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芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

治五郎と四郎の柔道

2016年09月05日 | エッセイ
         

 日本柔道はリオデジャネイロオリンピクで復活の兆しを見せた。井上康生氏のもと、選手の育成をはじめ意識改革が進み、その成果が現れたのだろう。それはそれで実に慶賀の至りである。
 しかし以前から書いているが、私はどうも柔道の試合の縺れ合いが好きになれない。特にごろごろ転がっての決着も気に入らない。シドニーオリンピックで篠原信一が内股すかしを見事に決めたが、互いに襟や袖を掴んだままのため、ごろりと体が入れ替わったら、上になった相手の勝ちとなった。無論、大誤審である。
 ちなみに相撲では、技をかけられ投げられた力士は、自分も相手の回しを掴んでいる場合、その回しを自分から離して受け身をとること教えられるそうである。回しを掴んだまま縺れて転ぶと大怪我のもとになるからである。

 柔道の創始者、講道館の創始者・嘉納治五郎の時代の柔道は、どうも今とは全く異なる武術だったのではないかと思われてならない。残念なことに、当時の嘉納治五郎や、その弟子・西郷四郎の映像はない。

 嘉納治五郎は万延元年、摂津国御影村で廻船業を営む治朗作の三男坊として生まれた。治朗作は幕府御用達の大店で、勝海舟の庇護者でもあった。
 治五郎は非常に犀利な子どもであった。しかしかなり小柄なため、悪ガキ達の標的となり、いつも苛められていた。学校の成績は抜群に良くても、喧嘩は抜群に弱かったのだ。強くなりたい、あいつらを喧嘩で見返したい、投げ飛ばしたい。
 明治三年、新政府に招聘された父の治朗作とともに、治五郎も上京し、官立の開成学校に進学した。優秀なので教師の資格も難なく取れた。彼の志望は外交官になることであった。しかしこのまま肉体の弱者は嫌だ。強くなりたい。
 治五郎は天神真楊流の福田八之助の門下に入った。福田八之助は稀代の豪傑として知られていた。治五郎は八之助に稽古をつけてもらった。あっという間に投げ飛ばされ、天井を見つめていた。
「先生、今の技はどうかけるのですか?」「何度も投げられ、何度もかけろ。そのうち体が覚える」と師は言った。
 八之助は治五郎に秘伝のすべての技を教えた。そしてあっけなく他界した。治五郎は同門の磯正智の弟子になった。正智も治五郎にその全ての技を伝え、免許を与えてのち、あっけなく他界した。
 二人の高潔な師範から学んだ柔術の歴史は俺が伝える。柔術は単に武術、武道ではない。理論が大事だ。そしてそれより大事なのは、肉体鍛練を超えたもっと道徳的な、全人格形成的なものが必要なのだ。それが勝つことよりも大事なのだ。治五郎は「柔道」と呼ぶようになった。
 明治十四年、東京帝国大学文学部を卒業した治五郎は、外交官の道には進まず、学習院の教師となった。二十三歳のとき、周囲の反対を押し切り、下谷のボロ寺の永昌時の一角を借り、「嘉納塾」を開いた。彼は多くの門下生を集めようとは思わなかった。やって来た志望者には「ここは柔術家をつくる道場ではない」と言った。要するに全人格錬成の道場なのだ。やがて「嘉納塾」は「講道館」になった。
 明治十八年、警視庁武道大会には全国から諸流の猛者が集まった。当時の柔道・柔術は全て無差別戦である。体の大きさは関係ない。
 講道館柔道はそれらを全て打ち負かしてしまった。小が大を投げ飛ばす。全て一本、投げ伏せるのである。講道館と嘉納治五郎の名は全国に轟いた。
 当時、講道館の四天王とか五羽ガラスと謳われたひとりに富田常次郎がいた。彼の息子が富田常雄である。常雄もまた講道館柔道の五段を得たが、「姿三四郎」を書いて作家として名をなした。
 姿三四郎のモデルは、四天王のひとり、チビで一番強かったという西郷四郎である。富田常雄は、父から西郷四郎の話を聞かされ続けた。その人物、その神速の技、あの伝説の「山嵐」…投げ飛ばされた相手は悶絶、あるいは失神したそうである。

