芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

好きな童謡

2016年10月10日 | エッセイ
                                                               

 あまり童謡や唱歌を耳にすることがなくなって久しい。はなはだ残念なことだ。
 これまでも童謡唱歌の逸話を、勝手な想像まじりに「掌説うためいろ」と題して書いてきた。「勝手な想像まじり」というのは、詩人や作曲者に関する様々な解説や逸話を読むと、どうも違うのではないか、あるいはその時代が立体的、重層的にとらえられていないのではないか、と感じられるため、こうではなかったのか? ということからくる想像なのである。
 これといった劇的な逸話が少ない童謡唱歌は、「掌説うためいろ」に入れなかった。しかし、二木紘三先生、池田小百合先生や、童謡唱歌の仕事に携わっておられる方々には、とてもとても及びもしないが、私にも大好きな童謡や唱歌が数多くある。

「どこかで春が」はそのひとつである。作詞は百田宗治、作曲は草川信で、大正12年(1923年)に発表された。
 百田宗治は明治26年(1983年)大阪生まれである。大正4年(1915年)に個人雑誌「表現」を出し、その翌年に詩集「一人と全体」を出版した。彼は人道主義的、民主主義的な傾向を強め「民衆」派詩人の一人と目された。その後は贅句を削った現代的な詩風に一変した。昭和7年以降は童謡詩、児童詩・作文教育に取り組み、児童文学者や全国の教師たちと綴方運動を始めた。

   一
    どこかで「春」が 生まれてる
    どこかで水が 流れ出す
   二
    どこかで雲雀(ひばり)が 啼(な)いている
    どこかで芽(め)の出る 音がする
   三
    山の三月(さんがつ) 東風(こち) 吹いて
    どこかで「春」が うまれてる
  
「緑のそよ風」も草川信の作曲である。昭和22年(1947年)に、清水かつらがNHKラジオの依頼を受けて作詞し、草川の最晩年の童謡となった。この頃の彼は、南方に出征したまま生死も知れぬ長男・宏のことや、罹病のため塞ぎ込むことが多かったという。
 しかしこの歌は明るい。彼の希いを込めた最期の明るさだったのだろう。この「緑のそよ風」は翌年の1月に放送されたが。彼はラジオから流れるこの曲を聴くことができなかった。

   一
    みどりのそよ風 いい日だね
    ちょうちょもひらひら 豆の花
    なないろ畑に いもうとの
    つまみ菜つむ手が かわいいな
   二
    みどりのそよ風 いい日だね
    ぶらんこゆりましょ 歌いましょ
    すばこの丸まど ねんね鳥
    ときどきおつむが のぞいてる
   三
    みどりのそよ風 いい日だね
    ボールがポンポン ストライク
    打たせりゃ二塁の すべり込み
    セーフだおでこの 汗をふく
   四
    みどりのそよ風 いい日だね
    小川のふな釣り 浮きが浮く
    静かなさざなみ はね上げて
    きらきら金ぶな うれしいな
   五
    みどりのそよ風 いい日だね
    遊びに行こうよ 丘越えて
    あの子のおうちの 花畑
    もうじき苺(いちご)が 摘めるとさ

「村の鍛冶屋」は大正元年(1912年)は「尋常小学唱歌(四)」として全国の小学校で歌われた文部省唱歌だ。したがって作詞者・作曲者は不詳で特定されていない。時代を経て、少しずつ歌詞が変えられている。
 昭和60年に音楽教科書から姿を消した。そのときの文部省の役人の話が忘れられない。要約すると「今の子どもたちには『鍛冶屋』だとか『ふいご』と言っても理解できない」と言った。そんなもの、教えればいいことだろう。
「チャンバラ時代劇の刀を作る職人さんは刀鍛冶という。農業に使用するクワ、カマ、スキ、ナタ(黒板に白墨で簡単な絵を描き)などを作る職人さんは野鍛冶という。鍛冶仕事には鉄を真っ赤に焼く炭火が必要で、フイゴはその火を盛んにするため風を送り込む装置だ」…何の不都合やある。明治初期の唱歌は、全国的に統一した「国語」、さらに品格のある日本語、万葉以来の伝統の五七調の言葉のリズム、韻律も教えることでもあったはずだ。また音楽好きの教師たちは、算数の授業で節を付けた数え歌を教えたこともあった。何の不都合やある? 

   一
    暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
    飛び散る火の花 はしる湯玉
    ふゐごの風さへ息をもつがず
    仕事に精出す村の鍛冶屋
   二
    あるじは名高きいつこく老爺(おやぢ)
    早起き早寝の病(やまひ)知らず
    鐵より堅しと誇れる腕に
    勝りて堅きは彼が心
   三
    刀はうたねど大鎌小鎌
    馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ
    平和の打ち物休まずうちて
    日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と
   四
    稼ぐにおひつく貧乏なくて
    名物鍛冶屋は日日に繁昌
    あたりに類なき仕事のほまれ
    槌うつ響にまして高し

