Blog ©ヒナ ─半径5メートルの毎日から見渡す世界

ラテンアメリカでの日々(1999〜)、さいたま市(2014〜北浦和:2021〜緑区)での日記を書いています。

大学の研究室によくあるロケーションマップ

2021年09月05日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 いま、国籍を変える準備をしているので、母親の遺品を整理していたら、こんな紙をみつけたので懐かしくてアップしました。

 2003年の暮れの写真だと思います。

 この先どうやったら赤貧を抜けられるか解らなくなるまで、ラ米で7年間調査していたがために全財産残り3万円になって8月に帰国。

 ナカタは自分の研究室で三ヶ月ほど暮らしていました。

 11月に、いわばフリーの研究者として3年間の内定をもらえたので、後輩から借金しても返せるので、

 「やっと自分の『巣』がもてる」と、近所の家賃1万6千円の部屋を借りました。

 嬉しかったです。

 関西には「SHOP99」という、「ダイソー」「Can Do」みたいなのがあったのですが、

 パンツからシャツからファイルから何から何までSHOP99だったので、

 後輩から「ナカタさん、相変わらずキュッキュしてますね」とイジられたものです。

 

 さて、この「むつみ荘」より古いが綺麗な木造アパート。

 戦前の薬工場の社員寮でして、「築──年」としか表記されないものの造りはたいそう頑丈で。床が抜ける心配はありません。これは重要です。

 ナカタの大学には、もう学生だかなんだかわからないくらいの就職できてない研究者が掃いて捨てるほどいました。

 本棚に書籍が間違っても収まらずに、床にギッチギチに敷き詰めだしたのが数年前。

 標高が50センチくらい高くなった、という部屋も全然珍しくありませんでした。

 だから、それはそれは「人生詰んだ」3D感迫りくる熟した研究者がたくさん、家屋崩壊の心配の無いここに住んでいました。現存しているのかは解りません。

 でも大家さんはとってもおしゃべり好きな、「ハドソン夫人」みたいな人で。

 ハイエンドのジャガー乗りながら毎日掃除をしにきていました。

 新入居者がきたり、誰かが出て行くとなる毎に、下宿生15人くらいを全員、高給中華屋とかイタリアンに連れて行ってくれました。

 毎年年末には、大家さんの家に呼ばれました。

 まずはその年に、欧米のオークションで新たに獲得したオルゴールコレクションの新作に一通り感動しなければなりません。

 あと、家賃一年分くらいのティーカップでお紅茶を頂き、ハドソン夫人のお手製のクッキーの説明を聞きます。

 そのあとには、家賃一ヶ月分くらいの焼き肉コースに招待していただいてました。

 でも、ハドソン夫人が下宿を掃除している時には誰も大学に行こうと部屋を出ることはありません。

 挨拶をすれば、小一時間くらい続きます。間に合いません。

 でもひとりが捕まると、続いて何人かが必ず即座に部屋を出ます。夏なんかクーラーがないので、誰もが早く下宿を出て涼しい研究室に行きたいのです。

 後続者たちは、軽い挨拶で済みます。一人目が生け贄となります。

 もう時効だと思いますが、仕方がなく家に持って帰っていたとある生き物が見当たらないと、総出で探索をしたこともありました。

 月並みな言い方ですが、みんな貧乏だけど楽しかったです。

 

 すぐ傍に「哲学の道」が流れていて、春になれば桜が疎水をトンネルで包み。

 ワンサカきた観光客が、この木造古アパート込みで画角に入れたいらしく。

 さらにそこから匂い立つほど熟した博士課程オーバー7年目とかが本を抱えて出てくると、待ってましたとばかりに撮られることにも慣れました。

 

 そのような仲間入りをやっとできるのだと残念がっていた頃の写真です。

 研究室を郵便物の送り先住所にしていたくらいですから、

 尋ね人はまずこの研究室にやってきて、ナカタがいなかったら後輩は(尋ね人もまた大先輩であるからして)困るわけで、

 ロケーションマップを作られてしまいました。

 やっと部屋が持てたので、くやしいからそのロケーションマップに自分の巣があることを猛アピールしたわけです。

 

 「ここ」とはその研究室のこと。

 「そこ」とは、他大学に異動になった教官の空き部屋。いつもそこのソファーで寝ていました。

 学内LANですので、国内最速のインターネット使い放題。

 光熱費無し。

 職場まで徒歩三秒という便の良さです。

 「乗り換え案内」アプリなどない時代でしたが、不便は感じませんでした。

 このロケーションマップの、「そこ」「ここ」に画鋲が打たれていなかったら、だいたい「あそこ」にいました。

 生協食堂で飯食ってるか、体育館のシャワーに入りに行ってました。

 洗濯は先述の准教授の空き部屋に干していました。

 そのうち、その「むつみ荘」在住の同僚の何人かが、「そこ」では24時間ナカタがエアコンを付けているので、「無料の乾燥機状態だ」ということで、「むつみ荘以下」に備え付けの洗濯機を無料で使ったあと、ここに干しに来るようになりました。

 45歳の友人(男性独身)が、自分のパンツを干した周りをグルっとタオルを吊して隠していた意味がいまでも分かりません。一人暮らしのOLじゃあるまいし。

 この友人は、わたしが「むつみ荘」に暮らしはじめたものの、初任給以降はほぼほぼ中米にいて空いていたので、(彼の部屋は戦前は納屋だったので天井が低いがゆえに家賃が1万3千円とハドソン夫人がまけてくれていたのだが凄く暗い)自分の部屋ではなく、ナカタの空き部屋が「日差しも入るのにもったいない」と住んでました。

 そんな彼が、神戸三宮は異人館のある、それはそれは都内でいうところの代官山みたいなところにある私立女子大の先生になった時、「これで貧乏ともおさらばだ」と「まずは引越し」したのは、2007年にグァテマラに移民して空室になったナカタの部屋でした。あまりにも赤貧時代が長かったので、それ以上の贅沢が想像できなかったようです。

 あろうことかそんな彼が、勤め帰りに研究室に立ち寄って、ジャケット姿で人生初めて「差し入れ」をされるではなくした時の、あの元町で買ってきてくれた肉饅の味は、いまでも忘れられません。

 だって彼は、下積み時代、ある大学の期限付きの講師に採用されかかったのですが、血液検査で「栄養が足りてません」と引っかかってしまい、

 「だから採用されたら飯が食えるから栄養もつくのだ。だからまず雇え」、とブチ切れたそうです。

 棋譜を読まれながら目隠しをして将棋を指すくらい、普段は物静かなのですが。

 もちろん先だっての棋聖戦第2局での藤井七段の1着は、ネットで炎上する前に彼からメールされてました。

 名門高校将棋部の主将だったのですが、アマ二段です。

 

 明けても暮れても文章を書いていたこの懐かしい三ヶ月の成果は、結局日の目を見ることなく。

 それをいままとめて発表しようと原稿を書いているのですが、

 やはり突破の難しい箇所が多すぎて、

 そのたんびに、現実逃避して蜘蛛の写真を撮ったりこのブログ日記を書いています。

 

 😀

 

おおよそこんなところです。プライバシーの観点から、もちろんズラしています。©Google Map 


リーマンショック時に書いたブログ(書いた時は「インフルエンザと私」でした)

2009年05月11日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 

 日本にいる皆さんにひとつ質問をしてみたい。

──都市部に行けばいくほど、夜遅くあるいは24時間開いているのが多くなる店と聞いて、どんなタイプを想像するだろうか?

 飲み屋だのラーメン屋だのあるだろうが、やはりナカタはコンビニを連想してしまう。でもこの連想は、こっちのグァテマラやメヒコではしばしば異なってくる。

 案外、それは薬局なのだ。

 例えば調査などで、どこぞの知らない街に行くとする。一日バスに揺られて着けば夜だ。とにかくシャワーを浴びてスッキリすると、もうとにかく寝たい。だが飲み水は必ず確保しておかなければならない。夜中になくなりゃ大変だ。日本のように上水道は絶対やめておいた方がよい。貯め水を沸かすったって安宿のどこにもそんなモノはなく、もちろん表に出たって自販機があるわけではない。

 (第一グァテマラには自販機自体、ショットガンを持ったガードマンがいるような場所しかおいていない。それがガソリンスタンドとかショッピング・モールとか──「ショットガンを持った」ということもおかしいが──こちらはコカ・コーラの配送トラックですら、ショットガン持ったオニーチャンが荷台に座っている)。

 こういうとき、案外遅くまでやっていて、最低でもミネラル・ウォーター、うまくいけばクッキーやビスケット、ときにはタバコ(?!)までゲットできるのが薬局である。

 寝静まってシーンとなった街でも、遠くから煌々と電気を付けているのですぐわかる。ライフラインは確保、とホッとする。

 

 やや堅い言い方になるがこの点に関して、社会的な構造の違いからひとつの説明を加えることができる。

 周知のことだが、日本は世界でも稀にみる医療福祉国家である。もちろん近年の動向はこの見解をまったく裏切るものとして知られているが、例えばアメリカ合衆国などは国営の健康保険の制度はない。だから金持ちは自分で民間の保険に入る。そんな誰も彼もに国家が医療を負担しては瞬時に国家予算はパンクするだろう。だから日本はパンクしようとしているのだ。

 そしてグァテマラにおいて、そのような医療保険サービスを享受できる人口比率は、さらに格段に低くなる。いずれにせよ、日本のような健康保険制度がないので、医者にかかる、ということはとてつもなくお金の飛ぶことなのである。国の富裕層が利用する個人経営のクリニックなどは、ほとんど日本の保険なしでかかる医療費と変わらない。

 

 昔ナカタがエクアドルはキトでA型肝炎になったときなど、大使館の方にお世話になって首都の一番高級な病院に連れて行ってもらったが、その時などは金額未記入のクレジット・カードの控えにサインをさせられた。大使館の人も「それ、怖いと思いますがしょうがないのです」。(もちろんラテンアメリカのこれら諸国も、近代国家なワケですから地域には公立の病院はあります。しかしそれはキャパが全然足りていないので、問診ひとつにも何時間も待ったりします。施設もやはり問題があるでしょう)。

 

 話を戻そう。ゆえに総人口の大半を占める貧困層は、何かあったときには、まずは「気合いで治す」。そして次に、薬局で薬を買う、となる。だから薬局はよりその周辺の住民にとって不可欠なモノなのである。

 

 

 さて、グァテマラに暮らすナカタが、今この時期にこのような話をするからには、展開は自ずと決まっている──スペイン語で、アチェ・ウノ・エネ・ウノ──H1N1、例の豚インフルエンザである。

 そろそろ何人か日本の友人たちも気付いてくれたらしい──ナカタのいるグァテマラってメキシコの隣だろ?大丈夫なのか?

