芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

花森安治の戦争と戦後

2016年07月18日 | エッセイ
                                                        


 ノモンハン事件は国際的、歴史的にはハルヒンゴル戦争(ハルハ河戦争、ホロンバイル戦争)という。これを事件と言うのは、満州事変、上海事変、日華事変と同様、国際法に則った宣戦布告を手交せず、先に手を出したような、日本側に何か事態を矮小化したい後ろめたさがあるのだろう。
 数多くの日本軍の戦争、戦闘の中で、このノモンハン事件ほど愚劣な戦いはなかったであろう。司馬遼太郎はこのノモンハン事件を描かんとして断念したらしい。参謀本部作戦課、関東軍作戦課のエリート軍官僚たちの、あまりにも愚かで狂的で無責任な暴論や愚行に、反吐が出そうになったからである。
 日本軍はソ連と満州の国境で対峙した。ソ連は満州帝国を認めていたわけではない。満州帝国と日本の間には密約(今でいう集団的自衛権)があり、満州帝国とソ連の国境(季節によって流れも不分明な河の国境)をめぐって侵犯問題が起こり、日本軍がソ連の機械化兵団と交戦したのである。
 日本軍の戦車が撃った弾はソ連軍の戦車にも届かず、運良く届いてもその分厚い装甲に弾かれてしまう。しかしソ連軍戦車の撃った弾は、簡単に日本軍の戦車の装甲を貫いてしまう。
 日本軍の戦車や航空機はたちまち壊滅状態に陥るが、自らは安全なところにいる作戦参謀たちは退却を許さなかった。退却してくる部隊の隊長らに軍刀を引き抜いて脅し、精神力を強調して撃滅せよと命じる。兵隊たちは銃剣を構え、あるいは抜刀し悲鳴に近い雄叫びをあげ、ソ連の重戦車に向かって突進するが、当然バタバタと倒れていく。うまく相手の重戦車にたどり着いた者は、手榴弾を持ってキャタピラーの中に飛び込んでいく。…
 このノモンハンの、辛うじて生き残った惨めな敗残兵の中に、花森安治がいた。

 花森安治はその後、太平洋戦争が始まると大政翼賛会の宣伝部に勤め、戦時標語の文案を書き、募集した標語を選ぶ仕事をしていた。「ゼイタクハ敵ダ」「欲シガリマセン勝ツマデハ」「足ラヌ足ラヌハ工夫ガ足ラヌ」…。
 嘘か実か、花森伝説の一つに、彼は庶民たちがその標語を密かに「ゼイタクハ素敵ダ」と、言い換えて、戦争の憂さを晴らすことも想定して書いたという。
 また、このころに花森は気づいたらしい。戦時中の銃後の女たちの生活力、生活のやりくり、工夫…。戦争が終われば…。戦争に負けた男たち社会の男尊女卑、日本の家父長制は崩れるだろう。女たちは解放される…。日本の家庭は女性化する…。戦後は女の時代、女が主導する暮らしの文化の時代になる。女性が強くなれば、戦争は…おそらく、起こるまい。

 東大の安冨歩教授(経済学)は、その女装で話題になった。女装する前はものすごい髭づらである。女装してやっと楽になったという。
 花森安治はその女装において大先輩である。彼は可愛いリボンをザンバラの長髪に結び、スカートやショートパンツを履き、自ら作った派手な花森式シャツを着て、戦後の焼け跡を徘徊した。
 女性の解放に賛意を示し、その実践でもあったのだ。「女性が強くなれば、戦争は起こらない」と花森安治は言った。

 戦後、花森は大橋鎭子と共に「暮しの手帖」を創刊する。花森が編集長である。しかしどこの書店も扱ってくれず、花森や大橋、そのスタッフはリュックに雑誌を詰めて、日本中の書店を訪ね歩いた。やがて徐々に「暮しの手帖」は売れ始める。
 そして家庭向け商品のメーカーは、二つのものに戦々恐々とするようになった。ひとつは、おしゃもじ主婦連であり、もうひとつが「暮しの手帖」だった。どちらも商品を採点し発表したからである。
 特に「暮しの手帖」は堂々八十万部に達した。広告収入に頼る「暮しの手帖」ではない。商品テストにかかる費用は、全く自費である。だから、商品に対し遠慮はない。「暮しの手帖」は恐るべき人数を動員し、膨大な時間をかけ、執拗な回数の商品テストを繰り返し、その結果を発表した。ミシン、洗濯機、ステンレス流し台…。サンウェーブ工業が倒産したのは「暮しの手帖」のせいだとも囁かれた。商品を褒められた会社はそれを自社の広告で謳った。
「暮しの手帖」はやりくり時代の味方であった。そして「暮しの手帖」は女性たちを賢い消費者へと変えていった。消費社会が「暮しの手帖」を後押しした。…
 ちなみに花森が出入りした店のウェートレスたちは、彼を女だと思って疑わなかったらしい。

                                                       

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