 志田四郎は慶応二年に会津若松で会津藩士の家に生まれた。戊辰戦争の際、一家は戦争を逃れ新潟県津川に移住し、阿賀野川で漁師をしていたらしい。四郎も川舟に乗って育った。四郎の腰の強さ、吸い付くような足指の強さは、この川舟の揺れが育てたのかも知れない。
 四郎が十六歳のとき、元会津藩家老で福島県伊達郡の霊山神社の宮司をしていた西郷頼母の養子となった。明治十五年に上京、天神真楊流柔術の道場に入門し、稽古に汗を流していた。彼も小柄で五尺余しかなかった。あるとき四郎は、同門の嘉納治五郎の目に止まった。彼は講道館に移籍した。
 後年、西郷四郎は治五郎から講道館の師範代を任されていたが、師の洋行中に出奔し、宮崎滔天の支那革命に奔走した。やがて「東洋日の出新聞」の編集長となり、かたわら柔道、弓道、日本泳法の指導に当たった。彼もまた単なる柔道家ではなかったのだ。
 師の嘉納治五郎も教育者として突出していた。東京高等師範学校や旧制五高等の校長を務めている。夏目漱石を松山中学に送り込み、のち旧制五校に送ったのも治五郎である。旧制灘中学や日本女子大学の創立に関わり、治五郎が設立した英語学校の弘文館は多数の中国からの留学生を受け入れた。その中に魯迅もいた。
 さて、小柄な嘉納治五郎や西郷四郎の神速の柔道とは、どんなものだったのだろう。漫画家の浦沢直樹もそれを作品に描きたかったに違いない。
「YAWARA!」がまさにそれで、ヒロインの猪熊柔も無差別級で巨体選手を神速で投げ飛ばすのである。彼女を育てた柔道の達人・祖父の猪熊慈悟郎も小柄だが、彼は無差別級で全て一本勝ちしか認めなかった。

 作家で随筆家、美術評論家の白崎秀雄は、まことに端倪すべからざる人である。私は彼の作品が大好きだ。その中の一つに「当世畸人伝」がある。
 白崎秀雄は柔道も相当やっていたらしい。「当世畸人伝」の中に「阿部謙四郎」があり、この柔道家がいかに強かったかを描いている。

「俗に、柔道の世界では木村の前に木村なく、木村の後に木村なしといふ。昭和十年代に活躍した木村政彦の強豪ぶりを形容する語で、彼を知る者は誰しも誇張とは思はない。このキャッチフレーズは、わたしがあるパンフレットとアナウンサーに提供したものであつた。
 その木村を、完膚なきまでに投げ伏せた、ただ一人の男が阿部謙四郎である。」

 阿部はその狷介な性格、畸人ぶりから柔道界に嫌われ、遠ざけられていった。彼は昭和三十年代には、既に過去の人となり、その名が語られるときはその畸人変人ぶりに関してであったという。
 おそらく阿部謙四郎の柔道は、嘉納治五郎、西郷四郎らの草創期の柔道に近かったのではなかろうか。阿部は植芝盛平に合気道(六段)も学んだ。剣道も六段である。後に日本の柔道界と対立、決別し、ロンドンに渡った。彼はイギリスでは、柔道と合気道と剣道の紹介者として、その名を伝えられている。

王様になった一等兵

2016年09月04日 | エッセイ
                  

 政治家を志す人のほとんどは権力志向が強い。なんとかして権力を握りたい。大臣になりたい、党首になりたい、総理になりたい、大統領になりたい。あるいは国王になりたい。…
 しかし、そのような権力志向を全く持ち合わせず、温良で控えめな一人の青年が、偶然から小さな部族の国王になった。彼はそこで憲法も制定した。
 しかし、王様になった一等兵・妹尾隆彦を知る人は、今やほとんどおるまい。

