芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

必読「日本の中の朝鮮文化」

2016年06月08日 | エッセイ
                                                        


 ほぼ一週間ほど前、ブログに「広島、恨み…坂口安吾の随筆から」というエッセイを書いた。
 オバマ大統領が初めて広島を訪れ、多くの日本人がそれを好意的に受け止めていたとき、中国と韓国は「ヒロシマを持ち出して、戦争の被害者面をするな。日本は戦争加害者であることを忘れるな」という反応を示した。
 両国とも実に執念深く、日本人としては正直不快の念も禁じえない。執拗なまでの、南京虐殺、慰安婦…それらの問題追及と謝罪要求と嫌がらせとも取れるコメント…。
 確かに、日本が戦争加害国であることは間違いなく、加害者はじきに忘れても、被害者はその恨みを忘れがたいということだろう。また両国ともに、国内外に向けた恨みの政治的な利用という側面もあろう。
 南京の虐殺は数の問題ではなく、十万人だろうが三万人だろうが三千人だろうが虐殺は虐殺なのである。慰安婦問題でも軍や政府が関与した証拠がないという方も多いが、日本軍は全滅覚悟で突撃する際に、部隊の書類を焼き無線機を破壊してから玉砕している。731部隊も証拠となる書類を焼却し、証拠隠滅後に引き揚げている。
 市ヶ谷、習志野をはじめ国内でも外地でも、終戦直前の七月末から前日の八月十四日まで、営内で書類を山積みにして焼き続け、それはGHQ(連合軍)がやって来る直前まで続いていた。
 そう、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下もアメリカによる虐殺であり、一晩の空爆で十万人の人が亡くなった東京大空襲も、その後の各都市の大空襲も虐殺である。そして広島に原爆が投下された翌日には、その報に接したマレーシアの小さな村々でさえ、人々が家の外に飛び出して歓喜に沸いた。日本はそれほどまでに憎悪されていたと知るべきだ。
 愚かな指導者によって引き起こされた、誇大妄想「八紘一宇」をスローガンとした戦争は、加害国となり、戦場となった国々に大きな被害を与え、また国内にも甚大な被害を受けたのだ。
 戦地で亡くなった兵士たちの八割半ばは戦病死、餓死で、戦闘で亡くなった者は一割半であった。南方に兵士を送りこむ輸送船は、航海中に次々に撃沈され、多くの兵士が戦わずして南溟に消えた。しかし軍事指導者たちは「三割が現地にたどり着けば作戦は成功だ」と言っていたのだ。そんな作戦があるものか。これほどまでに人の命を軽んじた国があったであろうか。
 また敗戦時に大陸や半島から内地に引き揚げる途次に、多くの日本人が虐殺にも遭い、シベリアに抑留された兵士たちの多くも餓死、病死していったのだ。何が戦争は国家的宗教行事、魂を浄化するだ。狂気のカルト教団オウムのポアか。
 あらゆる戦争による死、国家の名で行われる暴力は残虐なのだ。この残虐、無残な累々たる死をもたらし、これほどまでに各国から恨みを買い、憎悪された原因は、日本の政治指導者、軍事指導者ら戦争指導者の責任であって、本当は日本人がこれを決して忘れてはならず、彼等愚かな指導者たちを日本人の手で裁くべきだったのだ。
 こともあろうに、これら戦争指導者、戦争犯罪人を「国事に奔走された」として靖国神社に合祀するとは。ならば彼らによってむざむざと死に追いやられた兵士たちを、靖国神社から別の場所にお移しして祀り、慰霊すべきだろう。
 しかも生き延びた戦争指導者、戦争犯罪人たちは、追放が終わると続々と政界に復帰し、一大与党を形成し、そのうち一人はCIAから闇の資金を受け取り、首相にまでなってしまったのである。
 今、この現代に、誇大妄想的スローガン「八紘一宇」を口にし、1930~40年代の「美しい日本」に回帰すると公言し、祭政一致、戦争は国家的宗教行事・魂を浄化すると獅子吼し、改憲を叫ぶ政治家たちが衆参の議席の半数を占めるに至るとは。しかも彼らの大半が、戦前の愚かな政治指導者、エスタブリッシュメントの二世、三世で、政治を家業化した世襲議員たちなのである。曰く「平和憲法では国を守れない」。ならば「戦争が可能な憲法」なら国を守れるというのか。この一瞬のうちに決着がつき、全てを焼き尽くす核兵器の時代に。

