を感じる余裕さえなくなるでしょう。
だからキッパリと退路を断った。
あれは僕の人生の1回目のパラダイムシフトだったね」
こうして若き孫は米国へと旅立った。
(つづく)
(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)
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