 なかにはこんなメールまであった──どうやって「水際」で防いでるんだ?

 

・・・防いでいるワケ、ねーだろ。

 

 ということで今日のテーマは、「インフルエンザと私」(2009年5月11日のアンティグアにおいて)、である。

 

 

 二日ほど前か。新聞にグァテマラではじめての感染者が確認されたと報道があった。もちろんメキシコが「すったもんだ」しはじめた頃から、インフルエンザはつねに紙面を賑わしてきた。本日付のグァテマラの筆頭全国紙『プレンサ・リブレ』でみても、相変わらずグァテマラは感染者一人、となっている。

 

・・・んなワケ、ねーだろ。

 

 先の医療に関する社会的な背景を、だから踏まえなければならない。メヒコかアメリカ合衆国に行って帰ってきて、「何か調子がおかしい」となって病院に行って。病院に行けて。感染して報告されるまでには、どれほどのグァテマラの社会階級のピラミッドを上昇しなければならないか。

 ちなみに10日付『プレンサ・リブレ』誌に載っていたWHOの報告によれば、感染確認者数:メヒコ1,364:米国1,639:カナダ242:エル・サルバドール2:グァテマラ3:パナマ2:英国34:スペイン88:南米8:ヨーロッパの残りの諸国48:アジア7:オセアニア6。

 まったくもうひとつの、すごい数の感染者がグァテマラにはいるはずだ。その「凄い数」の感染者における広まり方と、上のWHOの報告書が書き留める今回の病気の「世界的な広まり」は、まったく異なる社会の位相にある。

 

 病院に行くどころか、公に出ることすら許されない、メヒコや米国への不法移民たち。

 

 差しあたり今のところ、アンティグアで毎日十何時間キーボードを叩いているナカタには、インフルエンザは皆さんと同じようにまだ「メディアの向こうの世界」である。だって上に書いたように、実際にどのくらい身の回りに切迫しているかなど、わかるはずもないワケだから。

 確かに、首都の市バスに乗っても、その辺の青空市場に出かけても、マスクしている人もほとんどいない。

 ならいーじゃないか。そう言われるかもしれない。でも、そうなのだ──いま、おそらくここに暮らす人たちの多くにとっては、インフルエンザはまださしたる問題ではない。何がいいたいか──そんなこと、構ってる場合ではないのだ。

 

 もっとグァテマラは大変のなのである。

 

 

 

(続く)

 

 

 

AUTHOR: nakatahideki

TITLE: 「インフルエンザと私」(後半)

DATE: 06/07/2009 05:06:14

 

 「グァテマラはいま大変である」

 

 このようにここ、ナカタの暮らすグァテマラで言ったところで、だれもこう返すだろう──「なにも今にはじまったことじゃないがな」

 

 だが、十一年目の滞在に至ったナカタが、日本とグァテマラを往復し、僭越ながら上から観察したような言い方を許してもらえるなら、本当に思う──「いや、今回はホンマやって。グァテマラ、もう、もう、もうアカンで」。

 説明しよう。まずは国際的な大枠から。(※:これは現在(2021年)から説明すれば、リーマンショックの影響をリアルタイムで暮らしているなかでこのブログが書かれています。表現とか今からみれば違和感があろうと思いますが、当時の感覚そのままに、変更せずに残しました)

 今日は一ドル何円つけてるのかな。かれこれ一年ほど前からドルが急落しているのは、皆さんご存じだと思う。CNNだのBBCだのでは、毎日GMが倒産したとかCITIがどうのとか、バラク・オバマ、まぁ大変である。

 

 さて、もちろんそちらの日本も大変なのは知っているが、米国経済が落ちて円が上がるということは、日本経済が国際的に依然として相対的な自律力を持っているということだろう。

 対してグァテマラ。他の中米諸国が軒並み完全に、対米自国通貨の価値を下げてきたのに対し、グァテマラ通貨のケツァールだけは一ドル=7.5ケツァール前後を揺れてきた。メキシコのペソ並みである。コスタ・リカなんぞは、ナカタが留学していた十年前、一ドル=280コロンくらいだったのだがいまでは500半ばまで下がっている。こちらの研究者は、よく冗談で「ガンジャ(大麻)を輸出しているからだ」というが、まんざら当たってなくもないだろう。

 

 それがいま、8ケツァールを超えた。日本と逆なのだ。下がった米ドルに対してさらに自国通貨を落とす。それだけ米国の経済システムにガッチリ組み込まれているからだ。だから米国が落ちたら、グァテマラはその米国の経済システムのしわ寄せが一気に押しよせ、さらに落ちる。

 バスの運賃などは、名目の数字がほどんど倍に近くなった。給料いっこもあがらずでだ。ほとんど顎まで溺れかけていた大半の貧困層は、もはや完全に水面下となる。

 そういえば、前回のブログか。豚インフルエンザの話をしたときだ。あれには続きがある。同日付の『プレンサ・リブレ』誌には次のようなコラムが載った。大まかにいえば──「こうしてインフルエンザは確かに油断がならない。警戒して手を洗い、人混みを避けるべきだ。だがしかしグァテマラの現在の問題はそこではない」。

 

 グァテマラでは統計によれば一日に17人が殺されている。そちらの方がよっぽど問題だ、と。

 

 間違いない。日本の人口でいえば、一日170人だ。十日で1700人。一か月で約5000人。年間6万人。これに交通事故はおろか大量の行方不明者も入っていない。

 新聞ももはや、「昨日、国のあちこちで合計六人がいろいろと殺されました」と、まとめて小さく記事にするだけになった。ちょっとした腹いせで、その子供三人が仲良く小学校から帰る道すがら銃を撃ち込まれまくる。麻薬系シンジケートが腹いせに警察の詰め所を爆破する。高級住宅街を走っていたトヨタに五十発くらい機関銃。何からなにまで無茶苦茶だ。

 そして一月ほど前か。あるビデオがYou TubeやFaceboxに流れた。グァテマラのある弁護士のビデオである。彼は現大統領コロンの政治腐敗を調査していた。そして殺されると予感していた。だからもし本当に自分がある非誰かに殺されたとしたら、すべてを録画したこのビデオを公表して欲しい、と。そして彼は殺された。¥

 その後だ。コロン大統領を追求するデモが首都で起こる。アタリマエだ。そして、それに対抗してコロンを支持するデモが、それ以上に展開された。あちこちの地方都市からチャーターされた長距離バスに、住民が乗って首都で更新する。コロンはいい大統領だとテレビで新聞で、嫌という程政府広告が入る。彼らはいわゆる「顎足持ち」である。支持者には食事がただで振る舞われる。全部血税からだ。

 コロン。ビデオが公表されてから三日間で約二億チョイをこの支持キャンペーンに急遽投入した。

 おい、このことすでにオマエ、腐敗政治じゃないのか?何の名目でどこの国庫から引きだしてきたのだ?

 そして彼は結局現在、続投した。もはや彼は言う──「今回の国家安全を脅かした危機は乗り切った。私はしかし、今回一度も、この造反分子に恐れを抱いたこともなければ屈すると思ったこともない」──言いたい放題だ。

 要は地方のボスも、アタマのコロンが失墜して対抗勢力が大統領になれば、自分も失墜する。それだけの理由だ。どこにもその弁護士が命を捨てて発した言葉をめぐる議論はない。どこにも民主主義の匂いはない。ちょっとドブの蓋がひっくり返されただけだ。そこにあるのは完全に淀んだ腐った水の臭い。

 

 そしてこの大統領。先日、ある買い物をした。

 トゥカーンという鳥をご存じだろうか。グーグルあたりで検索したら「あぁ、これね」となるだろう。黄色のデッカイくちばしをした鳥である。で、コロンが買ったのは「スーパー・トゥカーン」。だがこれは「六羽」ではなく「六機」。つまり戦闘機を六機、百億くらいローンで購入したのだ。新聞では、あちこちの地方自治体で国家からの予算配分が滞り、片っ端から公務員の給料が何ヶ月も延滞している、とデモのニュースが毎日なのにである。

 もはや国家の行政すらが麻痺にある。雨期に入ってあちこちで下水管や堤防や崖が崩れても、どこにもそれに対応する行政メカニズムが機能しない。首都の第二区では数週間、上水道が止まった。

 いまやグァテマラの「国民」は次のどれかだ。まずはこの危うくなった腐敗まみれの自らの権力を何とか維持しようと躍起になっている特権集団。それに唯一対抗できる力をもつのが麻薬系のマフィア。これはもちろん上に述べた「完全に水面下」に入って溺れるしかなくなった者たちである。だからどんどん増える。そしてその中間層としてほとんど溺れかけた、何の声も上げることのできない超ド級の貧困階層。あとは、ただただ静かに静かに息をしてなにも見ない聞かないいわないでひたすら生き延びるバランスだけに集中する者たち。たまに図書館や大学に行く以外、部屋に籠もってグァテマラの本を書いているナカタも、この最後の部類だろう。

 

 この一か月ほど、こちらで、スペイン語で発表するナカタの本の締め切りにあまりにも追われた。そのなか、逆説的だが、だからこそ、できるだけキチンと毎日新聞を読む時間を作った。自動的にナカタは、このアンティグアの部屋に籠もりながら、グァテマラを上から鳥瞰する視点を強く備えるようになっていたのだと思う。

 昨日、久しぶりに首都のド真ん中、第一区に行った。編集長にスペイン語の第一草稿を提出しに行った。なぜか少し恐れている自分がいた。かつてはアパート借りて暮らしていた地区なのにだ。

 とにかくこのスペイン語版を急ぐ。それしかない。

 


ありがとうございました。

2009年03月05日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 

 本当に、本当に、いろいろなことを学びました。

 

 再発されたと聞いてから、いつかはこの日がくるかと思っていました。

 

 本当に残念です。

 

 58歳だったということ。ならば38歳のナカタにはまだ20年ほど残っていることになります。

 

 頑張ります。

 

 『COVERS』の「イマジン」を、天国でも歌ってください。今度こそ、国境も民族も肌の色も、何も隔てない天国で。

 

 もう一度、ありがとうございました。

 もう少し、現世の浮き世にまみれて藻掻きます。

 

 心より追悼を。

 

 忌野清志郎様

 

 


