芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

あの有名な…

2016年09月19日 | エッセイ
                                                              

 イベントを業としてきた者としては、「してやったり!」と思う時が最も嬉しい。自主企画もあるが、私の場合はクライアントや広告代理店からの依頼が大半であった。その依頼内容から、目的と、どうすればその目的を効果的に達成できるかを考えて企画をし、その企画意図通りにプランが決定して実施され、かつ予想以上の好評価を得たとき、「してやったり!」なのである。
 さらにそのイベントの中に、クライアントや代理店の方たちにも、また一般にもほとんど知られていない優れものや、かつ本邦初のものを紹介できれば、喜びはひとしおである。
 規模の大きいものから極々小さなイベントまで、年間約百件近いイベントを実施してきた。その中で「してやったり」と思うものは一件か二件に過ぎない。また決定に至らなかった企画だけの件数なら、実施イベントの三倍は超えただろう。
 実はその決定に至らなかったイベント企画に、「あれをやっていれば面白かっただろうな」と、未だに愛惜の念を抱くものもある。仲間内で、「ボツ企画展」をやったら大受けするだろうと笑いあったこともある。

 三十年も前のことである。A広告社から大規模な分譲地の販促イベントの企画を依頼された。もちろんA社の他に三社が参加するコンペである。イベントの提示予算も大きく、A社の担当部局と担当者も力が入っていた。クライアントは相模鉄道と相鉄不動産であった。企画に先立ち、すでにマーケティング調査が先行しており、その局から分厚い報告書が提示されていた。クライアントからのオリエンシートを元に、すぐに営業、マーケ、クリエイティブ(コピーライター等)、PR、SP等が集まり会議が始まった。当然私はSPの企画を担当することになった。
 私は営業とSPの方とともに、すぐ緑園都市をロケハンに行った。分譲地は実に広大で、緑を剥ぎ取られた砂漠のような大地は、道路で区割りされ、もともとの地主さんであろうか、大きな数軒の家が点在するばかりであった。
 マーケティング調査の資料や、オリエンシートにはこうあった。
 分譲地は「緑園都市」であり、緑園都市駅は相鉄「いずみ野線」に開業して間もない新駅である。いずみ野線は相鉄本線の「二俣川」駅から「いずみ野」駅を結ぶ支線である。緑園都市は広大な分譲地であり、神奈川県・横浜市ばかりでなく、東京、千葉県、埼玉県、茨城県、山梨県にもアプローチしたい。つまり千葉・埼玉県などの遠方から首都圏に通勤されている方にとって、緑園都市から首都圏に通勤する時間はほとんどかわらないのである…。しかしマーケ調査の結果では、神奈川県では相鉄、二俣川は知られているが、いずみ野線の認知度は意外に低い。東京でも相鉄の知名度は高くない。いずみ野線、緑園都市の認知度はかなり低い。埼玉県、千葉県ではそれらの認知度はさらに落ち、いずみ野線も緑園都市も、知る人はほとんどいない。…
 つまり有名にしなければならないのだ。
 オリエンシートにはこう記してあった。「土日に大きな特設ステージを組み、有名アーティスト(例としてピンクレディや大物アイドル歌手、有名ポッブス歌手等)のコンサートを開催し、県外からも多くの集客を図り、緑園都市、いずみ野線、相模鉄道の認知度アップを図りたい。また分譲地を購入する親子連れも楽しめるキャラクターショーやファミリーイベントで、現地下見や現地事務所での相談会などに誘致したい。…」
 つまり「緑園都市」は有名になりたいのである。いずみ野線も、相鉄線も県外にその名を知ってもらい、有名になりたいのである。私のコンセプトは決まった。「有名になりたい」である。
 またピンクレディやアイドル歌手、有名アーティストのコンサートを開催しても、やってくるファンが分譲地の購入層には思えなかった。土日土日のイベントを二、三度やっても、「緑園都市」の知名度が一気に上がるとも思えなかった。