 妹尾隆彦は大正九年に香川県の丸亀に生まれた。関西大学卒業後、大阪税関に勤め、美しい娘と結婚した。二十二歳である。
 しかし翌昭和十六年すぐに応召された。彼は一日も早く帰国したいがために、幹部候補生には志願せず、一等兵として陸軍・楯兵団に組み込まれた。送られた先はフランス領インドシナのハイフォンであった。彼はそこで真珠湾攻撃、日米開戦を知った。
 楯兵団は進軍し連戦連勝、ビルマに達した。妹尾は英語が話せたことから、ビルマ戦線での情報収集と、住民への宣撫の担当となった。
 ビルマの原住民と言ってもいくつもの部族に分かれていた。それらの部族に紛れ込んだ残敵はゲリラとなる。戦争は悪夢である。その統治と残敵掃討隊がいくつも編成された。
 妹尾一等兵は「カチン高原掃討隊」に加わった。総員百五十名であった。カチン高原にはカチン族という野蛮な首刈り族、人喰い人種がいるという。

 やがて妹尾一等兵は、ザオパンという現地人の若者と二人で、カチンのジャングルの偵察を命じられた。
 このザオパンの巧みな交渉力もあり、部隊は渡河でカチン族の協力を得た。また協力したカチン族は温順で、とても人喰い人種には見えなかったし、この部族に残敵が紛れ込んでいる様子もなかった。日本軍は撤収したが、妹尾はザオパンと数日残り、さらに情報収集に当たることになった。やがて妹尾とザオパンは別れた部隊の後を追って合流しなければならない。
 ところが、このザオパンという青年は、実はカチン族の酋長の息子であった。ザオパンはなかなか開明派で、カチン族を争いのない豊かな民族にしたいと考えていた。彼は妹尾をカチン国の首都に案内したいと言った。
 その頃、カチン国には国王がおらず、五人の族長の族長会議で統治が行われていた。この族長たちも対立しており、部族同士の野蛮な殺し合いも行われていた。
 ザオパンはカチンを豊かにし貧苦から救いたい、また文明化を図りたいという。妹尾はザオパンやその仲間たちの話に心を打たれた。彼は現地人への差別意識は全くなかった。優しい人柄で、平和を愛し、争いごとは大嫌いであった。また不正を嫌い、平等と人間同士の心の触れ合いや共存、協同を信じていた。
 ザオパンは妹尾隆彦の中に理想像を見た。そして彼にカチンの国王になってほしいと頼み込んだ。すでに妹尾一等兵は、本隊と二百キロも離れ、ジャングルの真ん中にいた。
 ザオパンの提案に彼の仲間たちや、各部族の族長たちも賛意を示した。

 妹尾は国王になった。元来、愛情豊かで、真面目一本の男である。誰に対しても穏やかで優しかった。妹尾は国王として、熱心に、真面目に、精力的に働き出した。
 カチン国の憲法を制定し、憲法下の国法をつくり、裁判制度を設けた。阿片を禁止し、教育に取り組み、福祉という考えも教えた。道路を整備した。また国土開発と大首都の建設計画もつくった。
 ジャングルを開削し、樹海の中に、緑の丘と白い壁、赤い屋根の家々や役所を建設する。…
「カチン族の首カゴ」に言う。「わたしは自分の言動に責任を持つことをまず学んだ。わたしは自分の才能、能力をはじめて知り、自信を持った。そして肩章や肩書きを取り除いたハダカとハダカの人間として、他をくらべてみるとき、決して自分が劣っていないことを知った。」
 戦争の最中、妹尾は本気で、小なりといえ理想の国家づくり、理想の共同体づくりを夢見た。いかなる戦争も愚劣であり悪夢である。妹尾は兵籍離脱、国籍離脱を考えるようになった。
 大日本帝國の大東亜共栄圏は嘘っぱちのスローガンである。どこに共栄の心があったのか。この妹尾一等兵の小さな試みこそ、共栄圏づくりの一歩でなかったか。
 しかし彼の元に帰隊の命令が届いた。妹尾一等兵は部隊に戻った。
「たかが一等兵のくせに、人喰い土人の王様ヅラしやがって。なんだその服装は? 大日本帝國の兵隊なら兵隊らしくしろ!」
 彼を待っていたのは中尉の激しいビンタの嵐であった。執拗なビンタの次は、腫れ上がった顔で、口内に溢れる血を飲み込みながら、軍人勅諭と戦陣訓の朗唱を何度も繰り返すことを要求された。
…日本軍はカチン高原に駐留し、横暴、乱暴な統治をしようとした。ほどなくカチン族は日本軍の敵に回った。やがて日本軍はカチン族に追われ、ビルマを敗走した。