ある著名な米国人類学者の出版記念会にて

2008年12月27日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 

 さて、先だっての十月に一時帰国を終えて、こちらグァテマラはアンティグアに戻ってきたナカタ。一週間ほどして落ち着いた十一月の十日くらいか。一枚の招待状を電子メールでもらった。それは、かつてナカタがサン・カルロス大学で講義を受け持った大学院生からのものだった。

 

 

 アメリカ合衆国中部のシカゴ大学。ここの人類学部で、二〇世紀を通じて米国人類学界を牽引してきた人類学者がいる。名前をソル・タックスという。

 米国現代人類学の二〇世紀を通じた成長は、おおくをこの「グァテマラ先住民社会」という畑を実験農場としてきた。とりわけ二〇世紀の後半からもちろん私たちの現在にいたって、米国での人類学を専攻するかくも多くの学生や研究者が、このグァテマラ先住民村落でフィールドワークを展開してきた。その発端となったのがこのタックスが音頭を取る調査団によって、一九三〇年代後半にグァテマラで展開した人類学的調査である。

 

 そしてナカタの今度の拙著において、このタックスは「助演男優」を演じる。

 

 タックスの学生にヒンシャウという人がいた。シカゴ大学人類学部でタックスに学んだ後、彼もまたグァテマラ先住民の研究を専攻する。タックスが現地調査を展開した、アティトラン湖湖畔村落のひとつ、パナハッチェルと調査地まで一緒だ。

 そういう人だから、ナカタも当然ヒンシャウの名前くらい聞いたことはある、どころか彼のパナハッチェルでの博士論文まで、ILL(国際学術書貸し出し)サービスを使ってとりよせていた。

 このヒンシャウが、小説を書いたらしい。ついてはその発表会を、ここアンティグアで開くという。そこへひとりの学生がナカタに紹介してくれたのだ。ヒンシャウが今度出版した二冊の小説について講演をするに加え、タックスらとのかつてパナハッチェルで調査していた日々のことなども回想したい──というわけで、「講義で何度もタックスについて言及されていたナカタ先生、興味はありませんか」、というわけだった。

 

 一週間後の夜七時。場所は、アンティグアの中心から少し外れた、閑静な住宅街にある一軒の家である。「マヤ文化のための家」という名前の文化会館で、サロンには椅子が並べてあり外の中庭にはちょっとした食べ物やコーヒーなどの立食の場が準備されていた。

 

 ナカタは少し早めに到着していた。ヒンシャウと個人的に話すチャンスだからだ。売り込む大チャンス──今度スペイン語でタックスを中心に取りあげた本を書いているのです!。

 庭でボーッと待っていると、さきほど受付で挨拶した米国白人の気の優しそうなオジィちゃんが、奥からもうひとり連れて出てきた。ヒンシャウだと紹介される。

 ナカタには、ヒンシャウとはタックスの学生で後の弟子である、というイメージが強かったので、中年くらいの男性を想像していたのだが、タックスは一九〇七年生まれで一九九六年(だったっけ?)に他界しているくらいだ。ヒンシャウは、アゴには一面ふくよかで真っ白な髭を蓄えた老人だった。

 営業開始である。戦闘開始か。名刺を渡し、身分を説明し、今まで書いたもののなかで英語とスペイン語でのこれまでのナカタの自信作を封筒にセットにして渡し、どうかこれからもよろしくとお願いした。

 

 いろいろ来る人に挨拶しなければいけないのに、ヒンシャウは本当にナカタにアテンドしてくれた。ちょくちょくやってきては「あそこにコーヒーがあるから欲しければ」、などと気を使ってくれる。そうこうしているうちに、ナカタがかつて受け持った院生たちがやってきた。どうやら首都から一人の車に便乗してやってきたようだ。ワイワイ。ガヤガヤ。いつもの仲良しメンバーだ。

 

 そうして閑静な住宅街の一軒で、ささやかながら素敵な出版記念会がはじまった。三〇人くらいが集まっていたか。そのなかで十名弱がナカタの担当した大学院生だった。

 

 どうやらこのヒンシャウ。米国を引き払い、アティトラン湖湖畔の小さなに一軒の家を買って引退するという。この小説はその引退記念らしい。湖畔でマッタリと余生を送りながら、この英語での小説をスペイン語で焼き直したいという。なるほど、素敵な人生だ。

 

 三〇分ほどそうした経緯を物語ったあと、ヒンシャウは参加者に自己紹介を求めた。参加者のなかには明らかにヒンシャウの旧友であろう、同じ程度に年老いた白人の米国人も一〇名弱ほどいたが、見たことないグァテマラ人もたくさんいたはずだ。ならば、どんな人が集まってくれたのか知りたいはずである。

 

 向かって右の最前列に座っていたナカタが、自己紹介のトップバッターだった。席順からおのずとナカタに続いて、順番にその大学院生たちが自己紹介していくというように決まった。ヒンシャウとその友人の米国人たちからみれば、誰もがお初にお目にかかる。米国人参加者は興味津々だ。

 

 緊張しつつも自己紹介。ヒンシャウへの自己紹介だが、それは先程済ませた。ナカタの戦闘の嗅覚とでも言おうか。

 

 なぜかナカタは後ろを向いて、参加者、それも米国からのヒンシャウの旧友たちに目線を合わせた。

 

 「中田英樹と申します。サン・カルロス大学歴史学部人類学コースで客員教授をしています。一方でアヴァンクソ(グァテマラ社会科学振興協会)の招待研究員でもあって、ここの出版部から、皆さまも当然ご存じの──といって米国人参加者に目線を向けながら──タックスやレッドフィールドが一九三〇年代にアティトラン湖で展開した現地調査についての本を書いています。」

 

 今振り返れば、確かにこの時、自己を紹介するということにナカタは確実にたたかっている感情を抱いていたと思う。彼ら米国人からみればナカタは極東の島国からきた田舎ものである。あなたたちのホームグラウンド、シカゴが今度のナカタの作品の舞台です──こう紹介することとは、彼らに見積もられるということ。ナメるなよ──誰も向こうはそんなこと考えていないとは承知しつつ。

 

 後ろのエドウィン(仮名)にバトンを渡した。

 

 「はじめまして。エドウィン・ロペスと申します。首都の農業改良普及所で技師をしていますが、サン・カルロス大学農学部の大学院の学生でもあります。大学院の先生にはこのナカタ先生もいて、彼がタックスについて話していたことが面白かったので、今日もそのタックスの話と伺い参加させていただきました」

 

 正直にナカタのその場での反応を告白しておこう──ナカタの鼻は数センチ伸びていた。何かがスパッとキマったようだった。霧が一瞬晴れ、視界良好、滑走路、ただちに離陸せよ。何かそのような一本のパスpathが通ったようだった。

 リクツはわからなかった。以下はそれを後日考えたものである。だから「鼻が伸びる」──そのような生理的な感覚だった。

 

 そして、その後に続く五、六名の仲良し院生グループにもこのように自己紹介をした人が何人かいた。「ナカタ先生の講義でタックスのことを論じていたので」──その度に、会場のみんながナカタの方を見る。

 

「こいつのタックスの話が面白かったから、今日ここに来ただと?」

 

 今日のこの場は、タックスの一番弟子、ヒンシャウがタックスの話をするからという主旨のはずだ。そのタックスをすでに議論したから参加したというのか?

 タックスについて知りたくて、教えてもらうために集まった聴衆たちのはずが。おまえたちはすでに議論をしたというのか。聞きに来たのではなく、こちらの話すことを判断しにきたというのか──ナカタの自意識過剰だと言われればそれまでだが、他の会場の人たちの視線はそのように感じた。何か、その瞬間だけ、ナカタの集まりのようになった。と感じた。

 

 とまぁ、ここまでは自慢話といえばそうなのだが、もう少し話を続けたい。この瞬間にある大切なことが隠されているからだ。ナカタを含めた院生たちが、観察され分析され語りかけられ教えられる「現地人」という概念から過剰なばかりに意味を溢れさせているからだ。

 

 

 ここでナカタが「キマッた」と思ったのは、端的にいえば「現場」から観察と分析を仕返している、というベクトルを発生させることだ。

 祝賀会にはもうひとつのタックスが現れたのだ。現場から分析し返されるタックス。

 

 ヒンシャウの語る、ヒンシャウの口から語られるタックスとは、かつてパナハッチェルにおいてグァテマラ先住民研究を幕開け、その後米国人類学界を牽引しつつも、自ら行動人類学者として終生先住民の権利回復に注いだ、ひとりのリベラルな人類学者である。そしてヒンシャウはその一番弟子だ。

 

 そこに東洋人のナカタが、「現在グァテマラの大学で先住民の現代史を教えていて、タックスを主人公にした本を書いています」と自己紹介し、それに学生が何人か「講義でのタックスが面白かったので参加した」と続く。そこにあるのはもうひとりのタックス──調査され、分析されるタックスが現れる。

 

 断っておく。今度の拙著において、ナカタもタックスを理想的・典型的といってもいいくらいのリベラル人類学者として描いているし、本心でそう思っている。ヒンシャウの口から描写されるタックスにまったく異論はない。むしろ現時点では、タックスをリベラルに描けば世界でトップ・スリーには必ず入る自信がある。

 

 だが大切なのは、ヒンシャウがタックスを規定できる独占権が揺らいだことだ。ナカタや学生たちがタックスを取りあげ論じ、その結果リベラルと規定する決定権が瞬間的であれ、ナカタたち院生の側に掌握されたのだ。

 タックスの他界した今日、世界で最もタックスに学的に近いとされ得る、最もタックスを説明できる象徴でもあるヒンシャウを前にして、ひとりのワケわからん東洋人を「先生」として、グァテマラという「現場」としての農業改良普及所や先住民助成人権保護団体などで、日々奮闘している「現地人」が一緒になってタックスを論じていた、と。

 

 しかもネットなどといった個人的な集まりにおいてではなく、グァテマラの最高学府の大学院の講義というまさに国家の公共圏のド真ん中で。一瞬だが、そこには「タックス論」をめぐる学の権力がタックスの即金だったヒンシャウのシカゴにはなく、彼らの調査する「現場」にグッと引き寄せられる。

 

 こういう瞬間を現出させたかった。こういう瞬間を経験するために、ナカタは十年やってきた。

 

 何が嬉しいかというと、ナカタが日本の大学の教官ならば、サン・カルロス大学の客員教授でなければ、このような一瞬の場の転倒は不可能だっただろう。タックスを論じるならば、日本とシカゴでは勝敗は見えている。ナカタのそれは日本からやってきた、所詮は二流のタックス論でしかしかない。