 私の企画は決まった。
 企画書の表紙をめくると、一頁を使って「緑園都市は / 有名になりたい」とだけ書いた。二頁目は「有名にしましょう!」である。
 企画骨子は、土日土日のイベントではなく、二ヶ月間限定のキャンペーンであり、タイトルは「あの有名な緑園都市」キャンペーンである。
 まず二ヶ月間限定で駅名を変更する、駅舎の看板も、プラットホームの駅名表示も変更し、特別切符を発行する。駅の案内放送も社内のアナウンスも変更する。電車の行き先表示ロールも変更し、期間限定のヘッドマークを取り付ける。
 まず二俣川駅から出る「いずみ野線」の最初の駅名「南万騎が原」は、キャンペーン期間中は「ご存じ南万騎が原」とする。次が「あの有名な緑園都市」である。「あの有名な緑園都市」の次は「誰でも知ってる弥生台」とし、当時の終点「いずみ野」駅の名は「噂のいずみ野」である。
 駅員さんも車掌さんも恥ずかしがらずに、この駅名をアナウンスし、連呼していただく。
「ご乗車ありがとうございます。次は『ご存じ南万騎が原』『ご存じ南万騎が原』、降り口は左側でございます…」
「次は『あの有名な緑園都市』『あの有名な緑園都市』…」
「『誰でも知ってる弥生台』『誰でも知ってる弥生台』」
「次は終点『噂のいずみ野』『噂のいずみ野』です。…」
 電車に乗り合わせる女子中学生も高校生も、大人たちもクスッと笑うだろう、笑顔になるだろう。たちまち話題になるだろう、噂を呼ぶだろう。
 私には自信があった。ペイドパブに多額の予算を取らなくても、「あの有名な緑園都市」になれる。大手の写真週刊誌、週刊誌、新聞、スポーツ紙、在京テレビ各局、各局のお笑い芸人がリポーターを務める情報番組、情報バラエテイ番組、そして鉄道ファンの雑誌などにニュースレリースを発出する。放っておいても相鉄、相鉄不動産の広報には問い合わせや取材がやってくる。鉄道ファンが必ず、全国からカメラを担いでやって来る。特別切符も売れる。
 キャンペーン期間中の現地案内所を設置し、現地説明会や相談会も行う。キャンペーン最終週の土日は特設ステージを組んでコンサートをやる。ファミリー向けのキャラクターショーもやる。フワフワ大型遊具も置く。縁日もやる。
 キャンペーン終了の後、駅名は元に戻されるが、後日に鉄道ジャンク市も開催する。特別ヘッドマークも行き先表示ロールも、プラットホームの看板も全て販売する。いずみ野線ばかりではない全相鉄の鉄道ジャンク市でもある。
 これで、緑園都市は全国的に有名になる。いずみ野線も、相模鉄道も有名になる。
 企画書をつくり、A広告社の会議で説明した。会議室は騒然となった。みな興奮状態で「面白い! これはいける!」と口を揃えた。担当部局の部長だけが懸念を表明した。「ふざけ過ぎではないか」
 しかし、「あの有名な緑園都市」でブレゼンすることになった。
 相鉄へのブレゼンは実に好感触であった。担当者は顔を輝かし、ほころばせた。ブレゼン後、外に出たA広告社の面々は握手し合った。「決まったな」という人もいた。
 しかし結果、私たちは受注できなかった。相鉄の最終責任者である担当常務だか専務が言ったそうである。「ふざけ過ぎだ」
 やはり「あの有名な緑園都市」はふざけ過ぎだったのだろうか。
 実に残念であった。H堂が落札したらしい。その後のイベントを見ていたら、なあんだ、オリエン通りのものに過ぎなかった。駅と車内に近隣の子どもたちの絵画が掲出された。

 あるとき、A広告社で新たな企画の会議があった。A社のメンバーはSP局のプロデューサー以外は初めての方たちであった。名刺を交換し挨拶すると、その方たちが私の顔を見ながら言った。「もしかすると、あの有名な…の…」
 またある時、全く別の広告代理店から声がかかった。横浜でロケハンを兼ねて打ち合わせとなり、その担当者の方々と名刺交換をした。相手は私の渡した名刺と私の顔を見ながら言った。「もしかすると、『あの有名な緑園都市』という企画を書かれた方ですか?」
 実はずっと後に知ったのだが、H堂の企画を担当したのは、私が親しくさせていただき、お世話になっていたプロデューサーでプランナーの方であった。その方に「あの有名な…」の話をすると、「なあんだ、その企画の方がずっと面白かったね。もしそれが実現していたら、きっとあんたも有名になっていたよ」

                                                               

ある夏の思い出

2016年09月16日 | エッセイ
                                                     

 私がT百貨店に「創作人形展」の企画を持ち込み、その展覧会を実施したとき、S君と親しくなった。彼は広告代理店に所属していたが、席はその百貨店の宣伝部にあったのである。何度か語らううちに、現代アートをやっているということだった。アートだけでは飯が食えないため、そうしているらしい。
 もう三十年近く前になる。S君が人を伴って訪ねてきた。ギャラリーQの上田雄三氏であった。
「犀川国際アートフェスティバル」というイベントをやろうとしているが、手伝ってくれないかというのである。上田氏は現代アートのアーティストであり、画廊経営者であり、アートキュレーター、コーディネーターであった。プロデューサーは上田氏、S君はその補佐、私がイベントのディレクションを担当することになった。
 犀川とは信濃川水系の一つで、信州新町(現長野市に編入)を流れる一級河川である。すでに日本、フランス、韓国などからの参加アーティストが固まりつつあって、その中には巨匠もいた。顔ぶれは現代アートのアーティスト、ダンサー、パフォーマーと多彩であった。なんとも実に壮大な企画なのである。
 八月の真夏、お盆まで一週間余りをかけて開催する予定だという。展示会場は信州新町美術館、信州新町の中学校の体育館、犀川の河川敷、神社の境内などである。
 上田氏やS君の売り込みで、ながの東急百貨店別館シェルシェ特設展示会場とホールも会場に付け加えられた。
 また事前のPRのために、当時お洒落なイベントスポットとされていた芝浦インクスティックでプレイベントを実施し、初日前日には、ながの東急百貨店前でもパフォーマンスイベントを実施するというように徐々に膨らんでいった。
 犀川国際アートフェスティバルの最終日は、信州新町で行われる恒例の花火大会に合わせて、河原でコンサートを行いたいという。
 私たちは何度も参加アーティストに集まっていただき、作品イメージや展示イメージ、希望を聴取し、また何度も信州新町に打ち合わせに出かけた。
 会期が近づくと、すでに何人かのアーティストが、信州新町の寺に泊まり込んで、大きな作品の制作に取りかかっていた。

