芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

松陰論再び

2015年11月10日 | エッセイ
   この一文は2006年9月6日に、天野雀空の筆名で書いたものの抜粋です。これは山
   口県民や松陰ファンを不快にさせてしまった。しかし県民の皆さんに特に意を含んだも
   のではなく、親しい方も何人かいる。お気に障る部分があれば、またお許し願いたい。
 


 安倍晋三は吉田松陰を尊敬しているらしい。ということは、実は吉田松陰を読んでいないことを暴露しているか、明らかにアブサードな右翼であることを示している。
 松陰はアジア侵略と近代日本を破滅に導いた悪鬼である。つまり現代に及ぶ影響を与えたことは間違いない。そして松陰がいかに退嬰的知性の持ち主であったかは、同時代の世界の知性と、彼より百年も前の内外の知性を知れば頷けるであろう。

 松陰が奉じた儒学・朱子学も国学も学問としての発展性は全く無く、思想哲学としての世界的な評価も全くない。儒学・朱子学は民衆の統治技術・政治技術を述べたものに過ぎず、「記紀神話」史学を基礎とする国学はミソロジーに過ぎないからである。
 孔子・孟子の王道政治とは覇道の対語概念である。社会制度や政治的な支配関係が出現する以前の原始状態の人間世界は、差別無く貴賤も無いように見えるが、実は強者が弱者を虐げ、奪い、殺す世界、弱肉強食の覇道の世界である。その中から傑然たる者が現れて、人々に食料の確保の方法を教えたり、寒さを防ぐ衣装の作り方を教えたり、農耕や紡織の技術を教え、人々を救い導くのである。人々はこの傑然たる者の支配に自ずと服するようになる。この支配は覇道の対語、王道の仁政なのだ。
 そして人間は生まれながらにして天命による貴賤の区別を持っていて、全ての者がその自らの分を守ってこそ、落ち着いた良い社会ができるのである。…これが儒学・朱子学の本質を簡単に述べたものである。
そもそも孔子、孟子の「論語」「孟子」は中国の古代王朝三代(夏・殷・周)の王を美化し讃えている。儒者で垂加神道を創始した狂気の尊皇主義者の山崎闇斎らは、この中国古代王朝の理想政治「王道」を、そっくり日本の神武以来の古代王朝に当てはめて理想化した。これが国学である。本居宣長も平田篤胤も吉田松陰も「記紀神話」の虚構を史実とし、「やまとごころ」を称揚し万世一系の天皇への赤誠と皇国史観と、天皇制の国体にしがみついた。
 松陰は、欧米列強に対抗しうるナショナル・アイデンティティとして、「記紀神話」による「万世一系の天皇」を日本の揺るぎない政治的権威=絶対的忠誠の対象=日本の国体と位置づけたのである。彼の頭脳が全く発展性のない朱子学と、偏見に満ちた国学に満たされ、世界的視野を欠いた時代錯誤にのめり込んだことは、彼が発した「カリスマ性」を考えれば、近代日本の不幸であったと言うべきだろう。
 松陰は尊皇攘夷派であったが、後、強国に開国することが決まった上は攘夷を捨てて、ますます尊皇主義のみで行こうと考えた。松陰は「獄是帖」に「魯墨講和一定の上は、決然として我よりこれを破り、信を夷狄に失うべからず、ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取りやすき朝鮮満州支那を切りしたがえ、交易にて魯墨に失うところはまた土地にて鮮満に償うべし」…と書いている。
 魯墨とはロシア、アメリカのことである。つまり「ロシアとアメリカと講和条約が決まった上は攘夷を引っ込め、条約を破ったりして強い外国の信用を失ってはならない。この間に国力を養って、ロシアやアメリカとの不平等通商交易で損した分は、弱そうな朝鮮や満州、支那を侵略して、その土地で代償すればよい」と言っているのだ。

 松陰は人を惹きつけてやまぬ純粋性があったのだろう。そのため長州の若者の多くは松陰に感じ入り、彼の死後に策謀家の坂本龍馬のデザインによって描かれた倒幕プラン…「玉」=幕府に信を置く孝明帝は邪魔で、白粉・お歯黒・描き眉の運動不足で足の萎えた不健康な少年帝を手に入れ、何も分からぬ彼に倒幕の勅書にサインさせて倒幕を果たす…に参集した。そして彼らは明治維新政権の中枢を担ったのである。その後は松陰の狂気の国体デザインを実現していった。
 ちなみに坂本龍馬は勝海舟にアメリカの初代大統領ワシントンについて「その子孫は、いまどうしています?」と質問している。勝は答えた。「フム、靴磨きか窓拭きでもしてるじゃろう」「なるほど」…龍馬は一瞬にして世襲政治を否定した民主主義を理解したのである。龍馬は勤王派とも佐幕派とも付き合ってきた男である。龍馬にとってイデオロギーはどうでも良く、天皇は道具に過ぎなかった。一日も早く、今までとは全く異なった社会体制の実現を望み、そのために利用できる道具は全て利用しようとしていた。天皇が邪魔になれば、当然その排除も考えただろう。龍馬は稀代の策謀家、謀略家である。そして龍馬の夢は、外国と自由に通商交易ができる社会の実現だったのである。

 松陰は「本邦の帝皇、或は傑紂の虐あらんとも、億兆の民は唯だ当に首領(こうべ)を並列して、闕(けつ)に伏し号泣して、仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。…『天下は一人の天下なり』と。…是れ則ち神州の道なり」と書いた。つまり「わが国の天皇が、たとえ暴虐で知られた夏の傑王や殷の紂王のようであろうと、民はただ首を並べて宮城の門(闕)に伏して号泣しながら、天皇が民を少しばかり苛め過ぎたと悟られるのを祈るだけです。何故ならこの天下は天皇お一人だけのものだからです」…1945年の8月15日の皇居前広場を思い浮かべられよ。

 現代の国際的な憲法思想、人権思想の元となった「自由論」を書いたJ.S.ミルは、松陰と同世代人である。「…支配者が社会の上に行使することを許された権力に対して、制限を設けること」、その制限こそ市民の「自由」を保証するものなのであり、「政治的自由または権利と呼ばれる、ある種の責任免除を承認させること」で、もしも支配者が「これらの責任免除を侵害したならば、特定の反抗または一般的反乱が容認されうること」とミルは書いた。後にこれは「憲法による抑制」として確立された。つまり本来憲法とは権力者らに「これをしてはいけない」「これを破ってはいけない」という「抑制」として確立され、さらにその社会の「理念」「理想」を謳ったのである。松陰の思想的退嬰性は明らかである。

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