 ヒンシャウはこう判断するだろうと言いたいのではない。学のポジションを言っているのだ。いわんやタックス論。長年師事してきたヒンシャウと、タックスと話したことすらない極東日本からのナカタ──これならばあの夜、ヒンシャウのポジションにとってタックスを語る権利は揺らがない。

 

 しかしヒンシャウのポジションは、ナカタがグァテマラの彼ら彼女らと、サン・カルロスで繋がることで、決定的なジレンマに陥る。彼は小説を書いた。その発表会ならば、「それをスペイン語で書き直したい、ついては英語の読める人、コメントを頂きたい。現地の皆様のコメントを参考にしたいのだ」──ということを宣伝しにきたヒンシャウは、当然のことながらあの夜をこの大学院生たちに宛てている。ヒンシャウにとって彼ら院生たちは、「まだ見ぬグァテマラの若者たち」だからだ。

 いつもの勝手知ったるメンバーではなく、こうした宣伝を聞いて興味を持ってやってきてくれた──この彼ら「グァテマラの大学院に通う将来を担う若者たち」において「興味が沸く」、ということこそがヒンシャウの求めているものである。だが大学院生は言う「ナカタ先生のタックスの講義が面白かったから」。

 この日の会の成功を測る指標を考えるなら、それはこうしたグァテマラの「まだ見ぬ」──つまりタックスの面白さを知らないグァテマラの大学院生が、どれほどきてくれるか、ということだろう。グァテマラの貧困に苦しむ人のための小説を書く。それを将来を考える現地の大学院生たちがたくさんくる。それはおおきなヒンシャウの望むところのはずだ。

 

 しかしこの一瞬は、会の場が転倒する──タックス論はあなたたちではなく私たちがやってきたことだ。

 

 ヒンシャウのポジションは、タックスという米国人類学者について面白い話を語るために場は開催された。そこでは、タックスのグァテマラにおける重要性をヒンシャウが語りにきたのだ。しかし院生の自己紹介はまったく逆のことを言っている──すでにグァテマラという「現場」の大学でタックスは重要だと議論されていたのだ。

 

 完全にこの瞬間において、ナカタはあのヒンシャウと「現場」のあいだに確実に介在して機能できたのだ。その介在によって、院生たちはナカタを「呼び水」としてヒンシャウに論じられた聴衆としてではなく、論じる主体性を発露させている──しかもそれは「語られ教えられる客体」を逸脱している、つまり講演に興味を持てずに会が白ける、といった程度に収まっていない。

 何とこの「現地人」たちは、そのタックスを議論していた──つまりはカウンター・パンチを繰り出しもしたのだ──状況として瞬間的に現出しただけとはいえ、スッと綺麗に成立したカウンターの回路。ナカタが日本に帰らなかったのは、これをやってみたかったからだ。日本からここにこうしているからこそ、成立する新たな力。

 

 こういう研究生活における経験をさせてもらったナカタは、これまでの苦労がすべて報われたと思わなければバチがあたるだろう。

 

 断っておく。これはナカタこそが真に現地の人びとと通じ合えるようになったなどということとはまったく無関係である。またヒンシャウの「現場」との距離を問うものでもない。彼こそ、ナカタとは桁違いの時間と努力を、パナハッチェルをめぐって費やしてきた人である。かつては彼こそが、サン・カルロス大学の客員教授として、またまた桁違いのレヴェルでグァテマラの学界に関わってきた人である。

 

 だが、あの祝賀会の静かな夜。アンティグアの外れの小さな一軒の家に現出したナカタと院生たちは、あの瞬間において「現場」とヒンシャウとのあいだに、確固たる学の対抗モーメントを発生させたはずだ。

 

**

 

 現代人類学の幕開けともいわれる『西太平洋の遠洋航海者』の著者マリノフスキーは、その死後になってこの著の基礎となった調査がどのように展開されたか、調査の日々の詳細なログとして日記が出版された。

 

 きわめて冷静で科学的な人類学者マリノフスキーとは異なって、日記では現地人と上手くいかずに時には悩み、時には彼らを罵倒し、故郷の恋人を焦がれ、近所の同じオーストリア人のコミュニティを心のオアシスとして出入りするといった、生身の人間像が現れている。この『遠洋航海者』と『日記』とのギャップが何を意味するのかをめぐっては、どれほどの研究が後世展開されたか知れない。日本なら『メイキング人類学』などが挙げられよう。

 

 タックスはこの学問的意義に気付いていた。だから彼は自ら調査日記を一冊にまとめ発表するのだ。彼の初期の代表作『ペニー・キャピタリズム』に向けた調査のなかで、彼が毎日必ず付けていた日記や、十歳年上の先輩教官レッドフィールドとの往復書簡などすべてを、彼は千ページほどのマイクロフィルムに収め、現在でもシカゴ大学などで閲覧可能となっている。

 もちろん意図は、自らの研究成果が結晶されていくプロセスをもまた、後世に発表しておけば、若い研究者たちの参考になるかもしれない。それは企業が新製品を開発する一方で、そのプロセスに関わった社員全員の携帯メールをネットで公表するようなものである。

 

 タックスはメッセージを発信したのだ。誰か第三者の眼で、自分のやってきた研究の方法論を論じて欲しい。それは学問のために役に立つはずだ。

 これに応えたのがルービンスタインだ。タックスは発表しているがそれはマイクロフィルムであり、アクセスが困難だ。もっとポイントに絞って一冊の本にするべきだ、と。もっと世界的にタックス論が展開できるように。

 

 タックスはさすがに躊躇したらしい。そこまでしたほうがいいのか、と。しかし最後には、自らのコンフィデンシャルな部分をさらけ出そうとも、そこから私たちの科学に役に立つのなら、と承諾する──ナカタの今度の拙著は、このルービンスタインの一冊を、ナカタが偶然シカゴ大学の大学生協で買っていなければ、決してはじまらなかった。そして大学院生が「ナカタのタックスの話が面白かったから」のネタは、ほとんどナカタはこのルービンスタインから教えてもらった。

 

 だからヒンシャウもナカタがこうして議論を展開することを、こういう状況が展開することを、(たとえそれが自らへの批判となっても)頼もしく思ってくれることだろう。それは、他ならぬヒンシャウ自身の師匠が望んだことであり、私たちに他界して残したタックスからの宿題なのだ──調査のログを全部おいて逝くから、できるだけたくさんの人びとの議論の礎として役立てなさい。

 

 

 祝賀講演も終わり、中庭で軽食での懇親会となった。しばらくして呼ばれた。彼らが集まっていた。ナカタに話があるという。

 

 こういうことだった──この仲良し院生のグループで、何かテーマを決めて研究チームを組織したい。みんなでガヤガヤ議論しながら各々の修士論文を作っていきたい。そしてもうひとつこういうときに、どこか研究費を支援してくれればと願っている。なにか名案はないか──ビックリした。ナカタはまさにその話を今回日本から持って行っていたからだ。そしてその夜は、ナカタの方から彼らに同じことを持ちかけようと考えていた。

 ナカタが日本に帰っているあいだに、日本のナカタとグァテマラの彼らのあいだで、まったくの偶然に同じことを考え、そしてまったく同じタイミングでその提案を切り出そうとしていたのた。

 

 中庭の片隅で、ナカタがオファーする研究テーマの説明がはじまった。今回のこの研究プロジェクトに関してグァテマラでいうならば、従来のグァテマラ研究において「共同体」なる概念は静態的な閉じたものと考えられているが、私たちに必要なのはその場その場で組み替えがおこなわれる緩やかな運動ネットワークとしての共同体のあり方で・・・云々。

 

 ヒンシャウの祝賀会の中庭で、ちょっとした「青空講義」がはじまった。

 

 三〇分ほど話しただろうか。すっかり意気投合した院生たちは、「今日は収穫があったぞぉ」といった満足に満ちた素晴らしい顔をしていた。いくらナカタに「啓蒙に酔っている。前衛主義的だ」などと批判が寄せられようが、そのようにナカタには映った。

 

 話し終えたナカタはフッと後ろを振り向いた。そこには、ニコニコ向日葵のような笑顔をしたヒンシャウがいた。ナカタにそして言った──ボクも昔はサン・カルロスで客員教授をやっていた。丁度キミくらいの頃かな。ボクもよくこうやって話したなぁ。懐かしいよ。

 

 それはナカタにとっては、これからもここで頑張ればこうした経験にもっと出会えるということを約束してくれる、頼もしい言葉なのである。

 

 

 このブログの丁度一年前。「2007年の仕事納め」を参照していただきたい。こう閉めていた。

 

 文字通り、抜け殻となったアンティグアから。

 しばらくご無沙汰するかも知れません。何も言うことがないから。

 

 そして二〇〇八年の三月、ナカタは師匠から一本のメールをもらった。今度の拙著の第一草稿に対する感想だった。

 

 たくさん話したいことがある。そう言われた。

 

 ナカタも今、皆さんにいいたい。

 

 たくさん話したいこと、一緒に考えたいこと、聞いてみたいことがある。

 

 このブログをみたひと、できたら誰が見ているのか知りたいです。ヒントだけでもコメントに書き残してくれたら嬉しいです。

 

 それでは。

 

 皆様。

 

 よいお年を。

 

 中田英樹・拝

 

 


グァテマラの高級私立大学

2008年04月10日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 

 さて、今年の正月明け。グァテマラに「帰国」したナカタは、早速フラリと招聘研究員としてお世話になっているグァテマラ社会科学振興協会(AVANCSO)に年始挨拶がてら顔を出した。同じセクションにはアナという研究員がいるのだが、彼女から特別講義の依頼を受けた。彼女が非常勤で教鞭を執る大学の一回生に、人類学とはいかなるものか、それはグァテマラの現代史にどのような影響を与えてきたのかについて、インパクトのある講演をしてほしい、と。

 その時は、日本語版を書いている真っ最中だったし、表に車を路駐したままだったから、どうせまた社交辞令だろうと食い付くこともなく、「またあとで詳細をメールして」と言い残し、その後やはり一カ月あまりが、予想通り何の音沙汰もなく過ぎた。

 

 ところが三月アタマ、実際の話としてメールが来た。三月二七日、心理学部一回生。午後七時半から九時までの一コマ。そして大学は、グァテマラでもトップクラスのお金持ち大学、ラファエル・ランディバル。タイトルは、講義の眼目を言われたときに決定できた──「北米人類学の生成とグァテマラのマヤ系先住民 Establecimiento de la Antropologia Norteamericana y Los Indigenas Mayas en Guatemala」──アメリカ合衆国に人類学を介してどれだけグァテマラの先住民がデータを供給し貢献してきたか。なんでこんなことをニホンジンのナカタがグァテマラでグァテマラ人に教えなきゃなんないのか、と奇妙にも思うが、なんせこれこそをしにきたのである。バッチコイだ。