 芝浦インクスティックのプレイベントは面白かった。当時、女性たちに人気の高かった勅使河原三郎のダンスやパフォーマーたちのステージ、深草アキの秦琴のコンサートなどを展開した。先ずプレイベントは大成功だった。
 信州新町美術館に入る手前の畑を借りて、まず彫刻家の関根伸夫氏の作品が設置されることになった。クレーン車で吊り上げたのは、赤く塗られた巨大な鉄骨で組まれた作品である。支え合う「人」を形づくったものであった。
 その後も信州新町美術館に作品が搬入され、あるいは美術館内で制作が始まった。信州新町美術館の副館長の滝沢氏はハラハラされたことであろう。何せわがままなアーティストたちである。
 この美術館のロケーションが素晴らしい。目の前が瘻鶴湖(ろうかくこ)という、犀川が流れ込む、静かな青碧色のダム湖(水内ダム)であった。向こう岸は深い森である。真夏でも湖を渡ってくる風が心地よい。美術館と並ぶ古い洋館は有島生馬の別荘で、そのまま有島生馬記念館になっている。瘻鶴湖の名付け親は有島生馬であるという。
 犀川の河川敷、中学校の体育館、シェルシェにも作品が搬入され、ホールにステージが組まれた。
 アーティストたちもスタッフも信州新町のお寺さんに泊めていただいた。雑魚寝の合宿である。

 初日、私はほとんどシェルシェのホールにいた。アメリカでいくつもの賞を受賞した黒沢美香のダンスパフォーマンスが行われた。シェルシェで行われたパフォーマンスの中で、出色だったのは武井よしみちであった。
 ステージセンターにマイクとマイクスタンドが立っている。実はこれは電動工具のグラインダー(砥石)なのである。彼のいでたちは、黒縁のロイド眼鏡、白いワイシャツにきっちりと衿元までボタンをはめ、地味なネクタイを締め、ワイシャツの両袖には昔の役場の事務員のように黒い袖カバーをしている。
 彼はマイク、じゃなかったグラインダーの前に直立不動で立つ。まるで東海林太郎のようである。グラインダーが回り始める。武井よしみちは鉛筆大の金属棒をそのグラインダーに当てる。それはキーンと工場と紛うような音と火花を上げる。彼は朗々とテノール歌手のようにアリアを歌い出す。歌詞は不明で何語でもない。おそらくアリアでもないが、見事なアリアのようなのである。
 彼はますます声を張り上げる。素晴らしい声だ。火花は武井の上半身を隠すほど、盛大に天井近くまで上がり、武井の顔に、頭上にふりそそぐ。
 次に武井は身体の数カ所にセンサーを取り付けて現れる。彼の腰のベルトには携帯ラジオが付けられている。そのラジオのチューニングはいい加減らしく、ザーっという音が聞こえる。武井が舞踏を始める。腕を上げ動かすことで、ラジオの音が変わる。プププ、ブーピー。足を回す。ピッピッピッザー、身体を不自然に回転させ、くねらせる。その度にラジオは不思議な音を奏で変化する…。それは無意味な音楽のような雑音だ。壊れたラジオの雑音のような面白い音楽だ。
 素晴らしい、面白い。踊りの最後の動きで、ラジオは本来の放送を流し始める。その時はニュース番組だった。アナウンサーは岸信介元首相の死を伝えた。まさにその時のライブなのである。観客は、そして私たちスタッフ全員が、岸の死を知ったのだ。
 こんな面白いパフォーマンスがあったのか! 音響さんも照明さんも、笑い声をこらえ、身を捩るように笑っている。これぞ「伝説の武井よしみち」のパフォーマンスなのだ。

 深草アキの秦琴コンサートは、夜間に神社の境内で行われた。薪能のように薪がゆらゆらと炎を上げ、爆ぜた。聴衆はゴザを敷いて酒を飲みながら聴いていた。実に心地よい音楽である。演奏は数時間に及んだ。聴衆を見るとみな気持ちよさそうに寝ていた。秦琴はα波を出すといわれる。これほど心地よい演奏、曲、音楽があるだろうか。

