芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 旅窓の夢 ~遙かなるコミューン~(四)

2016年02月06日 | エッセイ


 ギリシャ正教から反キリスト者へ、そしてローマ・カトリックへ、またプロテスタントへと、卓三郎の教義への探求心か、あるいは迷いの深さか、実のところよくわからない。
 ローマ・カトリックのパリ・ミッションの海外宣教師ウィグローは、当時著名な人だったようである。明治八、九年頃は八王子や周辺の多摩地区を歩き続け、「歩く宣教師」と呼ばれていたらしい。時に卓三郎も行を共にしたかも知れない。
 メソジスト派は明治六年に、米国メソジスト監督派教会のロバート・S・マクレー、ジュリアス・ソーバーらによって日本に入った。マクレーは横浜美以美(みいみ)教会を設立し日本ミッションの総理を務め、また後に東京英和学校(青山学院の前身)の総理も務めた。

 ニコライ司教のギリシャ正教と、プロテスタントのメソジストの、権力や社会に対する姿勢には大きな差異がある。
 イオアン・ドミトロヴィッチ・カサーツキン(ニコライ)は、ペテルブルク神学大学在学中に、ゴローニンの「日本幽囚記」を読み、日本に赴く決意を固めた。神学大学を卒業するとすぐ函館行きを志願し、司教に叙任された。
 夏、シベリアの荒野を単身馬車を御し、アムール河を小舟で下り、ニコライエフスクで越冬している。凄まじい冒険心と意志力である。ペテルブルグを出て一年二ヶ月、やっと函館のロシア領事館付司祭として着任している。しかし厳しいキリシタン禁令のため布教はできない。
 彼はその後七年をかけて日本研究に没頭した。先ず言葉である。彼は新島七五三太(しめた)(※1)という安中藩士で、アメリカに密航するため函館に潜伏中の青年から、日本語や日本研究に必読の書物を教わった。さらに学僧の下で大乗仏教、小乗仏教を学んだ。
 彼の研究は日本史、神道、儒教、日本美術、十返舎一九などの大衆文学等にまで及んだ。函館に戊辰の戦乱が近づいた慶応四年、坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨が最初の入信者で、彼に洗礼を施した。続いて仙台藩領出身の医師・酒井篤礼、南部藩の浦野大蔵が入信した。
 明治五年、ニコライ司教は明治政府に建白書を出し、服従の姿勢を示した。もし門人の中に皇帝陛下に対して一言でも不敬の語を発する者があれば、直ちにその者を破門すると誓っている。陛下に対する逆臣は天主に対しても逆臣となるというのである。ギリシャ正教は帝政ロシアの国教として、その保守性に特徴があった。
 対して、カトリックやプロテスタントは反権力的な社会性と戦闘性を保持していた。特にメソジスト派は慈善事業や社会改良活動に熱心であった。メソジスト派から自由民権運動や平和運動、慈善運動に参加する者が多く出た。また自由民権運動に参加した者たちからメソジスト派に入信した者も多く出た。ちなみに日本で最初のメソジスト派信者は津田仙(※2)であり、夫人の初と共にジュリアス・ソーバー神父から受洗している。

 (※1)ニコライはこの青年がたいそう気に入り、頻りにギリシャ正教への入信を勧めたが、新島七五三太のアメリカ密航の決意は強く、とうとうニコライも彼に協力してアメリカ船ベルリン号に潜り込ませた。彼は船中ではジョーと呼ばれ、以後改名して新島襄と名乗った。
 新島はボストンの教会で洗礼を受けたが、それはプロテスタンティズムであった。アマースト大学でW・クラークに化学を学んだことが契機で、クラークは札幌農学校にやって来た。新島が同志社を創立する際、彼を支援してその創立に関わったのが津田仙である。