 

 九時終了ならバスはないので、当日は道を知らないものの自分の車で大学に向かった。大学は首都のド真ん中を少し西に外れた高級住宅街にあるそうだ。なんせ初めて行くのに要所要所では大渋滞で、手元にはグーグル・マップを刷りだした怪しげな地図のみ。迷いまくり、やはりノロノロ運転で焦りまくり。

 

 やっとの思いで到着。いやぁ、ビックリした。こんなところ、マイ・カーでないと辿り着けないではないか。たまに大学行きらしい公共バスが見受けられるが、それよりビックリしたのは大学へと続く綺麗なアクセス・ロードでジャムっている、どう見ても学生の乗った高級車である。それは間違いなく米国の一風景だった。ウィンカーの割れたピック・アップなんぞほとんど走ってない。これだけBMWやベンツがグァテマラで局所的に密集させられる歪んだ社会のメカニズムとはいったい。

 

 ナカタの所属するサン・カルロス大学というのは、グァテマラでほとんど唯一といえよう国立の総合大学である。試験や卒業論文の審査に費用はかかるが、私立に比べれば格段に安い。だからそれ程金持ちでなくとも能力に応じて入れる。それでも多くの学生には、その費用すら重い。だからことグァテマラにおいて、こうした国立大学は夜間の方が圧倒的に活気づいている。学生数も昼間に比べて倍増する。みんな働きながら通うからだ。

 こうした大学に年限はない。日本のように八年以内に卒業しなければならないというつまらない制度はなく、子供を何人も抱えた親がコツコツ金を貯めつつ何年もかかって単位を取って卒業する。だから構内は物売りか職員か学生か、はたまたそれが教官か、見分けがつかないことも多い。カブに乗って校舎に乗りつけ携帯電話の景品のようなダサいズタ袋をもった腹の出たオヤジが、じつはバルセロナ大学で社会学の博士号を取っていた、なんぞよくある話だ。

 

 そうした途上国のまさに千の可能性に開かれた国立総合大学の雰囲気とは異なり、このグァテマラ屈指の名門私立大学ランディバルのキャンパスは、完全に整備整頓されたナカタのよく知るアメリカ合衆国のそれであった。

 

 駐車場。国際空港の駐車場のようなA-1、A-2、と整備された駐車場。至る所にいるガードマン──空きスペースならどこでも路駐し、校舎の入り口までブラジル製のバイクを乗り付けるサン・カルロス大学とは大違いだ。

 

 キャンパス。欧米の大学、とりわけUSAの大学ホームページのトップに登場するような、近代的な建築様式の校舎に、手入れのされた芝生──学生運動の落書きだらけの校舎に、至る所に「Microsoft Office 2008」のシリアルナンバークロック解除済みDVDを1ドルで売ったりする露店の並ぶサン・カルロス大学とは大違いだ。

 

 そして人種。ほとんどが白人である。グァテマラは約六割が先住民で、残りの四割が「ラディーノ」と呼ばれるスペイン系白人と先住民との混血である。六割と四割ならそれで全部になるではないかとなるが、グァテマラではそれくらい白人は少なく、わずか数パーセントだ。だがここランディバルでは違う。ほとんどがファッション雑誌に出てきそうなラテン系の白人だ。もう、端から順番に「ヴィダル・サスーン」「ロレアル」「モッズ・ヘアー」である。

 

 キャンパス内の至る所にある学生には無料のネットルーム。バーガーキングにカンペーロ。オープンカフェには学生がノートブックで学内に飛んでいる無線LANをひろってネットしている。至る所にNo Smokingの張り紙がある。事実、歩きタバコの学生の密度がハンパじゃない。マナーが悪いといいたいのではない。ヘビー・スモーカーになれるほどの経済的余裕のある学生がそれほど多くいるということだ。

 

 いずれにせよ、彼ら彼女らはグァテマラでも有数の金持ちのご子息様たちである。もちろんすべてがそうではないが、TOYOTAのスターレットのGTターボを日本から直輸入して通学しているオネーチャンが、間違いなくここにいた。それほどのニッチなカーマニア情報を得た、こだわりのマイカー所有者である。ナカタは中米にきて十年、はじめてここでNISSANのスカイラインGT-R(もちろん右ハンドル。しかもR33──33だぞ。32でも34でもましてや35でもない)を見た。(※:2017年現在、米国自動車市場では、いわゆる中古車に関する「25年縛り」が解除されるので、案の定、このR-33や34がべらぼうに価格沸騰している)

 そんな学生を対象とした社会観察はどうでもいい。問題は──コイツらが国内の先住民の被抑圧的な歴史の話に共感など覚えるのであろうか?

 

 だからグァテマラなどという世界の周縁国は面白い、といいたい。イヤぁ、喰いつきがいい。質問してくるポイントも的を射ている。質問タイム。バッチバチにアイロンのかかった前衛的なデザインのシャツの襟を立てて挙手した、耳に十個近いピアスを空けたニーチャンも、ナカタが戸惑うと専門用語を英語に置き換えてくれながらコメントをしてくれた。彼が言及したフランスの歴史学者ミシェル・フーコーの発音は完璧で、日本人のナカタは聞き返すほどだった(ちなみにナカタのフラ語の能力は絶望的である。フランス南部リヨン出身の親友がいるが、彼女にフランス、サッカー代表のアンリの発音が通じるまでに三年かかった)。

 みんな本当によく勉強していて、センスもいい。

 

 さて、この状況で、ナカタはどうやっていくかな、と。はぁ。

 

 ともあれ、本当に楽しいひとときだった。徐々に九十分の講義(つまり世界的な規格である大学一コマ九十分)を、スペイン語でやったときの時間感覚も体が覚えてきた。学生一人一人の反応をみながら、どいつがイチバンこの話に「優秀」についてこられ、どのあたりの一団がとくに関心も強くなくイチバン最初に「つまんない」と見切るか、そしてそのどの辺の中間層の反応をこっちの講義のペースメーカーに見立てていけばいいか、などを観察しながら(たいして面白くもないギャグ)を織り込みながら講義を進められるようになっていた。

 

 さて、その日から一週間が今日で経つ。そして四月四日はナカタが池袋の裏路地の公園でささやかな花見をして成田からこっちに飛んできて一年が経つ。研究費の都合上、一年に数度は日本に帰っていたナカタにとって初めての長丁場だ。はっきりいって食欲はミニマム。今度日本に帰ったら、諭吉を何枚飛ばそうがウマい鰻重が食べたい。浅草あたりで。

 

 はっきりいう。今回、このブログ。あまりにも「寒」く「オチ無し」である。どうしてもいま書きたいことがあるが、それは論理上書けない。この理由はもう数日後にはわかると思うし、即刻更新したいと思う──申し訳ない。ここまで読んでもらった人。ナカタは本当に遅いと思う。

 

 昔からそうだった。とにかく万全の準備をすること。だから同業から必ず数年は遅れる。で、そこまで追い込まれながら、「これをシクればもう後がない」という人生の選択肢を平気で選んできた。この二十年ほどでシャレにならんそれに三度立ったが、心から幸運だっとしかいいようがない、なんとか「吉」にその一瞬は傾いてくれた。

 

 いま、個人的には、四度目を踏む道を選ぶかの未曾有の岐路に立っている。あるものが欲しい。それは論理的にここでは言えない。

 

 今回のブログ更新。更新できていない、と締めようと思う。

 

   


マヤ系先住民衣装の著作権

2007年10月02日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 グァテマラに限らずラテンアメリカいや途上国全般でそうだろうが、ここに著作権というものは「ない」。だから露天市場は楽しい。ソニーのプレーステーション2の偽物が十数ドルで売っている。パカっと開けるとそこにはスーパーファミコンのカセット(の偽物)を差すスロットが。「世界のソニー」のみならず任天堂にも一緒にケンカを売る根性を称えたい。

 そういや昔、ニカラグアの首都マナグアで、道路の脇でオッサンがズラーっとブタの蚊取り線香を入れるやつを売っていた。その茶色の瀬戸モノのドテっ腹にはNIKEのマーク。売れ行きが全然違うと言っていた。どうでもいい。話をもどそう。

 

 グァテマラ中部高地にチチカステナンゴという地方都市がある。“先住民の村を観光する”というときの筆頭に挙がる街だ。毎週、日・木にはデッカイ市場が立ち、先住民たちの開くきらびやかな民芸市にドッと観光客が訪れる。

 さて、この市場に行ったら少し人混みから離れてみよう。ポツンと離れた裏路地なんかでガヤガヤと先住民女性が集まっているのを見つける。彼女らが漁っているのは、山積みにされたカラーコピーである。いったい何をやっているのだろうか。

 

 女性の先住民衣装には二つのタイプがあると以前書いた。「本当の意味」での伝統衣装であるウィピルと工場製のブラウスだ。前者はスペイン征服前から各々の村で固有な柄を持ち、一枚一枚手織りで織る非常に高価なもので、後者は、市販の布に適当に刺繍を施したブラウスで、前者の十分の一程度の値段である。

 後者のブラウスはウィピルのように村によって柄が異なるのではなくむしろその逆である。つまり目まぐるしい流行の変化があるのだ。今年は黒地のスカートが流行だ、去年は明るい色のラインを一本真ん中に入れたのが流行だ、動物の柄の刺繍が、花の柄の刺繍が、といった具合である。

 

 先のコピーはこれなのだ。つまり、コピーには刺繍の柄がカラーでプリントしてある。細かいものは拡大した目が強調されており、どのように刺繍すればいいかわかる。そしてこのコピーの下にはキチンとC(マルC)のマークまで付いて、このデザインを考案したものの名前が書いてある。一枚3ドルから4ドル。下層先住民階級の日給くらいである。これを買えばその柄の刺繍を施した衣服を売ってよい。違反すれば数ヶ月分の月給に等しい罰金が科される。つまりこれは著作権の権利書なのだ。

 

 ディズニーですらクレームを付ける気も失せるほど似ていない、気味が悪いとしか言いようのないミッキーマウスのメリーゴーランドが、サーカスとともにグァテマラを回っている。そのお祭りの明けた朝イチの人混み離れた裏路地で、先住民の伝統衣装をめぐる著作権を地域の権力による管理ネットワークが守っているのだ。