 犀川国際アートフェスティバルの掉尾は、信州新町の毎夏の恒例の花火大会と合わせる演出とした。
 私は社に出入りしていた、あるロックバンドの追っかけ女性から、竹林賢二を紹介された。彼は横須賀の臨済宗の寺僧で、ミュージシャンでもあった。
 私は迷わず竹林賢二に声をかけた。彼はスティックタッチボード(今はチャッブマン・スティックとか単にスティックと呼ばれているらしい)という、当時アメリカでエメット・チャップマンが作った新楽器の、ほとんど唯一の奏者だった。
 竹林はアメリカ旅行中に、チャップマンの元に行き、彼の家に二ヶ月泊まり込んで奏法を学んだという。
 不思議な弦楽器である。エレキで、長い平らで幅広のスティックを肩から胸に抱くように抱え、フレットを打つのである。弦打楽器だ。シンセサイザーのような音色で、ベースとコードとメロディラインを一度に奏でることができるのだ。実に幻想的で、深く玄妙な音色なのである。
 私の最初の演出案はこうであった。湖上に竹林賢二を乗せた和船が浮いている。上流の橋に仕掛けられたナイヤガラ花火の煙が湖上に霧のように流れてくる。岸辺から何本かのサーチ灯が湖上の煙の霧を照らす。そして和船の上で止まる。船上に立った竹林賢二の奏でる深遠な曲が流れ始める。…しかしこれは建設省の方やダム管理の東電の方たちから強く反対された。「あんたたちは水流の強さを知らないのだ。船を湖上の一点に停止させることは不可能だ」
 私はすぐ演出案を撤回した。地元の皆さんの協力を得て、ドラム缶をつないで浮かせ、その上に桟橋を掛け、その突端にやや広めのデッキを設けていただいたのである。ドラム缶筏の桟橋である。桟橋は湖上に突き出て浮いた状態である。
 犀川と瘻鶴湖(ろうかくこ)は食道と胃袋に形が似ている。湖へと広がりはじめる場所に、そういう浮橋のステージを作っていただいた。さらに花火師の親方と打ち合わせをさせていただいた。また信州新町の犀川はお盆の灯籠流しで有名なところであったので、建設省の方に上流の灯篭を流す地点から、湖に流れ着くまでの時間を、水流の速度から計算していただいた。上流から灯篭を流すタイミングも町の実行委員の方たちと打ち合わせをした。

 花火や灯篭流しを目当てに、近隣からやって来た何万人もの人たちが岸辺を埋めた。まず花火が始まる。尺玉が上がり、水中スターマインが歓声を呼ぶ。…やや上流の橋に仕掛けられたナイヤガラ花火で、いよいよコンサートが近づく。ナイヤガラ花火の煙が湖上に流れ、幻想的な霧をつくった。暗い湖面に不思議な音色が流れはじめる。…
 照明が、湖上に突き出た桟橋の突端の竹林賢二を照らし出した。彼のいでたちは無国籍である。頭からすっぽりと被った、やや長めの布はアラブの人のようにも見えなくはない。あるいは琵琶法師か。湖上に吹き渡る微風に幅広の袖やそれらが翻る。おそらく、観衆が初めて聴く幻想的な音色であったことだろう。観客は誰も動かず、それを見つめ、聴き入っていた。
 三十分近くが経ち、上流から流された幾百、千の橙色の灯篭が、瘻鶴湖に入り、竹林の立つ桟橋の周囲を漂い、湖面の一面に広がってゆっくりと流れていく。そして暗転、最後に尺玉が上がった。拍手や口笛がなり、それはなかなか止まなかった。…こうして祭りは終わった。

 これが1987年の夏であった。その後、プロデューサーの上田氏は大変だったであろう。
 翌年、私は雑誌の「アクロス」に「犀川国際アートフェスティバル」の記事を見つけた。
「1987年に行われたイベントの中では、犀川国際アートフェスティバルが最も突出していた。」

                                                       

器用貧乏?

2016年09月14日 | エッセイ
           

 平成五年(1991年)に、田端文士村記念館のオープニング時のイベントを依頼された。田端文士村記念館の名称だが、当時の館内の主たる展示を見渡せば、それは芥川龍之介記念館に等しかった。
 私はここで、手話ひとり語り(ボディランゲージ)で世界オンリーワンの活動をされていた丸山浩路さんのパフォーマンス公演を提案した。彼はよく舞台で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「藪の中」を演じていたからである。
 その際の音楽効果、伴奏は横笛奏者の横田年昭さんであった。横田さんはもともとジャズフルーティストとして知られていたが、伊豆の稲取に移り住み、作務衣を着て、飄々とした仙人のようであった。彼は裏の竹林の竹で笛を作り、窯で土笛を焼き、時にアボリジニのディジュリドウを演奏していた。
 この丸山浩路さんの「蜘蛛の糸」「藪の中」の手話一人芝居と、横田年昭さんを幕開けにやったのである。