 ヘイトスピーチは気持ちが悪い。「出て行け朝鮮人! これから千年も二千年も朝鮮人たちがここに暮らしていくというのか!」
 これらの発言をする自分たちは、いったいどこから来たと言うのか。大雑把に言っても現日本人の八、九割は、朝鮮半島から渡来した人たちの遠い遠い末裔であろう。おそらくもっと多いかも知れない。
 それは千六百年前~千二百年前のことである。七世紀、八世紀に成立した「◯◯風土記」(例「吉備風土記」など)には「この地はほとんどが今来の人」などと記されている。今来とは「つい近頃にやって来た人」のことで、どこから来た人かというと朝鮮半島から渡ってきた人たちなのである。では「今来の人」と記す人がいつ来たかというと、今来の人たちより百年かせいぜい二百年早く渡来してきた人たちなのである。こうして古代の風土記によれば、吉備も奈良の葛(葛城)も八割方が今来の人となっていくのである。
 日本古代史の研究者は、この今来の人も含めて「帰化人」という言い方をするが、まだ「日本」という国家が成立していない時代に「帰化」はないだろう。ベネディクト・アンダーソンの言う通り「国家は想像の共同体」なのである。「帰化人」より、この列島への「渡来人」と言うほうが実情に近かろう。
 渡来人が続々と入り、定住し、移動し、やがて統一国家を打ち立て、その後に渡来した人たちが「今来の人」で「帰化人」となるのだろう。

 では原日本人はいつから棲みつき、渡来人たちが来たときにどうしていたのか、また渡来人たちを残してどこに行ったのか。
 おそらく彼らは南方の島々から海流に乗って流れ着いた人々と、北方の狩猟部族の人々であったろう。彼らが南方系と北方系の縄文人で、採取と狩猟をしながら、その集落は移動していた。
 彼らは、海や太陽、山岳などの自然を畏れ、巨岩や巨樹や風穴や山を斎き、敬ったものであろう。
 やがて朝鮮半島から漂流者、そして種籾を携えた意志的な移住者たちがやって来た。この渡来してきた人々が弥生人で、彼らは定住し、徐々に北上した。彼らの稲作文化や技術は多くの人口を養うことが可能だったのだ。

 さて、作家の金達寿(キムダルス)は1919年、慶尚南道の生まれで、十歳のとき父の仕事の関係で日本に来た。強制連行ではなかったろう。当然当時は日本国籍であり、日本の子どもたちと一緒に学び、苦学して日大芸術学部に進学し、在学中に最初の小説を発表している。
 戦時中は四、五年、故国にあったようだが、戦後日本に戻り、作家として認められていくが、私は彼の小説作品を全く読んだ記憶がない。しかし彼の歴史随筆・評論は実に面白く、何度読み返しても、つい夢中になって読み耽ってしまう。
 文庫本で読めるものに「日本古代史と朝鮮」「古代朝鮮と日本文化 神々のふるさと」「日本の中の朝鮮文化 その古代遺跡を訪ねて」(全12巻中3巻)の五冊がある。「日本の中の朝鮮文化」は「思想の科学」に連載されたもので、講談社から刊行され、現在、講談社学術文庫になっている。
 彼のこの著作で、日本の古社や古刹のほとんどが、朝鮮由来の神を祀ったもので、渡来人たちが創建したものであることを明らかにしたのである。それは現在に残った地名などでも明らかである。
 しかし彼はこれらの著作で、自分の推量を披瀝することに極めて慎重で、抑制的である。おそらく日本人一般の偏見や蔑視、怒りを忖度したものであろう。彼は「我々をみな朝鮮人だと言うのか!」と怒られたことがあるという。
 この著作で彼が取った手法は、日本の古代史学者、地名学者、地誌学者、民俗学者、文化人類学者たちの既刊の研究書や、訪れた先々の市町村、教育委員会、その他の役所、郷土史家たちがまとめたパンフレットや資料、発掘された文化財、そして古い神社や古刹が発行している由緒の書かれたパンフレットや栞などの、すでに公刊された印刷物を長々と引用し続けることであった。
 すると筑前、筑後、豊前、豊後、苗代川などの九州や、対馬、出雲、安芸、吉備、播磨、若狭、越前、越中、能登、山城、摂津、大和、大和飛鳥、和泉、河内、伊勢、駿河、甲斐、相模、武蔵、下総、上総、下野、上野、常陸、那須、笠石、信濃、宇都宮…これらの土地を開いたのも、古墳や遺跡、地名を残したのも、渡来人なのである。そして古い神社や寺のほとんどが、渡来人とその二世、三世などの手によって祀られ創建されたものなのである。

 大磯にある高来神社(高麗神社)の背後は高麗(こま)山で県有の自然林である。大磯町高麗にある神奈川県林業指導所のだした「高麗山」という案内リーフレットによれば…
「高麗という地名のおこり 奈良時代に高麗王若光の一族が海路この地に移住してきました。彼等は花水、相模両川の下流原野の開拓を行いながら、大陸の先進文化をひろめました。その後、高麗人は霊亀二年(七一六)に武蔵国(埼玉県入間郡高麗村)に移ったといわれます。現在でも高麗寺、高麗山、唐ケ浜、唐ケ原などの地名が残っており、その当時がしのばれます。」
 さらに「大磯町古墳一覧表」「神奈川の歴史」が引用される。ちなみに大磯は朝鮮語のオイソ(いらっしゃい)の意味を持つらしい。高麗王若光と一族は、その浜に上陸したわけである。その時の様子を「大磯町文化史」から引用している。
 六六〇年(大和朝末期)高麗王若光一族は、自国の戦禍から逃れ日本に亡命し、大和朝の指示で大磯に上陸、その後箱根や各地に散在して、鍛冶、建築、工芸などの技術を伝えた。