 

 そしてこの柄の「有名デザイナー」は、ナカタの調査によればサン・ホァン・コマラーパ村の出身者が多い。グァテマラで先住民素朴画で有名な三つの村のうちの最古のものである。この何とも奇妙な“先住民伝統衣装の最新ファッションデザイナー”とでも言いえよう実にアヤシイ職業に、私たちはグァテマラのマヤ系先住民が辿ってきたもうひとつの歴史的水脈を感じ取るのである。

 

 

 

 

 

  


チキンバス1

2007年10月02日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 グァテマラでは観光客のあいだで地元のローカルバスのことをチキンバスといい、ひとつの観光名物となっている。その不快さを風刺した土産物のTシャツなどもよく見かける。アメリカ合衆国で走っていた中古のスクールバスを改造したもので、メッチャクチャ乗客を詰め込んで走り去る姿が──というか“メッチャクチャ乗客を詰め込めたので出発した”、と言う方が正しい。ここにもちろん時刻表はなく、満員になったら出発時刻である──さながらブロイラーがドナドナ状態で出荷される様に似ているからそのように呼ばれている。

 「スクールバスを改造した」と書いたが、その「改造」たるやナメてはいけない。エンジン足回り。バスの設計者が想定した倍ほどの乗客を乗せても、十分に坂を駆け上がる。これはアンティグア首都間の太い路線などの場合には、きわめて重要なこととなる。

 なぜならチキンバス、できればできるだけゆっくりとナメるように走りたい。できるだけたくさんの乗客を乗せればそれだけ車掌と運転手がグルになって運賃を横領できるからだ。しかしあまりゆっくりとは走れない。後ろのバスに追い抜かれたら、そいつにその先すべての乗客を持っていかれる。

 

 こうして二台が並んだときがエゲつない。雨期には道路は河になる。その二車線を二台のチキンバスがターボをキンキン言わせてコーナーを抜ける。内側の一台がオーバーステアリングでケツをこちらに流してくる。ときには「コン」と接触させながら、それでもバスはアンダーを当てながら一歩も引こうとしない。

 

 映画のようなカーチェイスに民間人を強制的にエキストラにするのはやめるべきである。高橋レーシングの運転でダチョウ倶楽部でも乗っけておけばいいのだ。

 

 室内は、経験したことのない者の想像力を遥かに上回る混沌である。グァテマラにおいて、都市間を走るこれらチキンバスには、立ち客は乗せてはいけないことになっている。たまに夕方ラッシュなら立ち客も満員になったりするが、警察の検問になると車掌が叫ぶ。「皆さん!屈んでください!」──たまにスペイン語がわかっていない外国人なんか、周りの地元民に無理矢理アタマをガツンと押さえ込まれ、狼狽し顔面蒼白を笑い者にされる──通過したら「ご協力ありがとうございました」。

 だから座席が改造してある。米国ではガキ対象ですら横三人席と二人席なのだが、このグァテマラのチキンバスは微妙な2.5人席が二つ。したがって真ん中の通路は幅30センチほどしかない。

 そしてこれが三人掛けである。

 

 これはナカタの経験的統計でしかないのだが、このグァテマラ、無作為に三人を選んでくると最低ひとりはデブだ。ならば横六人掛けたとき、通路は完全に塞がれる。そしてラッシュにはそこに立ち客が乗り込んでくる。忘れてはいけない。グァテマラは三人にひとりはデブなのだ。三人立ち客が乗り込んできたら、そこにも必ずデブはいるということだ。当然そのような通路に体を割り込ませられず、だいいち面倒くさい。だからすでに先頭一列目の座席を通過できず、せず、──ジャムる。そこにさらに乗り込んでくる。さらに三人乗り込んだら──言わないでおこう。

 

 問題はこれが最悪の事態ではないのだ。混乱はここからはじまる──車掌の運賃徴収である。勘弁してくれ。グァテマラ。せめて切符かトークン制度を導入できないか。

 あり得ないスペースを車掌が通ろうとする。通れるワケがない。そこを通る。ほとんど人権を無視したドナドナ状態の車内を急カーヴの猛烈な横Gが揺さぶる。それで隣に座っているデブのオバちゃんが気持ち良さそうに寝ていたりしたら、ナカタの思考はもはやバグである。

 

 それでも必ず料金は徴収される。最後尾まで車掌がたどり着いたとき、そのままリターンする車掌はナカタのなかで「イケ」てない。再び大騒動となり乗客の冷たい視線を浴びる。グァテマラの車掌ならば、そこから後ろの扉を開け、屋根に登り、走るバスをそのまま前の入り口まで這ってくるというスティーブン・セガールかブルース・ウィリスのようなことをやらなければならない。たまに道路標識にそのままバチコン、逝っちゃう車掌もいるらしい。セガールではなくその悪役の方にならないよう気を付けるべきだろう。

 

 この車掌の技をナカタは「オッ、でた!ウルトラC」と呼んでいるのだが、ニカラグアにはさらに上がいるとのこと。友人の同業者で、コスタリカのことを書かせたら日本人で右に出る者はいない小澤さんがニカラグアで満員のバスに乗ったとき、車掌はバスのボディ側面の僅かなその「なげし」のような出っ張りを足場に、外から運賃を徴収していったとのこと。「いやぁナカタさん、ビックリしましたよ」──当たり前だ。中米、深すぎる。

 

 「そんなバス、ナカタさん、危なくないんですかぁ?」──危ないに決まってる。JICAの職員は乗ることを禁じられている(ナカタのパトロンも同じ文科省のはずなんだが)。同じ宿の宿泊者が夜更けになっても帰ってこなかったことがある。心配してたら警察に保護されて顔面傷だらけで帰ってきた。首都に出かけ、帰りのバスが横転したのだ。翌日の新聞が香ばしい。この時のバス事故の記事をまとめると、バス出発前に運転手と車掌のあいだで交わされた会話は次の通り。

 (場所)とある立ち飲み屋。「オッ、そろそろ出発やぞ」「オウ、そうやなぁ」「オレ、ちょっと飲み過ぎちゃった。オマエ、運転代わってくれやぁ」「オレも飲んでんやけど。第一オレ、免許持ってないやんかぁ」「それでもオマエ、ずっとオレより呑んだ量少ないやんけ。大丈夫大丈夫」──それで車掌はカーブを曲がりきれずバスは横転。事故直後、その二人はヤベェ、ということで現場を即刻逃げている。「乗客救助」なる概念などあったものではない。

 

 そんなチキンバスでもこの数年、ナカタの感じる変化がある。とりわけ9・11以降の原油高騰で、この首都への路線運賃もほぼ倍になった。それでもますます多くの人が毎日、このチキンバスで圧縮されている。

 一方で、首都への所要時間は増えるばかりだ。それだけ車の量が増えたということである。ますます膨張し続ける大都市グァテマラシティ。新車のマイカーで出勤する波を、ジワジワ高騰する運賃で下層階級の首を真綿で絞めるチキンバスがエアホーンを「パッパー」と景気よくならしながら掻き分けて突き進む。

 

 そしてそれにナカタはこれからも乗るだろう。この車窓からしか見えないものがあるはずだからだ。

 

 

 

 

 

    


グァテマラの家政婦市場

2007年09月02日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 

 もうかれこれ三年ほど一年のうち半分くらいは、首都から一時間ほどの閑静な近郊都市アンティグアでモノ書きをしている。さて、田代さんという同い年の気さくなオジサン(同時に自分もそうであると認めてしまった・・・)の経営する宿にいつもいるのだが、ここも常にひとり家政婦さんを雇っている。

 ちょくちょく変わったりするのだが、最新の家政婦さんは生まれたばかりの赤ちゃんを連れている。最初は背負っていたのだが、聞くと20リブラ(約10キロ)程あるらしく、そのうち洗濯タライに入れるようになった。さながらグァテマラ版「子連れ狼」か「一寸法師」である。いや、ドンブラコと流れられるから桃太郎か。まぁどうでもいい。

 ということでお母さんは、タライにチョコンといれたままどっか行ったりできる。しばらく帰ってこないと泣き出すのだが、髪をこうやって括ってもらってオッチンしてたら、それこそ宿泊客の絶好のマスコットだ。「そのうち日本語も覚えるんじゃないのか」などといいながら、誰かしらがあやしにかかる。

 頭を剃った元土建屋のオッサンも、夜な夜なクラブに踊りに出かけるネーチャンも、この子の前を通るときはデレデレに急変する。しかし考えてみれば生後5ヶ月だ。産休もクソもあったものではない。これはグァテマラ現代社会のある典型的な側面を垣間見せている。巨大な家政婦市場である。

 

 2000年頃からとどまることを知らない、ここグァテマラでの新自由主義(ネオ・リベラリズム:「勝ち組」と「負け組」の差がより拡大するような路線)のおかげで、首都はますます治安を悪化させ、郊外にはいわゆるコンドミニアムだとかレジデンシャルといった、塀とガードマンに24時間守られた集合団地が増えてきている。そんなところに家を持ってマイ・カー通勤できるような家にとって、月給一万五千円くらいの家政婦をひとりくらい雇うのは容易い。日本の都心で月何万も出してガレージを借りている家計の方がずっとキツいかもしれない。

 

 首都で「仕事」を終えて5時頃に、地元のローカルバスに乗ったときなんか、この仕事帰りの家政婦がテンコ盛り乗ってくる。下は15−6歳から上は40歳とかまで。その多くは学校を出てないし読み書きができない。そしてグァテマラの山間部において、この家政婦市場に大量に労働力を供給しているのが、先住民下層階級である。

 

 家で小さいときから覚えてきた家事をこなすノウハウで、そのまま現金が稼げるこの家政婦という存在は、先住民家庭において伝統的衣装の衰退と表裏一体の関係にある。一般的にグァテマラ先住民において、女性は先住民独特の衣装を着ているのだが、それには二つのタイプがある。伝統的なウィピルと呼ばれるものと、市販の布にフリルを着けたブラウスのようなものである。前者は数万とかするものもあり、言ってみれば数着持っていればそれで一生モノ、日本で言う昔の着物みたいなものだろうか。対し後者はその十分の一ほどで「上モノ」が手に入る。