 このイベントの実施にあたり、何回かオープン前の記念館に伺ったのである。実はそのとき、恥ずかしながら小杉放庵の名を初めて知り、田端文士村の形成を知ったのだ。
 明治三十三年、小杉国太郎(放庵)が最初に田端に住み始める。入会し指導を受けていた洋画会に通うのに都合が良い場所ということだったらしい。この小杉放庵は、強い磁力、引力を持った人物らしく、次々に文人や陶芸家、俳人、画家や詩人たちが、吸い寄せられるように田端に住み始めたのだ。
 田端文士村は、小杉放庵がここに住み始めたことで形成されていくのである。小杉放庵の友人たちは、彼と気のおけぬ話をしたい、あるいは芸術論をしたい、あるいは彼と酒を飲みたいなどの理由で、集まり始めたのかも知れない。

 私がこのイベントをやった頃、小杉放庵は一般にはほとんど知られていなかったのである。印象としては、放庵は「器用貧乏」なのではないかと思われた。作家が作風・画風を変えたり、新しいものに挑戦することはよくあるのだろうが、小杉放庵は作風・画風をよく変えたと思われる。そして画号(筆名)も三度変えた。
 彼は最初、小杉未醒を名乗り、洋画家であった。次に小杉放菴を名乗り、日本画家となっている。さらに小杉放庵と変え、後年は南画を描いている。

 小杉放庵は明治十四年、日光の二荒山神社の神官で国学者の小杉富三郎の子として生まれた。本名は国太郎である。父の富三郎は後年、日光町長も務めた。
 国太郎は地元の洋画家の弟子となるが、勝手に上京し白馬会洋画研究所に入るも、病を得て帰郷。また上京を繰り返した。
 明治三十三年、小杉国太郎は田端に移り住んだ。明治三十六年、放庵は国木田独歩と出会った。彼は独歩の主宰する「近時画報社」で挿絵や漫画を描いた。
 明治三十七年から未醒の号で太平洋画会に出品し、画家として評価を得た。
 日露戦争が始まると近時画報社の従軍記者として戦地に赴き、迫力に溢れた戦争画を描くとともに、漫画的な絵も描き人気が出た。
 彼はユーモア画(漫画)も描き、ロゴデザインも制作している。漫画は岡本一平に影響を与えたと言われている、また後年、田端に住居した田河水泡にも多少の影響を与えているのかも知れない。安田講堂の壁画を手がけ、洋画と日本画を融合させたものだと言われ、高い評価を得ている。また放庵は都市対抗野球の「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
 小杉放庵はテニスや野球、空手など多彩なスポーツや趣味をたしなんでいる。野球については、田端に移り住んだ正岡子規とも語り合ったかも知れない。「ポプラ倶楽部」という芸術家の社交倶楽部を作り、テニス大会を開催した。
 また彼は押川春浪が主宰する「天狗倶楽部」という社交団体にも参加し、日本のテニスの振興に大きな功績を残した針重敬喜とダブルスを組んで、東日トーナメント(後の毎日テニス選手権)にベテランの部に出場して優勝を果たしている。本格的なテニスプレーヤーだったのである。
 しかし彼は何と強い磁力、引力を発していた人であったろうか。大正時代になってからだが、あの夭折したデカダンの天才画家にして放浪の詩人・村山槐多は、小杉放庵の田端の家に転がり込んでいる。放庵は村山槐多のような凶暴な魂さえも魅了したのであろう。
 
 田端文士村記念館のイベントから二、三年後であろうか、たまたま読んでいた本の中に、小杉放庵の名を見つけた。山口昌男氏が「『敗者』の精神史」の中に「小杉放庵のスポーツ・ネットワーク」を書いていたのである。その章のサブタイトルは「大正日本における身体的知」というものであった。その冒頭は「小杉放庵復活」である。少し長いが引用したい。

「時代は小杉放庵(未醒)の復活へと向かっている。小杉放庵と親密な関係を結び、放庵と仕事の上で緊密な協力関係にあり、芸術的にも近い様式の持ち主であった画家たちの回顧展が目につくようになっている。一九九三年夏、国立近代美術館で回顧展が展開されている小川芋銭が、その最もよい例である。
 正直言って小杉放庵は、近代日本絵画史の中では評価が低いというわけではないが、特に高い位置が与えられているとも言い難い。美術全集に収まることは少ないし、戦後も小杉放庵についての著書は二冊あるだけである。
 しかしながら、その生涯が明治、大正、昭和(戦後)にまで相わたっていること、日光の山奥と都市的感性、洋画と日本画、漫画と芸術絵画との橋渡し、国木田独歩、田岡嶺雲、大町桂月、内藤鳴雪(俳人)、沼波瓊音(俳諧研究者)、押川春浪ら、ポプラ倶楽部と称するスポーツ任意団体の結成、山本鼎の信州における農民美術研究所への協力等々、その同時代へのかかわり合い方は、今日我々を刺激してやまないものに満ちている。つまり小杉放庵は明治から大正にかけて一個の魅力ある多彩なメディアであった。」

