芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

目黒川の桜

2016年04月09日 | エッセイ

 目黒と言えば、落語なら「秋刀魚」だが、最近は「桜」なのである。春ともなれば、今や目黒川は東京の桜の名所なのだという。…まるで人間のようだが、私はこの桜たちの子ども時代を知っている。あの子たちがこんなに大きくなって、こんなに有名になったのだ。

 小さな会社を立ち上げ、目黒区青葉台のマンションの一室を事務所とした頃の話である。まだ昭和であった。
 田園都市線の池尻大橋駅に近く、そのマンションの一階は大家さんが営む「たい焼き屋」さんだった。マンションの裏を少し行くと壁一面を蔦植物で覆われた廃墟のような建物があり、まだ使用されている様子であった。おそらく商業用の撮影スタジオであったろう。そしてキングレコードの本社ビルとレコーディングスタジオがあり、その前が目黒川であった。これらの建物が、今どうなっているのかは知らない。
 その頃、目黒川は改修中で、両岸の護岸工事は終わっていたようであったが、川床に凸型のブロックを敷き詰める工事をしていた。
 国道246号線を跨いだ目黒川の上流側は、太い鉄骨の梁が両岸に渡され、やがてその上を鉄板やコンクリートの蓋が覆う工事に移っていった。暗渠化工事である。川は歩道となっていくらしい。さらに上流はすでに暗渠となっていた北沢川と烏山川だという。

 目黒川の川床の工事も終わると、やがて両岸に桜の幼木が植えられはじめた。その高さは2メートル半くらいだったろう。まだ幹も細く頼りなげであった。翌年の春、その若樹は愛らしい花を咲かせた。量感こそなかったが無事に暑い夏を越し、寒い冬も越して開花を迎えたのである。
 この若樹の桜は中目黒まで伸び、さらに大崎の方まで植えられていたらしい。
 二年目、三年目の春ともなると、徐々に花の量感も増していった。事務所と池尻大橋駅の行き来は、その川筋を通り若樹の花を楽しんだものである。
 やがてその部屋を備品や機材倉庫として残し、事務所を渋谷に移した。
 
 ある時、テレビでニュースを見ていると、目黒川沿いの桜がライトアップやイルミネーションで飾られ、多くの夜桜見物の人波で賑わっていることを知った。東京の花の名所となったらしい。
 あの頼りなげな細い幼木が、花も豊かに枝を伸ばし、広げ、目黒川を両岸から覆うまでになったのである。散った花びらは川面をピンク色に染めているらしい。それだけ時間が経ったということだ。それだけ歳をとったということだ。

 ちなみに目黒一丁目あたりの目黒川の支川に「蛇崩川」というのがあることを知った。その昔、目黒の台地の低部を流れる狭い川筋は、大雨になると鉄砲水を発して崩れ、蛇行し、辺りを浸水させたのであろう。
 二年ほど前の広島の豪雨では、崩れた土砂が住宅地を呑み込んでしまう大災害を引き起こしたが、その土砂崩れを引き起こした山間の谷地は、その昔の地名を「蛇崩れ」といったそうである。宅地開発の際に、その地名を「明るい」ものに変更したらしい。そうして土地の記憶を消したのである。
 本来地名は変えてはいけない。変えるとしても新地名の後に()で旧地名を表記すべきであろう。これは「目黒川の桜」の、あくまで余談であるけれど。

                                                                              
                                                   

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