芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

青い目の人形 〜掌説うためいろ余話〜

2016年09月08日 | エッセイ

「青い目の人形」は1921年(大正十年)「金の船」十二月号に発表された。

   青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
   日本の港についたとき 一杯涙をうかべてた
   「私は言葉が分からない 迷子になったらなんとしょう」
   やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ
   仲よく遊んでやっとくれ

 野口雨情のテーマは「国際愛」である。本居長世が優しい曲を付けた。
 その後レコード化され、日本中に知られる童謡となった。実はこの歌はアメリカの日系人社会でも歌われたのである。
 大正十二年九月に関東大震災が襲った。世界中から救援募金や救援物資が集められ、日本に送られた。アメリカでも日系人を中心に募金運動が起こったが、そのときに「青い目の人形」のレコードが掛けられた。アメリカから寄せられた募金額や救援物資が一番多かった。
 このときの返礼として音楽家などで答礼使節団が組まれ、本居長世を団長にハワイとアメリカの西海岸でコンサートを開き、支援の謝意を伝えた。長世は二人の娘みどりと貴美子を伴い、彼女たちに童謡を歌わせたのである。

 その後、アメリカ国内に排日運動が起こり始めた。アメリカの日本や中国からの移民に対する黄禍論は度々繰り返されてきた。日露戦後にも黄禍論と黄色い移民の排斥運動は起こった。彼らがアメリカ人から仕事を奪っているというのである。暴動も散発し日米関係は悪化していった。
 シドニー・ルイス・ギューリック博士は、この国内の排日・排斥運動、移民制限に心を痛めた。彼は宣教師として1888年(明治二十年)から通算二十数年を日本で暮らし、布教と教育活動に当たった親日家である。
 博士は童謡「青い目の人形」を思い出した。救援募金の時に流れていた歌であり、その後に本居長世の娘が歌っていた「青い目の人形」である。日本には雛祭りという、女の子の健やかな成長を祝うお祭りがある。関東大震災で人形を失った子どもたちも多かろう。日本の女の子、子どもたちにアメリカの人形を贈ろう。「国際親善や、人と人との理解は子どものうちから」「世界の平和は子どもから」だ。
 ギューリックはかねてから昵懇の渋沢栄一に仲介してくれるよう手紙を出した。渋沢栄一もアメリカの移民制限、排日、排斥運動と、日米関係の悪化を憂慮していた。彼はギューリックに共感し、自ら動くことにした。
 渋沢は明治十二年に来日した前大統領のグラントを飛鳥山の自邸に招いたり、明治三十五年の欧米視察の際にテオドア・ローズヴェルト大統領に面会している。彼は第一級の民間経済外交家であった。明治四十二年には渡米実業団の団長として渡米、大正十年にも二度渡米している。
 ギューリックらを中心に世界児童親善会が結成され、日本に人形を贈るプロジェクトが動き始めた。
 まず友情人形を募るポスターや手引きの冊子「お人形が親善のメッセンジャー」を配布した。日本の子どもたちに人形を集めて贈るためのマニュアルである。教師らは人形を介しての親善・友好の意義を、子どもたちに話し、また日本に着くまでの道のりや、日本の文化などを紹介した。
 バザーやパフォーマンス公演で資金集め、決まったサイズの人形の購入、日本へ送るための旅券の手配、女の子と母親たちは人形の衣装や付属品を手作りし、それを着せた。人形にはそれぞれ名前が付けられ、それに友情の手紙も添えられた。世界児童親善会は人形旅行局を特設し、人形を日本に贈るための手続きの代行を行った。
 このプロジェクトに携わったアメリカの児童、保護者、教師、関連団体等の人たちは、約260万人という。
 こうして1927年(昭和二年)に、アメリカからパスポートと渡航切符と手紙付きの人形が、その年の雛祭りに間に合うようにと贈られたのである。
 その数は一万三千体である。その多くはビスクドールで、横たえると目をつぶり、お腹のあたりを押すと「ママ」と言葉を話す仕掛け人形だったという。第一陣として一月に八百体が先に送られた。