 そうだ、小杉放庵という存在そのものが、芸術とスポーツの、気のおけぬ、かつ最新の、本格的なメディアだったのだ。

 それからからまた数年後のある日、友人の美術キュレーターから、「小杉放庵を知っているか?」と尋ねられた。私は田端文士村の話や、山口昌男の「『敗者』の精神史」の話をした。
 私は彼から日光にオープンする「小杉放菴記念日光美術館」の相談を受けた。また館内に流される映像制作物に関するアイデアを求められた。今は記憶も曖昧だが、流れ落ちる滝と滝壺の猛烈な飛沫が、いつしか小杉放庵がいた風景やその作品、彼が関わったスポーツ、あるいは彼の周辺の人物たちの映像とオーバーラップしていく、というようなプランを提示したと記憶する。二荒山神社の朱色、深い樹木、そして柔らかな風光、柔らかな南画…ユーモラスなコマ絵。

 だいぶ以前NHK教育の「新・日曜美術館」で、パリ在住の画家・小杉小二郎を紹介していた。小杉小二郎はフランスではとても評価の高い人気画家ということであった。その番組で彼が小杉放庵の孫であると知った。
 私は相良眞児郎という写真家とだいぶ以前から何度も一緒に仕事をしてきた。彼は子猫の写真を得意とし、「かわいい子猫のヨーロッパ旅行」などの写真集で知られていた。その写真展などをやってきたのである。
 ある日、彼と雑談するうち、私はたまたま小杉放庵について話をした。すると彼は驚いたような顔をした。そして「小杉放庵は僕の祖父です」と言ったのだ。私も驚いた。彼とはそれまで二十年以上の付き合いになるのに全く知らなかったのだ。私がNHK教育の「新・日曜美術館」で放庵の孫・小杉小二郎を紹介していたという話をすると、相良氏は「従兄弟です」と言った。それはそうだろう。
 ある時テレビの「なんでも鑑定団」を見ていたら、小杉放庵の絵が登場した。その絵は本物と鑑定され、驚くような値がついていた。しかし、小杉放庵の名と業績は、日光では知られているだろうが、一般には未だ知る人ぞ知る存在なのではなかろうか。

     

エッセイ散歩 漂泊の人

2016年09月11日 | エッセイ
                                                             

 私はヘビが嫌いである。特に毒蛇は大嫌いだ。しかし以前はよく百貨店で「世界のヘビ展」「世界の毒ヘビ展」「大爬虫類展」などという、とんでもないイベントが行われていた。後に私はハキイ(波木井)イベント研究所というイベント会社と知り合ったが、この会社が「ヘビ展」をやっていたのである。

「男はつらいよ」のフーテンの寅こと車寅次郎は、実は奄美大島でハブに咬まれて死んだのである。
 渥美清はTBSで青島幸男(後に中村嘉葎雄も加わる)と交互に「泣いてたまるか」に主演し当たりをとった。そのとき知り合った松竹の山田洋次監督と、フジテレビのドラマ「男はつらいよ」をやることになった。
 これは昭和43年、44年に放映され、非常に評判が良く、渥美清は絶好調であった。しかしその最終回、山田洋次は寅次郎をハブに咬まれて死ぬという形で終わらせたのである。寅次郎の舎弟分の裕次郎(佐藤蛾次郎)が、柴又の寅次郎の妹さくら(長山藍子)にその死を伝えに帰るのである。
 その最終回は非常に評判が悪く、フジテレビには抗議の電話や手紙が殺到したらしい。山田洋次は寅次郎を映画で再登場させることにした。それは大ヒットしシリーズ化された。しかし今度はどう終わらせるか迷ううちに48作まで続き、この記録的シリーズは渥美清の死で終わった。
 車寅次郎は放浪と漂泊の人であった。
 ここまでが落語で言う枕である。

 明治二十六年(1893年)五月、青森県弘前城下に暮らしていた笹森儀助は、南西諸島(沖縄や奄美)の探検の旅に出るにあたり、家族と別れの水盃を交わした。
 当時の南西諸島は疫病(マラリア)や毒蛇(ハブ)という危険な島なのであった。ハブに咬まれ無事に戻れないことも考えられた。彼は家人に自分の遺体を東京帝国大学病院に、医学研究のために献体するようにと言った。ハブに咬まれて運良く助かっても、体が不自由になることも考えられた。
 笹森儀助は、間もなく五十歳になろうとしていた。痩躯で、顎髭にも白いものが目立っていた。
 笹森儀助は弘化二年(1845年)に弘前藩士の子として生まれた。藩校の稽古館に学び青森県庁に勤め、中津軽郡長も務めた。その頃の笹森の言葉である。「私が役人となってつとめているとき、心をくだいていることは、ただ民権を守るという一点だけである。」
 しかし笹森の民権は、当時流行の自由民権ではなかった。彼はむしろ自由民権運動には反対の保守派であった。笹森の民権は人間の土地の生活に根ざした「民権」なのである。例えば「入会山」の権利という民権である。
 明治十四年に彼は突然辞職した。笹森は当時の青森県令が、自由民権運動の団体と対立する笹森らの保守派団体を合同させようとしたことに、大反発したのであった。彼はともに辞職した者たちと共に、牧場を運営する農牧社の経営にあたり、後に社長となった。
 しかし彼は「貧旅行」と称する旅に出た。旅費は十年間にわたり、十銭、二十銭と蓄えたものだという。
 各地の生産力やその生活をその目で調べ、地租軽減地価修正論を実地に確認しようというのである。また彼は近畿地方や九州まで歩き回り、各地の神社や古墳まで調べた。もともと彼は経営者というより、その本質は民俗学者的な冒険の人だったのだろう。笹森は「貧旅行記」を残した。