「村祭り」もいい。これも文部省唱歌で、作詞者・作曲者は不詳(南能衛作曲とする記述もある)。明治45年の文部省「尋常小学唱歌(三年)」に掲載され、昭和17年の「初等科音楽(一)」で歌詞が改められている。
   一
    村の鎮守の神様の
    今日はめでたい 御祭日(おまつりび)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    朝から聞こえる 笛太鼓
   二
    年も豊年満作で
    村は総出(そうで)の 大祭(おおまつり)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    夜まで賑(にぎ)わう 宮の森
   三
    治(おさ)まる御代(みよ)に 神様の
    めぐみ仰(あお)ぐや 村祭
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    聞いても心が 勇み立つ

 私は「あの町この町」という童謡を聴くと、なぜか横浜の夕焼けの坂道を思い出す。この曲は大正13年(1924年)に「金の船」に発表された。
 それにしても野口雨情と中山晋平コンビは「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」「黄金虫」「雨降りお月さん」「シャボン玉」など、何と多くの素晴らしい童謡を残してくれたことか。

   一
    あの町この町 日が暮れる
    日が暮れる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   二
    おうちがだんだん 遠くなる
    遠くなる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   三
    お空に夕べの 星が出る
    星が出る
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ

「仲よし小道」は、三苫やすしが、ガリ販刷りの同人誌「ズブヌレ雀」に、昭和14年(1939年)1月に発表した童謡詩である。キングレコードの専属作曲家になっていた河村光陽が、これを偶然見つけて曲を付け、キングのディレクターに持ち込み、光陽の娘の順子と、金子のぶ子、山元淳子の三人の歌で2月にはレコード化した。すごいスピードである。この時、作詞の三苫には無断で勝手に三番、四番の歌詞を変更したという。そういう時代だったのだ。
「仲よし小道」はヒットした。日中戦争が拡大しつつあった頃である。
 三苫やすしは明治43年(1910年)に福岡に生まれた。福岡師範学校を出て教職に就き、川崎の小学校、生田の中学校に勤務するかたわら、詩作を続けた。彼は昭和24年に亡くなっている。
 河村光陽も福岡出身で、小倉師範学校を出て地元で音楽教師をした。その後作曲に専念し、キングレコードの専属となった。
 やがて時代は太平洋戦争に突入し、小学校は国民学校に、子どもたちは少国民になり、集団で登下校するようになった。「仲よし小道」の楽しい日々は、ごく短い間だったのだ。

   一
    仲よし小道は どこの道
    いつも学校へ みよちゃんと
    ランドセル背負(しょ)って 元気よく
    お歌をうたって 通(かよ)う道
   二
    仲よし小道は うれしいな
    いつもとなりの みよちゃんが
    にこにこあそびに かけてくる
    なんなんなの花 匂(にお)う道
   三
    仲よし小道の 小川には
    とんとん板橋(いたばし) かけてある
    仲よくならんで 腰(こし)かけて
    お話するのよ たのしいな
   四
    仲よし小道の 日ぐれには
    母さまお家(うち)で お呼びです
    さよならさよなら また明日(あした)
    お手手をふりふり さようなら

「歌の町」も好きな曲だ。終戦後の世相に、子どもたちに明るさを与えてくれた曲の一つだろう。
 作詞の勝承夫(かつ よしお)は明治35年(1902年)東京四谷生まれである。旧制中学の頃から詩人として知られ、東洋大学に進んで「新進詩人」「新詩人」に参加した。大学卒業後は報知新聞社の記者となり、昭和18年に退社して文筆に専念した。戦後は音楽教育活動や全国の学校の校歌も手がけ、日本音楽著作権協会の会長となり、また東洋大学の理事長も務めた。
 作曲の小村三千三は明治33年(1900年)神奈川県三崎町の生まれである。彼もまた全国の小・中・高・大学の校歌を作曲した。

   一
    よい子が住んでる よい町は
    楽しい楽しい 歌の町
    花屋はちょきちょき ちょっきんな
    かじ屋はかちかち かっちんな
   二
    よい子が集まる よいところ
    楽しい楽しい 歌のまち
    雀は ちゅんちゅく ちゅんちゅくな
    ひ鯉は ぱくぱく ばっくりこ
   三
    よい子が元気に 遊んでる
    楽しい楽しい 歌の町
    荷馬車は かたかた かったりこ
    自転車 ちりりん ちりりんりん
   四
    よい子のお家が ならんでる
    楽しい楽しい 歌の町
    電気は ぴかぴか ぴっかりこ
    時計は ちくちく ぽんぽんぽん

 私の幼少期、横浜には子どものお馬車が走っていた。それ以前に馬車道という地名もあった。少年期に銚子に暮らしたが、ヤマサやヒゲタの醤油工場の荷馬車が、醤油樽を積んで公道をガラガラと行き来していた。花屋は今も「ちょきちょき ちょっきんな」のままだが、さすがに鍛冶屋は町から姿を消した。しかし下町でたまさか見かける板金屋は「ばんばん」と叩き、通りかかった町工場の音は、今でも「がったん、がったん」と耳にすることがある。自転車の「ちりりん りんりん」は蕎麦屋の出前の兄さんか、三河屋の御用聞きのおじさんの自転車か。いきいきとした小さな産業と、暮らしの音があった。

                                                                 
                                                        

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