 (※2)津田仙の第一の功労は、自前で麻布に広大な土地を買い入れ、本格的農学校・学農社を設立したことであろう。そこから多くの近代農業の実践者を輩出した。またカリフラワーをはじめ、現在日本の食卓に並ぶ洋野菜の多くは津田が日本に根付かせたものである。
 彼は日本初の通信販売を行い、トウモロコシを全国に普及させた。さらに津田の創始になる「農業雑誌」は大正九年まで四十数年間続き、その愛読者たちは全国に近代農業を確立していった。津田が目指した農業は、自主独立の「企業農民」と「商品作物」の栽培である。実に先見の人であったが、その後の日本は零細農家が崩壊、小作農化し、さらに小作農の困民化と地主制の確立によって、その達成は困難となってしまった。しかし「商品作物」は無論だが、今日の「農業の企業化」を津田は何と見るだろうか。
 津田の第二の功労は教育である。彼は特に女性の教育の必要を説き、ソーバーやマクレーらと語り、ドーラ・スクーンメーカー等と共に、学農社の近くに女子小学校を創立した。後の青山学院女子部である。内村鑑三や新渡戸稲造らと普聯土女学校(現普連土学園)の創立にも関わり、命名者となっている。また日本初の聾唖盲学校を創立している。
 第三の功労は、津田が日本の環境運動の魁をなしたことである。足利鉱毒闘争の田中正造を支え続け、学農社出身で「女学雑誌」を発行し明治女学校を創立した巖本善治や、内村らの鉱毒問題闘争、救貧事業、禁酒運動などを応援した。
 津田はわずか七歳の次女・梅子をアメリカに送り出した。帰国後の梅子はこの父と不仲だったそうである。おそらく津田仙が、伊藤博文や顕官ら権力者やその夫人、子女の間を飛び回る梅子を強く叱ったからであったろう。しかも梅子は伊藤博文に英語を教えるため、彼の家に下宿したのである。あの女にすぐ手を出すことで知られていた伊藤博文の家に。それはともかく、「無位」の人津田仙は、権力者が嫌いだったのである。

 千葉卓三郎は永沼織之丞に誘われるまま五日市の有力者たちや青年たちと交わった。さらにローマ・カトリックのウィグロー神父らと八王子周辺を歩いたであろう卓三郎にとって、この地域の好学性と社会、政治への「地熱」と、マクレーらの熱心な社会改良運動と、盛り上がりつつあった自由民権運動は、容易に融合し、彼の中に強い社会意識、特に政治意識を醸成したものであろうか。
 明治十三年、千葉卓三郎は五日市に定住した。五日市の小学校「勧能学校」の教員になったのである。無論、永沼織之丞の推薦であり、また地元の五日市の人々にとっては、明治八、九年頃から既に顔なじみの、「不羈浩然」とし、しかも識見豊かで弁も立つ青年だったからである。
 すでに助教として、西多摩郡日の出町の大久野東学校、秋川の開明学舎、八王子の上川口小学校で教壇に立ち、小田原の学校でも助教をしていたのである。また永沼らと共に豪農で自由民権家の内山安兵衛や、深沢名生(なおまる)、権八親子の他、県会議員で資産家の「土勘」こと土屋勘平衛や「土常」こと常七の兄弟、「馬勘」こと町長の馬場勘左衛門、学務委員の内野小兵衛とも親しかった。彼らは卓三郎に深い信頼を寄せ、よき理解者であり支援者でもあった。