 笹森は農牧社の社長を辞し、陸羯南の助言を受けて軍艦磐城に乗り込み、千島列島の探検に出た。先行していた片岡利和探検隊と合流し、択捉島、占守島、幌筵島などの風土を探検した。相当危険に満ちた旅だったらしい。彼は土地の古老などに話を聞き、それらを「千島探検」にまとめた。彼の関心は「北辺の防備」だったのである。
 笹森は井上馨に面会した折、日本の製糖事業振興のために南島を調べて欲しいと頼まれた。彼は了承した。笹森の関心は「南の島々の国防上の価値」であった。彼より先に沖縄諸島を探検していた植物学者の田代安定の話を聞きに行った。そのとき田代はマラリアに罹患してからいまだ回復せず、危険な状態が続いていたのである。笹森は死を覚悟した。彼は再び陸羯南の助言を受けた。

 明治十二年、沖縄は琉球処分を受けて日本の版図に組み入れられていた。琉球は独立国だった頃から中国との交易を行ってきた。経済、文化と、心情的には日本より清国に親しみを持っていた。特に宮古群島、八重山群島の人々は、寛永十四年からずっと人頭税という島津藩の悪法に、二百数十年苦しめられてきたのである。
 笹森儀助は宮古島で、住民たちの役人たちへの憎悪を目の当たりにした。住民たちの暮らしぶりは悲惨であった。まるで、懲役人、奴隷であった。八重山諸島はマラリアが猖獗をきわめていた。彼が目にしたのは死滅した廃屋となった村々であった。西表島もマラリアの島であった。
 
 笹森は東京に帰還し「南嶋探検」を著し、ここで惨状の主たる要因を人頭税として、政府の沖縄行政の無策、無能を批判し、その廃止を訴えた。彼は数字を挙げて例証している。この書が人頭税廃止運動につながり、この非道の悪法は明治三十六年になって廃止された。
 笹森は南嶋から帰った翌年、奄美大島の役人の頭「大島島司(おおしまとうじ)」に任命され、三番目の娘を伴って赴任した。自分が死んだ際、娘に遺骨を持って帰ってもらおうという配慮からであった。何と言ってもハブの島である。
 奄美大島はもともと琉球国の一部であったが、慶長年間に島津藩に奪われ、明治後は鹿児島県に含まれた。島には鹿児島の商人が入り込み、島民に対してかなり横暴であった。笹森は常に島民の側に立ったため、この鹿児島人たちに憎悪され続けた。笹森はこの間、視察先で暴風雨に曝され、また病にも倒れている。大島島司を四年間務めた後、辞めてしまった。
 その後また軍艦に乗り込み、朝鮮の海岸沿いを踏査し、さらにシベリアを旅行しハバロスクに行った。さらにロシア、中国、朝鮮の国境を調べて歩いた。
 日露戦争の前である。あの軍事探偵・石光真清が、ニコリスク近くの汽車の中で笹森儀助に出会ったことを記録している。放浪と漂泊の人、石光真清は、笹森儀助の異風をこう活写した。
「私はその風体を見て、おもわず微笑した。ところどころ破れて色の冷めたフロックコートに、凹凸のくずれかかった山高帽をかぶり、腰にはズタ袋をぶらさげ、いま一つ大きな袋を肩からななめにさげていた。しましまのズボンにはカーキ色のゲートルを巻き、袋の重みを杖に支えて入ってきたのである。」

 帰国後の彼は第二代の青森市長になり、銀行の監査役にもなった。また私立青森商業補修夜学校を設立し、校長にも就任した。しかしその晩年は不遇であったという。彼は寡黙な人で、ほとんど自分のことを語らなかったらしい。その後、彼の存在も業績も埋もれ、地元の青森でも長らく忘れられた人となった。
 笹森儀助は放浪と漂泊の人であった。

                                                               

青い目の人形 〜掌説うためいろ余話〜

2016年09月08日 | エッセイ

「青い目の人形」は1921年(大正十年)「金の船」十二月号に発表された。

   青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
   日本の港についたとき 一杯涙をうかべてた
   「私は言葉が分からない 迷子になったらなんとしょう」
   やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ
   仲よく遊んでやっとくれ