「日本書紀」六六六年の天智五年に、それまで大和で「官食を給していた百済の僧俗二千余人を東国に移した」と書かれている。百済が滅びたのが六六〇年で、彼等は日本に亡命してきた渡来人であろう。
「続日本紀」の七一六年、霊亀二年五月条に「駿河、甲斐、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」というのもある。
 この「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」を書いた人たちも、渡来人なのである。
 七五八年の天平宝字二年八月条にも「帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移し、ここに始めて新羅郡を置く」とある。この地は現在の東京都練馬区の一部、保谷市、埼玉県の大和、志木、朝霞、片山の一帯とされる。新羅が転訛し、志木(志羅木)、白子、新倉、新座などの地名として残っている。
 関東には百済木という地名があるように、かなりの数の百済からの渡来人がいて、大和も山科も彼等によって開かれ、権力を掌握していたのである。桓武天皇の母・高野新笠は百済系の姫である。

「深大寺縁起」でも明らかなように、やはり朝鮮からの渡来人によって開かれたのである。そもそも深大寺は狛江郷に入るが、狛江は高麗人の郷である。
「浅草観音」は武蔵国檜前(ひのくま)の馬牧と言われていた場所で、現在も「馬道」という地名が残されている。檜前氏族は大和の飛鳥にある檜前から出たという。
 飛鳥には現在も檜前という地名が残り、檜前寺跡もある。さらに阿知使主(あちのおみ)を祭る於美阿使(おみあし)神社がある。阿知使主は坂上田村麻呂の祖で、東漢(やまとあや)氏族であった。漢(あや)とは古代朝鮮南部の小国家安耶(あや)(安羅または安那)のことである。彼等は高句麗に攻められて瓦解し、畿内に亡命し、そこで暮らした。後に漢氏族の一部が関東に移住し、仏教を信仰し浅草観音を開いた。
 このように日本各地の古墳のある土地や、歴史のある土地は渡来人によって開かれ、古い寺社のほとんどは渡来人の手で祀られ創建されたのである。

 金達寿の文庫本で読めるこの五冊は、実に面白いのである。繰り返すが、これらの著述は、古い寺社仏閣めぐりの小さな旅と、引用の積み重ねで構成された、楽しい日本の古代史を訪ねる紀行本なのである。

「朝鮮人出て行け!」と叫ぶヘイトスピーチの人たちも、その連中から政治献金を受けていた政治家たちも、美しい日本を標榜する政治家たちも、神道政治連盟の政治家たちも、神社本庁や日本会議の方々も、ほとんどが朝鮮からの渡来人、帰化人の遠い末裔であるに違いない。

                                     

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-03-04 03:53:58
DNA検査でもしてみたら、末裔かどうかハッキリするでしょうね。朝鮮人という呼び方ですが、これは高麗の文化を踏みつけ抹消し焼き払い、歴史から除去した者たちのことですよ。高麗と朝鮮はまったくの別物です。鎌倉と室町のような連続性もありません。朝鮮は高麗が仏教を信奉したために、半島中の仏門仏閣を迫害したといいます。そして重要なのは、彼らは高麗よりもより中原に卑屈であり、ただ中原に怯えひれ伏し屈服し続けたということです。朝鮮時代が長く続くうちに、それはもはや別の文化を持った人種へと変化し、「高麗人」は消えたと言えます。さて、日本人はそのDNAがチベットやユダヤ、ブータンに近く、半島や大陸には遠いです。もちろん、朝鮮半島を経由して、私たちの島に来た者もいたでしょうが、DNAから分かるとおり、彼らは多数派足りえませんでした。そもそも半島はそう多くの人間が住めるほど土地が肥えていませんので。寒くて痩せた土壌です。そんな彼らが餓死に怯え、日本という肥沃な土地に来たのだと思います。私たちの先祖は心優しく彼らを向え、彼らに土着の信仰を教えたのでしょうね。それがこの本にあるように、いつの間にか順序が逆転して彼らに認識されていた、ということでしょう。考えてみれば哀れな人々です。中華に蹂躙され続け、ついにはあんな精神になってしまったのでしょうから。

まあ、それとは別にあなたのように人種の話を穿り返す人のことは、人種差別主義者であると言われています。当初の人種差別とは違いますし、あなたにその気がなかったとしても、この話題のデリケートさに気付けない人だと思われますので、お気を付けください。あまり朝鮮人をいじめないであげてくさいね。
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