 この地は山深い僻地である。秩父、奥多摩山塊を迸る数多の細流が秋川となり、斜面にへばりつくような檜原村の下を流れ、その流れが五日市の盆地を深く削って、断崖をつくった所に太子堂があった。その太子堂をそのまま学舎として使用したのが勧能学校である。教員は大先生と呼ばれる永沼織之丞と三人ほどしかいない。彼らは太子堂の一部の建物を寄宿舎とし、また内山、馬勘、土勘の家に下宿していたという。永沼以外の教師たちは常に顔ぶれが変わっていたらしい。みな識見豊かな男たちで、また自由民権論者でもあった。
 卓三郎はこの五日市の地に受け入れられたのである。また卓三郎も、この僻陬の地に隠れるように暮らす事情が生じていた。彼には、横浜のマクレー神父の教会で知り合ったと思われる「妻」がいたのである。
 そしてどんな理由があったか知れないが、卓三郎は、その「妻」から逃げまくっていたらしい。その女性は、この誠意のない卓三郎の行方を追いかけ、猛烈に探しまくっていたのである。
 彼女の名は不明である。年齢も、出生地も不明である。卓三郎と同じ白幡村出身の友人である白鳥恒松が、卓三郎に苦情と泣き言の手紙を三通も書いている。
 「貴君の妻ハ他の人ヲ伴ひて僕の住所を訪ひ、面会之上僕に向ていろいろ貴君の事を尋ネ、亦僕が貴君をかくしていたろふと邪推ヲ抱き、いろいろの事をならべ候得共、漸く弁解し、それゆえ貴君の妻僕に居ル父母の所迄て送り下され候様…之レも何卒此事斗リハ御めん下されと申訳致候所、其際貴君の妻立腹して僕への悪口実ニ筆紙に述べ尽難タキ程ナリ、故ニ僕下宿やに対し、亦下宿致候所ノ諸君ニハ、何か僕に於て関係ある様ニ思はれて、僕も天地ニ面を入れられさざる程の恥辱を蒙リタルありさま、申べ様ナシ」…
 実に白鳥恒松には気の毒なことであった。彼女は横浜の母の元にいるらしく、度々東京に出て、あちこち卓三郎の住まいを探索し、尋ね回っているという。
 一時同棲していたと思われるが、卓三郎は尾張町、小田原、大久野、四谷、八王子と転々とし、ついに彼女の前から姿をくらましたらしいのだ。彼女はその不実に激怒し、ついに通運会社を当たって卓三郎の荷物を発見している。しかしそれでも卓三郎の行方がつかめず、どうやら四谷当たりと検討をつけ、彼女も四谷に移ったらしい。
 四谷の卓三郎の知人・五十嵐某は、その婦人に毎日のように押し掛けられて困り果て、ついに彼女に卓三郎を諦め、他に嫁するよう周旋しているという。彼女は遂に仙台まで卓三郎を捜しに出かけたが、彼を発見することが出来なかった。実に気の毒なことである。卓三郎は白鳥恒松に「頼むから自分の居所を教えないでくれ」と返書したらしい。卓三郎もひどい奴である。人間はいろいろな顔を持っているのだ。

 明治七年に下野した板垣退助、後藤象二郎らが左院に提出した「民撰議院設立建白書」は、全国に大きな影響を与えた。自由民権運動の波紋である。 これは五箇条の御誓文(※1)で発せられた「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」を実現し、立憲政体の確立を要求したものである。しかも天賦人権思想に基づいていた。当初は不平士族らの結社を中心にした運動であったが、やがて豪農や一般農民ら平民らの間にも広がり、全国の農山村、漁村にも結社が続々と生まれ、国会の開設と憲法の制定を要求する運動となった。全国に思想結社、政治結社が生まれ始めたのである。日本初の草の根の民主運動と言ってよい。
 土佐の立志社、立志社を中心として日本初の政党・愛国社、沼間守一の東京嚶鳴社ができ、西の立志社、東の嚶鳴社と呼ばれた。他に共存同衆会、交洵社、国友会、福島の北辰社、山形県の尽性社、茨城の同舟社、公益民会、潮来社、福島石陽社、三師社、豪農政社、仙台の鶴鳴社、時習社、精法社、親睦社、福岡共愛社、信州奨匡社、福井の自郷社、金沢の精義社、松江の笠津社、鳥取の共立社、共弊社、高松の立志社、松山の公共社等、それこそ枚挙に暇がない。三師社や石陽社をはじめ、これらの結社は学塾も開き、法律、歴史、政治、経済等の膨大な書籍を備えていた。
 嚶鳴社の沼間守一はまさに民権運動のリーダーで、日本初の日刊紙「横浜毎日新聞」を引継いだ「東京横浜毎日新聞」を経営しつつ、盛んに討論会、演説会を開催し、「嚶鳴雑誌」を発刊した。嚶鳴社の支社も続々誕生し、二十九支社、社員千名を超えた。明治十三年の一月に八王子に第十五嚶鳴社が設立され、その春に五日市に第十九嚶鳴社が誕生した。こうして三多摩の自由民権運動の地熱は高まっていったのである。

 (※1)「五箇条の御誓文」は、玉を抱えた男たちが鳩首会談の末に考え出したものである。字の上手かった有栖川宮幟仁が清書し、三条実美の意見で「天神地祇御誓祭」という胡散臭い儀式をもっともらしく執り行い、その折に三条が十五歳の少年の名において代読したものである。
 岩倉使節団の旅中にその話が出たおり、岩倉や木戸は「そう言えばそんなものがあったなあ」と言ったそうである。彼らは五箇条の御誓文を失念していたのだ。