 日本側では渋沢栄一の肝入りもあり、文部省や外務省も動き、日本国際児童親善協会が組織され、それらの省から役員が選ばれた。先に届いた人形は、都内の五ヶ所の百貨店で「青い目の人形展」として大評判となった。
 三月三日の雛祭りの日に、東京千駄ヶ谷の日本青年館と、大阪市中央公会堂で人形の歓迎式典が行われることになった。それに先立ち、日本放送協会は高野辰之に「人形を迎へる歌」の作詞を依頼し、東京音楽学校が作曲を担当した。
 青年館には都内の各小学校の代表児童や、日米関係者など二千人が集まった。
 アメリカの少女が日本側の児童代表の少女に人形を手渡すときに、マクベー駐日大使が傍で挨拶に立ち、「自分は痩せているからサンタクロースに似てないが、幸福と愛情を届ける友好の人形を日本のお嬢さんたちに贈ります」と言った。そのとき共に壇上に並んでいた渋沢栄一は「では八十八歳の私がサンタクロースになって貴い意義あるお人形さんを、日本の少女たちに配ります」と言葉を添えた。彼は丸々と太っていたため、会場は爆笑と拍手で沸いた。
 その後、高野辰之作詞、東京音楽学校作曲の「人形を迎へる歌」が演奏、合唱されたのである。

   海のあちらの友達の まことのこもってる 
   かはいいかはいい人形さん
   あなたをみんなで迎へます

   波をはるばる渡り来て ここまでお出での人形さん
   さびしいやうにはいたしません
   お園のつもりでゐらっしゃい

   顔も心もおんなじに やさしいあなたを誰がまあ
   本当の姉妹と 思はぬものがありませう

 こうして、親善使節の人形たちは全国各地の幼稚園や小学校に配布されたのである。
 それにしても「人形を迎へる歌」は、作詞までの時間がなかったとは言え、あの高野辰之でもやっつけ仕事をしてしまうのか。題名も良くない。
 曲はどんなものか全く知らない。日本放送協会はその歌を何度か全国放送で流したと思われ、また各学校に人形が配布された際の式典でも、各校の児童たちによって歌われたと思われるが、その後誰も歌わなくなったのである。
 今でも歌われ続けているのは、野口雨情作詞、本居長世作曲の「青い目の人形」ばかりである。

 さて、アメリカから贈られた人形の親善使節に対する答礼として、渋沢栄一や日本国際児童親善会などの呼びかけで、人形を受け取った幼稚園や小学校の親たちからも募金し、市松人形を送ることになった。五十八体が選ばれ、各県にちなんで、台座部分に例えば「ミス島根」「ミス静岡」とかを彫って入れた。それらは青年館で壮行会を開かれ、ホノルルに旅立ち、やがてサンフランシスコに送られて、二手に分かれて全米で巡回展示されたらしい。その後は各地の博物館や美術館に収蔵されていったという。

 昭和十六年、十二月に真珠湾攻撃があり、日米は開戦した。ギューリック博士は驚愕し、悲しんだ。同志の渋沢栄一は、すでに十年前、この悲劇を見ずに鬼籍に入っていた。
 昭和十八年の毎日新聞は「青い目をした人形憎い 敵だ許さんぞ仮面の親善使」と出した。文部省はアメリカの親善使節人形を贈られた幼稚園や小学校に対し、その廃棄、焼却を求めた。学校によっては、子どもたちに人形を竹槍で突かせて破壊した。戦争ほど人を狂わせるものはない。戦争ほど愚かなものはない。
 雨情、長世の「青い目の人形」「赤い靴」を歌うことは禁止された。
 山田耕筰は演奏家協会を設立し会長となり、ナチスをモデルに演奏家協会音楽挺身隊を結成しその隊長ともなった。彼は皇道翼賛と国家主義を鼓吹し、戦地への慰問活動や戦意高揚の音楽活動に積極的でない音楽家たちを「楽壇の恥辱」と激しく罵った。「平和的な音楽は葬られるのが当然」「戦争に役立たぬ音楽は要らぬ」「全日本の音楽関係者が欧米模倣の域を脱却し、皇道翼賛の至誠を尽くすべき」と吠えた。
 雨情は茨城県の田舎に疎開した。詩人は戦争には無用の存在とされた。気力も失せ病を得た。食うにも事欠く日々を送り、終戦前に亡くなった。長世は「楽壇の恥辱」に甘んじ、音楽活動から身を引いた。彼は終戦を迎えたが病を得て、気力も失い、その一月後に亡くなっている。

 ちなみに、大正十年「金の船」十二月号に発表された際は「青い目の人形」だったが、いつしか「青い眼の人形」になっている。これは意図的な改題ではあるまい。そこまで意識はされておらず、印刷上そうなってしまったのではなかろうか。また、雨情もこだわっていなかったのではなかろうか。現在は童謡が「青い眼の人形」、アメリカ人形の親善使節が「青い目の人形」と表記されるらしいが、その経緯や理由は知らない。また興味もない。

  

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