 ウィピルというのは、各々の村によって柄が違い、それが21世紀グァテマラ産業の期待のホープ(?!)観光産業の「目玉商品」となっている。昔はこれを、各家庭で娘が成長する過程で教え、自分のそれを織るようになり、余裕があれば売ってきた。何度洗濯しても柄が絶対崩れないほど、ガッチガチに丁寧に織り込まれたそのウィピルは、逆にゴツゴツしていて動きにくく家政婦などの労働にはあまり向かない。そうして昔は家にいて母親や祖母から織物を習う時期に、彼女らは家政婦として働きに出ることとなる。ならばもはや、むしろ覚えるべきはスペイン語である。

 

 ナカタの立場を断っておく。この動向を積極的に肯定するつもりはないが、しかし同時に「マヤ文化の衰退」として嘆くつもりもない。ただ言いたいのは、山間部の先住民の暮らす地域から、あるいは都市の最貧困層居住地域から、莫大な数の女性をこの家政婦市場に二束三文の労働力として、このグァテマラの現代社会は一層の加速度でもって吐き出し続けている。そしてその渦中に自らを投じた、投じざるを得なかった先住民女性たちは、ウィピルを捨てて工場製の先住民衣装を着るようになるだろう。そしてこうした先住民女性を取り上げた史料は、研究であれなんであれ、想像を絶する少なさである。

 

 昨日、市場に買い物に行ったときに赤ちゃん用のオモチャを見つけた。ガラガラ音の鳴るマラカスのようなものと、ヘコませばパコパコなるゴムボールを買ってあげた。泣きだしたときに、みんな何かモノの音を鳴らしてあやしていたから、これがいいだろう、と。

 

 逆効果。今度はそれをブンブン振り回して泣くものだから音量が二倍に・・・・

 

 そして今日。度重なる遅刻と、あまりにもの仕事の雑さに宿主さんがキレてクビに。。。そのことをナカタに教えてくれたときに彼はフッと漏らした。「静かになりますしね」(もちろん彼は冗談でこれを言っている)。

 

 オモチャ、ド裏目である。

 

追加情報・・・いま奥さんから聞いたのですが、そのお母さんがDVをその赤ちゃんにやっていて、何度叱ってもヤメないのがますますポイントを下げていたそうです。なんともまぁ、グァテマラはいつも穏やかには終わらせてくれませんね。

 

 

 


グリマーさん

2007年09月02日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 浦沢直樹の漫画『モンスター』にグリマーさんという人が出てくる。知らなくてもどうでもいいのだが、華奢で物腰が柔らかく本当に敵の少なそうな優しいオジさん、とでも言っておこう(よってシュタイナーさんではない)。

 さて、まさにそんな感じの日本人が、ある日この宿にやってきた。名乗られ、丁寧に挨拶をされた彼はとても疲れてそうだった。当たり前のように「上(メキシコ)からですか?下(南米)からですか?」、とまずは聞いてみる。ヘトヘトだったに違いないが、深く呼吸をひとつとり、彼はボソボソとしかし止まることなく言葉を発しはじめた。

 

 彼は中米を南(コスタリカ)から北(グァテマラ)まで抜けようと旅行していた。会社の盆休みをスライドさせたわずかな休暇をおもいっきり楽しもうということだ。10日しかない。なので彼は国際バスで一気に抜けようとしていた。

 ニカラグアからエルサルバドルに入ったとき、バスの車掌は集めた乗客のパスポートをイミグレに持って行ったが、イミグレはグリマーさんのそれにだけ、入国スタンプを押し忘れた。彼は当然、その少し先のパスポート検問にて不法入国で捕まることとなる。誤認逮捕なので大使館に伝われば即刻釈放だったのだが、運悪くそれは金曜日の夜。かくして彼は、エルサルバドルの刑務所で、たった10泊しかない3泊を費やすこととなる。

 

 とはいっても刑事犯ではないので彼は20人位の大部屋に入れられた。一日に与えられる食事はトルティージャ3枚。もちろん足りるワケがなく、売店で各自購入することが許されている。しかし本当に不法入国したニカラグアなどからの貧困移動労働者たちはそんなお金を持っていない。大部屋にはデッかいキューバ人がボスになっていて、お金はそこそこ持っているが国籍のために釈放されずにいた。その「親分」が、無一文のガキとかにもっとトルティージャを買ってこい、とお金を恵んでいるらしい。

 

 グリマーさんはそのキューバ人ボスに気に入られ、よくしてもらったらしい。何よりもの証拠は、彼のスペイン語である。たった10日のおそらくは最初で最後のラテンアメリカの旅である。ほとんどスペイン語はゼロのまま彼は旅を始めた。誰が刑務所にブチ込まれるなどと予想しようか。「クアンド・ジョー・サリール」(イツ、ワタシ、デルネ)。「ケレール・コメール」(タベルノ、シタイネ)──限りなく稚拙だが確実にポイントを伝えるその彼のスペイン語には、「セルベーサ」(ビール)や「ポジョ・フリート」(フライド・チキン)などという語彙はなく、ただひたすら生存に必要な単語のみを確実にとらえていた。「ナカタさん、日本と石鹸は同じ単語なのですか?」──国籍の日本(ハポン)と洗うための石鹸(ハボン)というように。

 

 かくして何とか彼は週末を(なんて刺激的な週末なんだ!)刑務所で過ごし、月曜の朝イチで釈放されヘロヘロになってナカタに語ったのだった。

 なんとも運が悪いというか御愁傷様というか。しかし終わってみれば土産話。だいいちたった10泊の旅行で、世界のどこ探してもないはず。

 

──「そのうち週末の3泊はエルサルバドルの実際の刑務所に泊まってもらって、ホンモノの囚人生活を体験してもらいます」


グァテマラ理髪師の「仕事」

2007年02月18日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 ナカタが初めてここグァテマラに来た時のことだ。日本を出て、はや四ヶ月。スペイン語もようやく日常会話は苦労しなくなって心に余裕ができたのか。毛量の多いナカタは、いい加減ボッサボサになった髪の毛に耐えられんくなっていた。

 そこで、サン・ペドロ村で毎日をマッタリと過ごしていたナカタは、ある日、友人に聞いた。「ところで、この村に髪の毛を切るところはあるのか?」。彼は紙を取り出し地図を書き始めた。しかし彼のマークした所は明らかに畑のド真ん中。

 そして彼は続けた──「ここで農作業しているヤツが散髪屋だ」。

 

 この異常なセリフも、かくもサラっと言われてしまえば、ニンゲン、「あ、そうなの」と簡単に飲み込めるものである。早速、超ゴキゲンでトウモロコシ畑を歩いて行く。いたいた。「髪の毛を切りたいのだ」。「はいな。ちょっと待って」──裏で洗濯をしていた豆腐屋のオバちゃんが「お客さんきてはるでぇ〜」と言われて「はいな〜、今いくう」とエプロンで手を拭くようなものである。「ほな家までいこか」──そんな感じで手の泥を拭ったオッサンは、ナカタを丘の上の彼の家まで連れて行った。

 薄暗い部屋に電気を付けると、なるほど確かに散髪屋らしい椅子と鏡がある。よかろう。座る。するとオッサン、おもむろにバリカンをコンセントに繋いで、スイッチを入れ、ナカタに近づいてくる──「ちょっと待て。何かあるだろう」。ナカタはまだどうしたいのか一言も言っていない。「何かヘアカタログとか、参考になる写真でもないのか?」

 もちろんそんなものはない。しょうがない。「ならその都度言うことにする」。「わかった」。

 彼は再びバリカンにスイッチを入れる。ちょっと待て──「オマエ何かこう、ビニールのポンチョみたいな被るものとかあるだろ」。このままでは切った髪が、襟足から服の中にオール・インではないか。「いちいち注文の多いチーノ(東洋系の愛称)だな」──面倒くさそうに奥から彼はビニールシートを出してきた。

 「あるなら最初から出せ」。

 

 この時ほど、スペイン語をもっと上達させなければと思ったことはない。注文をつけようにも動詞の活用を思い出しているうちに──やられた。結果、ナカタは当時ムラでは最新の流行カット、『ドラゴンボールZ』の孫悟飯、あるいは『サザエさん』のワカメちゃんのそれをお見舞いされ、帰国後、ただちに髪を切りにいって爆笑されることとなる。

 

 これ以来、ナカタは必ずスキ鋏やシャギー用のカミソリなどを持ってきてひとり屋上で自分の髪を切るようになる。いまでは切ってると屋上で他のバックパッカーに囲まれるようになり、よく言われる──「ホントに器用に切るなぁ」──あたりまえだ。ネバー・ワカメちゃんである。

 あれからはや八年。もうナカタはスペイン語を十分に上達させた。二度と好きにはさせない。グァテマラの首都近郊高級住宅街アンティグア市で原稿を一本、一段落させたナカタは、センスの信用できる近所のネット屋のニィちゃんに尋ねた。そのネット屋に流れている音楽は、バイトのお兄ちゃんがmp3の音楽ファイルをかけているのは知っていて、そのセンスはなかなかのものだったから。

 「このアンティグアで一番コマシな美容院はどこだ」。

 

 特に女性のバックパッカーに多いのだが、長旅の最終地がこのグァテマラで、帰国日が迫ってくると、「あぁ、日本帰ったらまず美容院行って、このグチャグチャになった髪をちゃんとしてもらわな」などとよく言われるが、逆である。安いグァテマラだからこそ、日本では絶対行けないような高級なサロンを楽しんでみればいいのである。アロマ・キャンドルに照らされ、BPM90くらいのチルアウトの曲が薄く流れているその店内の雰囲気は、不安の眼差しで覗き込んだナカタに、一瞬でグァテマラにいることを忘れさせる程の圧倒的なものであった。第一、店内の会話が全部英語である。

 

 ナカタはかくして、物凄いスリットの入った背中まる出しの黒ワンピを着たモデルみたいな美人の店長ではなく、ニューヨークでずっとサロンで働いていて、今は旅をしているニルヴァーナのカート・コバーンのようなカッコいいニィちゃんに切ってもらうこととなる。ナカタが項、ジェスチャーも混ぜて要望を伝えると、そのニィちゃん、「つまり、後ろはメッシィにいった方がいいということなんだな・・・」

 !──全幅の信頼とはまさにこのことである。間違ってもワカメちゃんの画はない。欧米中心主義とでも何とでもいわれようが、あれだけはあり得ない。

 

 自らの作戦の成功を確信し、ご満悦だったナカタはついYMOの「ライディーン」を思い出したのだろうか。勢い余って坂本教授になりたくなり、思わずカットに加えて「銀髪にしてください」。ヘア・カラーの腕の差は、銀を入れた時にこそ最も顕われるらしく、彼は大ハリキリでナカタにいつにないチップを弾まれることになる。マッサージまで付いて四千円弱。ここでは四万円くらいの感覚だが、日本なら本当にこれほどの店なら四万くらいするだろう。