 先ず古くからの豪農たちである。彼らはそれぞれの村で中心的な役割を担い、村の行く末ばかりか日本の行く末と中央の政治に強い関心を寄せ、知的で教育に熱心だった。
 代表的な例を挙げれば、南多摩野津田村(現町田市鶴川)の石坂昌孝の家には二万冊の蔵書があったという。二万冊の蔵書数は、現代でもかなりな図書館規模である。しかも奔流のように訳出され始めた欧米の法学、思想哲学、政治学等を網羅している。ここに旧士族の自由民権運動の壮年青年が出入りし、息子・石坂公歴の親友であった大矢正夫や北村透谷のような文学青年も入り浸ったわけである。
 同じく南多摩小川村(現町田市小川)の代々の名主・細野吉右衛門の家にも、膨大な漢籍が蔵書としてあり、その子細野喜代四郎もそれを読んで育っている。彼は父の地租改正事業を補助し、二十五歳で村会議員となった。津田仙の「農業雑誌」も講読し、ミルやリプマン等後述するような書籍も読み漁っていた。彼も多摩を代表する自由民権家として活躍し、明治十三年に村民の署名を集めて、小川村を代表して国会開設要望の建白書と上願書を太政官と元老院に提出している。

 五日市の内山安兵衛や深沢名生(なおまる)・権八親子の家も同様に膨大な蔵書を有していた。深沢名生は早くも明治四年頃から、東京で出版された啓蒙書の殆どを入手し、仲間うちで学習会を開催していた。その蔵書類は彼の家に集まる壮年青年たちが自由に閲覧でき、彼らはこれを借り出して学んでいた。彼らは本の誤植誤字を朱書きで訂正し、また自らのノートに筆写していた。五日市には当時東京や神奈川で発行されていた全ての新聞を集めた場所が設けられ、住民のだれもが自由に閲覧できた。大阪や土佐などの著名な新聞も取り寄せられ、これも自由に閲覧できた。いわば新聞図書館である。五日市に招かれた著名な講演者たちが、その五日市のシステムを絶賛している。
 千葉卓三郎が五日市の勧能学校を去り、病のため東京の病院で亡くなった五ヶ月後に、勧能学校の教師となった利光鶴松(※2)の証言がある。

 (※2)「深沢権八氏ハ五日市地方ノ豪農ニシテ、頗ル篤学ノ人ナリ、凡ソ東京ニテ出版スル新刊ノ書籍ハ悉ク之ヲ購入シテ書庫ニ蔵シ居リタリ、氏ハ予ニ対シテ氏ノ蔵書ハ好ムニ任セテ之ヲ読ムノ絶対自由ヲ与ヘラレ、予ハ読ムベキ書籍ニハ曾テ不自由ヲ感ジタルコトナシ」「余ガ思想、学問、行動ノ上ニ受ケタル感化ナリ、余ガ将来自由党トナリ、自由主義ヲ唱道シタルハ全ク、五日市ニ於イテ受ケタル感化ニ外ナラズ…五日市ニ於イテハ漢籍ヲ放棄シ、ルーソー、スペンサー、ベンサム、ミル等ノ著書ノ翻訳ヲ耽読スルニ至レリ」(「利光鶴松翁手記」) 
 利光鶴丸は、この深沢家の書庫からあらゆる法学関係の書物や思想哲学書を借り出し、これで学んだという。利光の手にした書籍は、既に卓三郎が手に取って読んだものである。利光はやがて明治法律学校で学び、弁護士となり、実業界に転じ、小田急電鉄を創業した。

 深沢家蔵書の一例は、ボアソナード「仏蘭西法律書」「経済学講義」「法律大意講義」「性法講義」「仏国民法講義(財産篇)」「仏国民法(コマンド篇)講義」「仏国刑法講義」「民法草案財産篇講義」、ミル「代議政体論」「自由之理」、ルソー「民約論」「フランス革命史」、スミス「国富論」、スペンサー「社会平権論」、チェンバー「英国国会沿革史」、ジブスケ「仏国商法講義」、ベンサム「民法論綱」「立法論綱」「利学」、ウインドシャイド「独乙民法通論」「刑法註釈」「治罪法註釈」、リーバル「自治論」、クリーン・リーフ「証拠論」「仏国治罪法講義」「仏国訴訟法講義」、元老院蔵版「法律格言」、ストーリ「米国憲法」、ポルセール「分権論」、アルペーロ・ベイネー「仏国憲法講義」、田中耕蔵「各国憲法」、加藤弘之「国体新論」、ビーデルマン「各国立憲政体起立史」、リプマン「仏国民法・契約篇講義」等である。これらは少部数発行のためたいへんな高額本で、現在の価格にすれば十万円前後もするといわれる。
 これらの書籍は表紙の角が丸まり、手垢でボロボロになるまで読み込まれている。おそらく、多数の人々によって回し読みされたものと思われる。
 彼らはこれらの書物を読み込み、疑問をノートに書き付け、読替をしていた。卓三郎も「国王主権」の部分を「人民主権」に置き換え、国権を民権に置き換え、ユーモラスな換骨奪胎を行っている。