 妹尾隆彦は昭和二十一年に復員し、大蔵省、運輸省、大阪市役所の港湾局に勤めた。大阪万博に出向し、退職後にメキシコの大統領顧問となり、さらに国立メキシコ大学で創造工学の講義をした。

安藤昌益の言葉

2016年09月03日 | 言葉

   速かに軍学を止絶して、ことごとく刀剣鉄砲弓矢すべて軍術用具
  を亡滅せば、軍兵大将の行列なく、止むことを得ず自然の世に帰る
  べきことなり
 
           (寺尾五郎/訳)

 昌益とジャン・ジャック・ルソー、イマヌエル・カントは、ほぼ同時代人である。
 昌益が謎の書「自然真営道」とそのダイジェスト版ともいえる「統道真伝」を書いたそのおよそ40年後に、カントの「永遠平和のために」が著された。軍備廃絶の思想である。
 カントはその著作に「人類一般に妥当するのか、決して戦争を止めようとしない国家元首らに妥当するのか、或いは甘い夢を見る哲学者のみに妥当するのかは未定としよう。」という言葉を添えた。
 カントの「永遠平和のために」は後世アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領に影響を与えた。ウィルソン大統領の理想主義は日本の若き外交官・幣原喜重郎らにも影響を与えていた。


                                                                

競馬エッセイ 田辺裕信騎手について

2016年09月02日 | 競馬エッセイ
                                                               

 田辺裕信は三十代前半の中堅騎手である。実は私は数年前から「田辺裕信がいま一番上手い騎手ではないか」と言ってきた。特にその成績を精査したわけではなく、印象からそう思ったのである。
 競馬学校の騎手課程を出たばかりの新人以外では、フリー騎手がほとんどという現在、彼は珍しく美浦の小西一男厩舎の所属だった。しかし今年(2016年2月)からフリーとなった。
 彼は乗り馬と騎乗数に恵まれず、相当苦労していたように思う。騎手のリーディング上位で大活躍する乗り手の多くは、社台・ノーザンファーム系の生産馬やその所有馬と、それらの馬を管理する一握りの調教師・厩舎(特に関西・栗東)、そして何々軍団と称される辣腕エージェントと契約できた人たちで、先ず幸運な機会を掴んだと言ってよい。実は大した腕を持ってなくても、それなりにリーディング上位を争う騎手となれるのではないか。調教師も騎手もその実績が上がれば好循環を生み続ける。
 なにしろ社台・ノーザンファーム系の馬は極めて能力が高く、また外厩としてのトレーニングセンターで調教、出走、メンテの循環も良く、常に最高の状態に整えられ、万全の態勢でレースに臨んでくる。
 したがってレースでは常に評価も高く、人気馬となることが多い。能力が高く、万全の体調で臨むわけだから、騎手も勝つ、もしくは上位に入線する可能性が高くなる。しかしそれはごく一握りの調教師、一握りの騎手に偏る。

 しかし現在の中央競馬において、本当に上手い騎手とは、非社台・ノーザンファーム系の馬、人気薄の馬、明らかに能力の劣る馬に乗りながら、それを上位にもってくる、あるいは勝利に導く騎手であろう。私の印象では、田辺裕信がそういう騎手なのである。
 私は田辺裕信の、その数字を精査したわけではなかったが、明らかに能力も見劣りし、人気薄の馬に乗りながら、上位に突っ込んでくる、実に穴っぽい騎手なのである。そういうレースは、田辺が一番多いのではないか。しかも田辺は「確実な」穴っぽい騎手なのである。