 

 宿ではいい宣伝効果になり、何人か「髪を切りたい」という同種の欲求と、「しかしここでは・・・」という同種の不安を抱いていた者たちが後日続いたのだが、ひとりワキの甘いニィちゃんがいた。元名古屋の営業マンである。「ボク、丸坊主にするだけなんでその辺の安い(十分の一くらいである)近所で切ってきますわ」。

 しかしそこはグァテマラの散髪屋。丸坊主であろうがバッチコ主張を入れてくる。耳の上あたりから、肌色と黒の二色で塗り分けた昭和の漫画のように、ラインがくっきりと。

 しかも、十中八九、右を左に揃えようとしたら右のラインを上げすぎて、今度は左のラインを右に合わせようと上げたら切りすぎたことを黙秘した跡がクッキリとまた残っており──「どうだこの見事な襟足のライン!」。

 フロント・ビューしかマークしていなかった彼の甘さである。

 

 さすがグァテマラ。ビックリ・ショーの連打だ。

 

 

  


グァテマラのガリフナ族のお祭り

2007年02月15日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 先住民が占める人口の割合は、ここグァテマラでは六割とも七割とも言われるが、先住民といっても二十数余りのサブ・カテゴリーに別れる。昨今、「グリンゴgringo」という新たな民族が加わったという冗談を観光地では耳にするが、これはつまりグァテマラ観光の活性化とともに流入著しい先進国からの旅行者「グリンゴ(ヤンキー、といった揶揄的な呼称)」を指している。

 さて、先住民のほとんどはマヤ系で、モンゴロイド系人種の日本人などとよく似ているのだが、カリブ海側に行けばガリフナという黒人系の先住民──時にこの言い方に問題あるのは承知している。元来そこにはおらず連れてこられたという意味では彼らは先住民ではない。こういうヨコヤリへの牽制はできるだけこのブログでは避けることにする──が暮らしているのだが、2000年11月末のある早朝、小さな村の朝誰もいないメイン通りにナカタは友人と二人、ポツンと立っていた。友人とは山間部サンペドロ村のマヤ系先住民で、彼の「ガリフナの毎年恒例のお祭りがあるのだが見に行かないか」という提案でボクたちは丸一日バスに乗ってやってきた。『地球の歩き方』などの観光ガイドにはそんなこと一言も書いていない。こいつの「たぶん・・・やってるはず」だけが頼りだった。地元の情報によれば早朝からこのメイン通りで乱痴気騒ぎが練り歩くらしい。しかしその光景は、中米どこにでもある海辺の、潮の匂いと鶏の鳴く静かな早朝のそれであった。

 

 「オイ、ビセンテ」「何だ」「その祭り、デカいんだろうな」──二日酔い程にも抜けていない酒気にタバコを吸いながら、ナカタは通りの先の海を見つめていた。その通りは先が下り坂だったのだが、15分くらいボーッとしてたら何やらモサモサ、小さな森が現れた。

 そこからの出来事を、ナカタは本当に口をポカーンと開けて見ていただろう。タバコの灰はポロポロと零れ落ちていたことだろう。その「小さな森」は、徐々に坂を上りこちらに近づいてくるにつれ、その全貌を顕す。約20人くらいだろうか。それはバナナやヤシの葉で自らを仮装したガリフナの住民たちの乱痴気集団だったのだ。太鼓を鳴らし、歌を唄い。片手には1リッターのビール大瓶か、エチルに水道水を混ぜたとしか思えない合成酒。そしてもう片手にはソーセージ程のでっかいマリファナのジョイント。まさに、ガチャガチャ音楽をたててガンジャの煙を燻らせる木々のお化けたち、という感じだった。

 ナカタの記憶では(それもまだ全然酔っぱらいの)、それが通ったら宴の開始だったと思う。たちまちそこは飲めや歌えやの大騒ぎとなった。ナカタもしばらくはパイナップルを頭に乗せて踊りに飛び入りしたりしていたのだが、酒が回ってきて勝手にその辺の軒先にある椅子に座っていた。すると60歳くらいのオバァちゃんがナカタの隣に座ってきた。

 手にはケツァールテカ(グァテマラを代表する合成安酒)。ナカタにニコっと笑って差し出す。このゲロゲロの二日酔い状態でこのクソ安酒!。「胃に入ってくれ!」という願いとともに流し込む。どうやら胃まで落ちてくれたようだ。亡・中島らも先生がよく使っていた表現だが「胃にポッと火が付く」。

 そしてオバァちゃん「どこに泊まっているのか」と聞いてくる。「そこの通りを降りたところのホテルだ」。するとそのバァちゃん。手をグーにして顔の前でヤラしく動かす。もちろん親指は人差し指と中指のあいだからニョキっとでている。「ヤリに行こうや」──冗談じゃない。そのような現地調査は契約に入っていない。

 しかしこのガリフナという民族。本当に酒に強い。そのままその日は午前中いっぱい、あちこちで飲まされまくり、午後はバッチコ昼寝。夜に起きてもまだ街中が乱痴気騒ぎ。で、夜中まで続き、次の日はまったく通常営業。オイ、昨日どれだけ飲んだんだ。マヤ系のその友人も驚いていた。モンゴロイド系のマヤは酒に弱い。「サン・ペドロであんな祭りがあったら次の日は道路のあちこちに間違いなくバカがいっぱい寝てるんだが」。まったくその通りだ。

 

 経済的な急成長を遂げるメキシコ。そのウマい汁をたっぷり注ぎ込み、ますます豪華に膨張するビーチリゾート地カンクン。ガリフナたちの暮らす地域とは、コロンビアとこのカンクンとの、そして北米マイアミとの間にある。それはつまり、洒落にならない量のコカインやアシッドがこれら地にも容易に持ち込めるということである。

 騒いでいる者たちも、それを見ている者たちも、その乱痴気が宴のハレによるものか、クスリのそれによるものか。その割合は近年とくに変化しているだろう。

 

 このように、グァテマラ観光産業を支える「先住民」という「商品」をめぐる問題として考えれば、ガリフナたちもマヤたちと同じ「先住民」問題を抱えているといえよう。だが、このガリフナを「21のサブカテゴリーのひとつ」として他のキチェやカクチケルなどと、いつから並列に置くようになったのだ。

 

 M.A.アストゥリアスの幻想的な小説であれ、M.パジェーラスの叙述的な詩であれ、それらのトーンやリズムは、一方でのカリブの例えばクレオール文学などのそれとはおよそ似ても似つかないのは一目瞭然。ガリフナもグァテマラ現代社会のマイノリティ集団ならば、「先住民」という位置を足がかりに、外部の抑圧的な力に抗していくことはひとつの有力な戦略である。だがその時には、もはや何か発しなくなった言葉があるかもしれない。

 

Can the subertern speak? 従属階級は話すことができるのか?──スピヴァク

 

 リビングストンにはタパードというガリフナの伝統料理がある。ココナッツミルクのスープにカニや魚など魚介類をふんだんに放り込んだものだ。DF「築地」の海産物スープと並んで絶対に見逃してはならないメソアメリカ二大スープとナカタは定義している。「美食は人を黙らせる」──リビングストンのタパードをだす食堂こそがふさわしい。だが、黙々とカニをせせるその際には、その海産物にカリブの豊かな自然とこうしたマイノリティたるガリフナの置かれた同時代史を感じ取ってみてほしい。

 それこそがこのスープの最大の隠し味である。

 

  


1968年

2007年02月08日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 1968年とは、世界でいろいろなことが起こった年です。学生運動やゲイ・レズビアンの運動、ヒッピームーヴメント。などなど。それはどういう年だったのだろう。これがこの本です。二部構成で前半が日本で、後半が世界です。ナカタは中米・メキシコを担当しました。パトーホ(ちびっこ、という意味)というグァテマラ人が主人公です。1950年代なかばにグァテマラから脱出したチェ・ゲバラは、メキシコに逃げる途中の電車で彼と出会い、そのままゲバラの片腕としてチェのキューバでの執政におおきな力となりました。そのパトーホは、やはり晩年、キューバでの重要なポストより、「祖国」グァテマラでの「革命解放」のために帰国、そのまま内戦に参加します。

 

 グァテマラ内戦下。十年ほど前のキューバ革命こそが左翼のお手本。ならば、その英雄チェ・ゲバラの旧友でゲバラの思想を誰よりも間近で体得してきたパトーホこそが、グァテマラ革命にとってこの上なく有り難く、格段にパワー・アップさせてくれるはずでした。

 

 しかしパトーホもまた、蝋燭に飛び込んだムシのように戦死します。だがこの時パトーホは、このかくも危険で強烈な内戦の渦に、思想ではどうにもならない、グァテマラ内戦のあるひとつの大きな渦を覗き込んでいました。それをめぐるお話です。

 

「『自由な祖国』への『連帯』に関するノート ──メソアメリカ 一九六八年──」、すが秀美編、『思想読本11 “1968”』、東京、作品社、2005年、206-211頁


一月一五日。始動。

2007年01月27日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 皆様お元気ですか?ナカタ、中米はグァテマラのアンティグアから書いております。昨年(2006年)年末。メキシコ中部の高地オアハカにて、思い出したくもない事故(まだ伝わってない人、すみませんです。そうなんです。10人くらいの運転手やら車掌やら、老婆の乗客やら。全員が泥棒の一団で僅か2分くらいの劇場型窃盗劇を打たれたあげく、貴重品の鞄をそっくり持ってかれました。

 それはそれは見事な寸劇で、パクられたなかにMac Book Airがはいっていたことに気づく数分後まで、何が起きたのか全くわかりませんでした。現場は、昔の球場をバスターミナルに改造した施設内で、ナカタはその薄暗い大きなホールで、ポツンとひとり仰向けになってしばらくの間、放心状態で固まっていました。ドイツ、ワールドカップ最終戦を終えてピッチで仰向けになっていた中田英寿のように。そのうち掃除のオッサンとかが「大丈夫か」と覗き込んできたりして。

 何よりもショックだったのは、ナカタが完全に警戒しているなかで盗られたということで、しばらくは怖くて、というかどうやって外で気をつけていけばいいのかわからなくて、じっと部屋に引き籠もってしまうくらいでした。)

 

 さて、そしてようやく、心を落ち着かせて、躰をリセット。再起動で立ち上がった、という感じです。ここまで立ち直るのに何故一カ月もがかかったのか。それは少しまだありまして・・・またいつか書こうと思います。