 明治十三年、五日市の人々は学習結社「五日市学芸講談会」を設立した。五日市のみならず、青梅や八王子の一部の人々も参加した結社で、会員は三十名である。彼らは市の立つ「五の日に」集まって、事前のテーマに基づいた考えを持ち寄り、討論会を開催した。また書籍を読み回し、その思想を錬磨していったのである。
 その中で、舌鋒鋭く、どこかニヒルなユーモアをたたえた卓三郎の論が際立ち、彼はしだいに会の中心をなすようになっていった。熱しやすい討論を深沢七生は議長としてよく制し、権八も犀利で見事な論を展開しつつ、書記役として会の記録を残していった。権八は和綴じの手帳に「討論題集」を書き残している。彼らは全部で六十三のテーマを論じ合っている。
「不治ノ患者ガ苦痛ニ耐カネ死ヲ求ムル時ハ、医員立会ノ上之ヲ薬殺ス可シトノ明文ヲ法律ニ掲グルノ可否」 
「鉄道ハ政府ノ所有スベキモノニ非ザルカ否カ」 
「自由ヲ得ル捷径ハ智力ニアルカ将タ腕力ニアルカ」 
「中学ノ教科書ニ政治書ヲ加フルノ可否」 
「外国ノ資本ヲ内地ニ入レルノ利害」 
「犯罪ノ嫌疑ニ因テ拘引セラレ吟味ノ上遂ニ無罪言渡ヲ受タル者ハ、法理上其損害ヲ政府ニ向テ求ムベカラザルカ」
「貴族廃スベキカ否カ」 
「女戸主ニ(参)政権ヲ与フルノ利害」 
「国会ハ二院ヲ要スルノ可否」 
「憲法改正ニハ特別委員ヲ要スルノ可否」 
「議員ノ選挙ハ税額、人口ト何レニ由ルベキヤ」 
「女帝ヲ立ツルノ可否」 
「出版ヲ全ク自由ニスルノ可否」 
「財産ヲ以テ兵役ヲ免レシムルノ可否」 
「駅逓ハ人民ノ私書ヲ開封スルノ権アリヤ否ヤ」 
「内乱非常ノ際ニ方ッテ護郷兵ヲ設クルノ可否」 
「風儀立法権ヲ地方官ニ委スルノ可否」 
「人民武器ノ携帯ヲ許スノ利害」 
「増租ノ利害」 
「飢饉ノ年ニ方ッテ米穀ノ輸出ヲ禁シ商家ノ貯蓄ヲ売ラシムルノ権社会ニアリヤ否ヤ」
「上院議員ノ人数年限選挙区域如何」 
「志願兵ノ利害」 
「条約締結権ヲ君主ニ専任スルノ利害」 
「議員ニ給料ヲ与フルノ可否」 
「議員ノ権力ニ制限ヲ置ク可否」 
「陪審官ヲ設クルノ可否」…。
 実に現代的なテーマも論じ合っている。「甲男アリ有夫ノ婦乙女ト道路ニ於テ接吻セリ、其処分如何」という爆笑ものもあった。

 国会開設、憲法制定という草の根の自由民権運動は、日本全国に、地方に、町に村に、土地に根付いた人間と卓三郎的な流浪放浪の人間を混淆させ、熱く濃密な共同体、実に不思議なコミューンを形成した。卓三郎は出郷し、いまだ遍歴の客路にあり、その旅窓に五日市コミューンを見ていたのである。
                                                 


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1 コメント

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津田仙 (kaguragawa)
2016-02-07 19:30:46
千葉卓三郎のことをくわしく取りあげてくださり有り難うございます。また、津田仙のことも取りあげてくださり感謝します。
拙ブログ中に、津田仙と富山との関わり、とりわけ仙の学農社に学んだ橘仁という人物の娘さんについて書いています。
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