 彼は年間の騎乗数が三百数十鞍と少なく、30勝台の騎手であった。しかし田辺裕信騎手は2011年を境に変身した。結婚が契機かもしれない。
 その年は、868鞍に乗り、前年の成績を大きく上回る88勝を挙げて「中央競馬騎手年間ホープ賞」を受賞した。アンタレスステークスで初の重賞勝ちも果たした。デビューから10年の初重賞制覇は遅いほうであろう。上手い騎手だと思うのだが(2014年に「フェアプレー賞」を受賞)、地味で、重賞レースもG1レースも騎乗機会が少なかったのだ。
 彼が騎乗しオープンクラスに出世した馬は、重賞レースになると実績のある騎手に乗り替えられてしまうのである。たまに騎乗する重賞レースは、その馬の主戦騎手がもっと有力な馬に騎乗することが決まったか、あるいは騎乗停止処分中、あるいは怪我で乗れない場合などであった。
 彼にフェブラリーステークスで初G1勝ちをもたらしたコパノリッキーも、そういう馬であった。それまではルメールや福永祐一、戸崎圭太が騎乗していた。田辺はフェブラリーSでコパノリッキーに初めて騎乗した。彼らは16頭立ての16番人気だった。
 その後、田辺とコパノリッキーは5戦して2勝2着2回であったが、年が変わると武豊に乗り替えられた。
 今年、田辺はロゴタイプで安田記念(G1)を勝った。ロゴタイプは三年前の皐月賞馬(デムーロ騎乗)だが、その後全く勝てなくなっていた。デムーロ騎手やルメール騎手でも勝てなかった。田辺は中山記念からロゴタイプに騎乗した。このときは7着である。前走のダービー卿チャレンジトロフィーでは連に絡む2着に来ている。安田記念はモーリスが1番人気で、ロゴタイプは8番人気に過ぎなかった。しかし彼らは鮮やかに勝った。

 つい最近、「神競馬マガジン」というサイトに田辺騎手に関する記載を見つけた。その筆者は私と同じように「田辺は上手い」という強い印象を抱いていたと思われる。彼はその数字を精査した。
「田辺裕信騎手は上手いと言われるが本当か? 回収率はなんと…」という記事である。
 筆者はデータ(データ期間2010年9月4日〜2015年8月9日までの過去5年間)とその表を示してくれる。これが素晴らしい分析と比較なのである。表は割愛し、少し長いが引用させていただく。
「…そして、その他の騎手の全騎乗成績。…他のトップ騎手と比較するとその(田辺騎手の)回収率の高さがわかる。単勝回収率は川田騎手とならんでトップ。複勝回収率は福永騎手よりは低いものの川田騎手と並んで2位タイと、両方とも高い水準である。それと合わせて、田辺騎手の勝率・複勝率を見てみるとその凄さがわかる。トップ騎手と比べると著しく勝率(8.8%)・複勝率(25.9%)が低いのである。しかしそれなのに回収率は高い。もしかすると田辺騎手は人気薄をよく持ってくる騎手なのか? 
 そう思って調べてみると、単勝1.0倍~単勝9.9倍の馬の単勝・複勝回収率は共に89%。
 一方単勝10.0倍以上の単勝・複勝回収率は91%・83%と、そこまで人気薄を得意としている印象はなく、人気馬もしっかりと勝たせている。
 では何が違うのか? それは騎乗した馬の平均オッズである。福永騎手は平均単勝14.1倍、岩田騎手は平均単勝14.6倍というように、トップジョッキーは平均オッズがおのずと低くなる。しかし田辺騎手の場合は平均単勝36.5倍とかなり高い。
  一般的に平均オッズが低くなる理由は2つ、1つは騎手が人気であること。それを象徴するように武豊騎手は平均オッズ13.8倍と低い。そして2つめは強い馬に乗せてもらっていること。福永騎手、岩田騎手は実力も凄いが、乗っている馬の質も凄い。馬の質が良いとオッズも下がり配当も低くなる。」
「つまり田辺騎手は人気の馬に乗せてもらえる機会が圧倒的に少ないということだ。馬に恵まれず勝率・複勝率は低いが、人気の馬もしっかりと乗りこなせる技術はもっている。…全体の回収率も高いが重賞は単勝回収率202%、複勝回収率105%と抜群に高く、新馬も単勝回収率137%、複勝回収率106%とこちらも優秀。「田辺騎手は上手い騎手」これは本当のことであり、回収率的には「田辺騎手はおいしい騎手」ともいえる。」

「神競馬マガジン」のこの筆者、素晴らしい! 私は印象だけで「田辺は上手い、人気薄に乗って上位に持ってくるのだから」と言っていたのだが、彼はそれを数字で証明してくれたのである。
 最近、やっと田辺裕信騎手の評価が高まり、関西の有力調教師からの騎乗依頼も増えつつあるらしい。

再び競馬と相撲の話

2016年09月01日 | 相撲エッセイ
   「再び競馬と相撲の話」は2004年7月14日に書いた一文である。
   その頃19歳の力士は、いまその晩年を迎えようとしている。



