ナカタが初めてここグァテマラに来た時のことだ。日本を出て、はや四ヶ月。スペイン語もようやく日常会話は苦労しなくなって心に余裕ができたのか。毛量の多いナカタは、いい加減ボッサボサになった髪の毛に耐えられんくなっていた。
そこで、サン・ペドロ村で毎日をマッタリと過ごしていたナカタは、ある日、友人に聞いた。「ところで、この村に髪の毛を切るところはあるのか?」。彼は紙を取り出し地図を書き始めた。しかし彼のマークした所は明らかに畑のド真ん中。
そして彼は続けた──「ここで農作業しているヤツが散髪屋だ」。
この異常なセリフも、かくもサラっと言われてしまえば、ニンゲン、「あ、そうなの」と簡単に飲み込めるものである。早速、超ゴキゲンでトウモロコシ畑を歩いて行く。いたいた。「髪の毛を切りたいのだ」。「はいな。ちょっと待って」──裏で洗濯をしていた豆腐屋のオバちゃんが「お客さんきてはるでぇ〜」と言われて「はいな〜、今いくう」とエプロンで手を拭くようなものである。「ほな家までいこか」──そんな感じで手の泥を拭ったオッサンは、ナカタを丘の上の彼の家まで連れて行った。
薄暗い部屋に電気を付けると、なるほど確かに散髪屋らしい椅子と鏡がある。よかろう。座る。するとオッサン、おもむろにバリカンをコンセントに繋いで、スイッチを入れ、ナカタに近づいてくる──「ちょっと待て。何かあるだろう」。ナカタはまだどうしたいのか一言も言っていない。「何かヘアカタログとか、参考になる写真でもないのか?」
もちろんそんなものはない。しょうがない。「ならその都度言うことにする」。「わかった」。
彼は再びバリカンにスイッチを入れる。ちょっと待て──「オマエ何かこう、ビニールのポンチョみたいな被るものとかあるだろ」。このままでは切った髪が、襟足から服の中にオール・インではないか。「いちいち注文の多いチーノ(東洋系の愛称)だな」──面倒くさそうに奥から彼はビニールシートを出してきた。
「あるなら最初から出せ」。
この時ほど、スペイン語をもっと上達させなければと思ったことはない。注文をつけようにも動詞の活用を思い出しているうちに──やられた。結果、ナカタは当時ムラでは最新の流行カット、『ドラゴンボールZ』の孫悟飯、あるいは『サザエさん』のワカメちゃんのそれをお見舞いされ、帰国後、ただちに髪を切りにいって爆笑されることとなる。
これ以来、ナカタは必ずスキ鋏やシャギー用のカミソリなどを持ってきてひとり屋上で自分の髪を切るようになる。いまでは切ってると屋上で他のバックパッカーに囲まれるようになり、よく言われる──「ホントに器用に切るなぁ」──あたりまえだ。ネバー・ワカメちゃんである。
あれからはや八年。もうナカタはスペイン語を十分に上達させた。二度と好きにはさせない。グァテマラの首都近郊高級住宅街アンティグア市で原稿を一本、一段落させたナカタは、センスの信用できる近所のネット屋のニィちゃんに尋ねた。そのネット屋に流れている音楽は、バイトのお兄ちゃんがmp3の音楽ファイルをかけているのは知っていて、そのセンスはなかなかのものだったから。
「このアンティグアで一番コマシな美容院はどこだ」。
特に女性のバックパッカーに多いのだが、長旅の最終地がこのグァテマラで、帰国日が迫ってくると、「あぁ、日本帰ったらまず美容院行って、このグチャグチャになった髪をちゃんとしてもらわな」などとよく言われるが、逆である。安いグァテマラだからこそ、日本では絶対行けないような高級なサロンを楽しんでみればいいのである。アロマ・キャンドルに照らされ、BPM90くらいのチルアウトの曲が薄く流れているその店内の雰囲気は、不安の眼差しで覗き込んだナカタに、一瞬でグァテマラにいることを忘れさせる程の圧倒的なものであった。第一、店内の会話が全部英語である。
ナカタはかくして、物凄いスリットの入った背中まる出しの黒ワンピを着たモデルみたいな美人の店長ではなく、ニューヨークでずっとサロンで働いていて、今は旅をしているニルヴァーナのカート・コバーンのようなカッコいいニィちゃんに切ってもらうこととなる。ナカタが項、ジェスチャーも混ぜて要望を伝えると、そのニィちゃん、「つまり、後ろはメッシィにいった方がいいということなんだな・・・」
!──全幅の信頼とはまさにこのことである。間違ってもワカメちゃんの画はない。欧米中心主義とでも何とでもいわれようが、あれだけはあり得ない。
自らの作戦の成功を確信し、ご満悦だったナカタはついYMOの「ライディーン」を思い出したのだろうか。勢い余って坂本教授になりたくなり、思わずカットに加えて「銀髪にしてください」。ヘア・カラーの腕の差は、銀を入れた時にこそ最も顕われるらしく、彼は大ハリキリでナカタにいつにないチップを弾まれることになる。マッサージまで付いて四千円弱。ここでは四万円くらいの感覚だが、日本なら本当にこれほどの店なら四万くらいするだろう。
宿ではいい宣伝効果になり、何人か「髪を切りたい」という同種の欲求と、「しかしここでは・・・」という同種の不安を抱いていた者たちが後日続いたのだが、ひとりワキの甘いニィちゃんがいた。元名古屋の営業マンである。「ボク、丸坊主にするだけなんでその辺の安い(十分の一くらいである)近所で切ってきますわ」。
しかしそこはグァテマラの散髪屋。丸坊主であろうがバッチコ主張を入れてくる。耳の上あたりから、肌色と黒の二色で塗り分けた昭和の漫画のように、ラインがくっきりと。
しかも、十中八九、右を左に揃えようとしたら右のラインを上げすぎて、今度は左のラインを右に合わせようと上げたら切りすぎたことを黙秘した跡がクッキリとまた残っており──「どうだこの見事な襟足のライン!」。
フロント・ビューしかマークしていなかった彼の甘さである。
さすがグァテマラ。ビックリ・ショーの連打だ。