 二ヶ月程前、私は競馬と相撲に詳しいと書いた。覚えているだろうか。
 競馬に関しては、キングカメハメハという馬に注目して欲しいと書いた。我々は近年稀なる名馬を目撃することになるだろうと書いた。…ほどなくキングカメハメハは第71回日本ダービーを、驚異的なレコードタイムで楽勝した。それまでのダービーレコードは1990年にアイネスフウジンがつくった2分25秒3で、キングカメハメハはこれを2分23秒3で駆け抜け、あっさりと2秒も短縮したのである。競馬の1秒は5~6馬身差に相当する。つまり彼はスピード馬アイネスフウジンを、10馬身以上の大差でぶっちぎったことになる。…レースはまさに横綱相撲だった。
 後方から2着に突っ込んで来たのは、ハーツクライ(Heart's Cry)という名の馬で、善戦したと誉められながら名前の通り心では泣いていたのである。ハーツクライは凄まじい追い込み馬である。それまでの戦績とレースパターンを分析すると、上がり3ハロンのタイムが平均33秒台、34秒台という驚異的な馬である。しかし2着も多い。つまり騎手にとって追い出しのタイミングが最も難しいタイプの馬なのである。
 秋に京都競馬場で行われる三冠レース最後の菊花賞(3000メートル)には、キングカメハメハは出走しないだろう。この馬の適性距離は1600から2000メートルであって、限界距離はダービーの2400メートルだと思われるからである。したがって彼の次なるG?レースは、ジャパンカップ(2400メートル)か秋の天皇賞(2000メートル)なのだろう。
 ハーツクライは菊花賞で勝つかもしれない。33秒台の上がりタイムで勝てば、あのダンスインザダークを彷彿とさせるだろう。あるいはまた2着かもしれない。しかし最も心配なのは彼の脚である。彼が持つ、この一瞬の爆発的なスピードの才能に、彼の脚が耐えられるかが心配なのだ。かって菊花賞でダンスインザダークが一瞬のスピードを爆発させ、上がり34秒で他馬を抜き去り優勝した時、私は胸をかきむしられた。
 これでこの馬の競走生命が断たれたと確信したのだ。彼は表彰式の記念撮影も無事に済ませた。しかし案の定、翌朝の新聞には「ダンスインザダーク故障発生!レース後判明」「競走馬として再起不能の重傷、このまま引退か」と出た。屈腱炎を発症したのだ。ダンスインザダークは二度と競馬場のターフを走ることはなかった。

 さて相撲である。まだ19歳のモンゴル出身力士、白鵬の素質が凄い。宮城野親方はこのモンゴルから来た少年に、大横綱・大鵬の素質を見て、この四股名を付けたのだろう。今場所11日目までに3敗しているが、そのうちの二番は、勝ったと思い込んで土俵際で力を抜き逆転されたものである。まだ詰めが甘いのだ。
 白鵬はまさに第二の大鵬の素質を持つ。相手力士がどんなに強く当たっても突いても、その力を全て吸収してしまうのである。だから後ろに下がらない。土俵際でも余裕を持って逆転する。全体の柔らかさ、足腰の柔らかさ、膝の余裕、強靱さ、大きくなりそうなバランスの取れた身体、相撲勘の良さ、巧さ、安定感…もの凄い素質である。
 この柔らかな体質は怪我もしにくい。かって横綱・旭富士は「なまこ」と呼ばれるほど柔らかだった。双葉山を知る往年の相撲ファンたちは、旭富士の体質は双葉山にそっくりだと証言していた。しかし旭富士は技巧相撲に偏り、力強さを持たなかった。彼は双葉山になれなかったのである。しかも内臓を患い、短命の横綱に終わった。

 まだ23歳の朝青龍は、このまま優勝回数を重ねて千代ノ富士の31回、大鵬の32回に肉薄するだろうと思っていたが、おそらく無理だろう。来年の秋頃に白鵬は大関に駆け上がり、再来年の春から夏には横綱になっているだろう。その時点で、白鵬は朝青龍を凌駕するようになっているに違いない。彼の素質こそ、まさに大横綱・大鵬の再来なのである。大鵬や双葉山の大記録をも塗り替える可能性を秘める者は、この底知れぬ19歳に違いない。