 野口雨情のテーマは「国際愛」である。本居長世が優しい曲を付けた。
 その後レコード化され、日本中に知られる童謡となった。実はこの歌はアメリカの日系人社会でも歌われたのである。
 大正十二年九月に関東大震災が襲った。世界中から救援募金や救援物資が集められ、日本に送られた。アメリカでも日系人を中心に募金運動が起こったが、そのときに「青い目の人形」のレコードが掛けられた。アメリカから寄せられた募金額や救援物資が一番多かった。
 このときの返礼として音楽家などで答礼使節団が組まれ、本居長世を団長にハワイとアメリカの西海岸でコンサートを開き、支援の謝意を伝えた。長世は二人の娘みどりと貴美子を伴い、彼女たちに童謡を歌わせたのである。

 その後、アメリカ国内に排日運動が起こり始めた。アメリカの日本や中国からの移民に対する黄禍論は度々繰り返されてきた。日露戦後にも黄禍論と黄色い移民の排斥運動は起こった。彼らがアメリカ人から仕事を奪っているというのである。暴動も散発し日米関係は悪化していった。
 シドニー・ルイス・ギューリック博士は、この国内の排日・排斥運動、移民制限に心を痛めた。彼は宣教師として1888年(明治二十年)から通算二十数年を日本で暮らし、布教と教育活動に当たった親日家である。
 博士は童謡「青い目の人形」を思い出した。救援募金の時に流れていた歌であり、その後に本居長世の娘が歌っていた「青い目の人形」である。日本には雛祭りという、女の子の健やかな成長を祝うお祭りがある。関東大震災で人形を失った子どもたちも多かろう。日本の女の子、子どもたちにアメリカの人形を贈ろう。「国際親善や、人と人との理解は子どものうちから」「世界の平和は子どもから」だ。
 ギューリックはかねてから昵懇の渋沢栄一に仲介してくれるよう手紙を出した。渋沢栄一もアメリカの移民制限、排日、排斥運動と、日米関係の悪化を憂慮していた。彼はギューリックに共感し、自ら動くことにした。
 渋沢は明治十二年に来日した前大統領のグラントを飛鳥山の自邸に招いたり、明治三十五年の欧米視察の際にテオドア・ローズヴェルト大統領に面会している。彼は第一級の民間経済外交家であった。明治四十二年には渡米実業団の団長として渡米、大正十年にも二度渡米している。
 ギューリックらを中心に世界児童親善会が結成され、日本に人形を贈るプロジェクトが動き始めた。
 まず友情人形を募るポスターや手引きの冊子「お人形が親善のメッセンジャー」を配布した。日本の子どもたちに人形を集めて贈るためのマニュアルである。教師らは人形を介しての親善・友好の意義を、子どもたちに話し、また日本に着くまでの道のりや、日本の文化などを紹介した。
 バザーやパフォーマンス公演で資金集め、決まったサイズの人形の購入、日本へ送るための旅券の手配、女の子と母親たちは人形の衣装や付属品を手作りし、それを着せた。人形にはそれぞれ名前が付けられ、それに友情の手紙も添えられた。世界児童親善会は人形旅行局を特設し、人形を日本に贈るための手続きの代行を行った。
 このプロジェクトに携わったアメリカの児童、保護者、教師、関連団体等の人たちは、約260万人という。
 こうして1927年(昭和二年)に、アメリカからパスポートと渡航切符と手紙付きの人形が、その年の雛祭りに間に合うようにと贈られたのである。
 その数は一万三千体である。その多くはビスクドールで、横たえると目をつぶり、お腹のあたりを押すと「ママ」と言葉を話す仕掛け人形だったという。第一陣として一月に八百体が先に送られた。

 日本側では渋沢栄一の肝入りもあり、文部省や外務省も動き、日本国際児童親善協会が組織され、それらの省から役員が選ばれた。先に届いた人形は、都内の五ヶ所の百貨店で「青い目の人形展」として大評判となった。
 三月三日の雛祭りの日に、東京千駄ヶ谷の日本青年館と、大阪市中央公会堂で人形の歓迎式典が行われることになった。それに先立ち、日本放送協会は高野辰之に「人形を迎へる歌」の作詞を依頼し、東京音楽学校が作曲を担当した。
 青年館には都内の各小学校の代表児童や、日米関係者など二千人が集まった。
 アメリカの少女が日本側の児童代表の少女に人形を手渡すときに、マクベー駐日大使が傍で挨拶に立ち、「自分は痩せているからサンタクロースに似てないが、幸福と愛情を届ける友好の人形を日本のお嬢さんたちに贈ります」と言った。そのとき共に壇上に並んでいた渋沢栄一は「では八十八歳の私がサンタクロースになって貴い意義あるお人形さんを、日本の少女たちに配ります」と言葉を添えた。彼は丸々と太っていたため、会場は爆笑と拍手で沸いた。
 その後、高野辰之作詞、東京音楽学校作曲の「人形を迎へる歌」が演奏、合唱されたのである。

   海のあちらの友達の まことのこもってる 
   かはいいかはいい人形さん
   あなたをみんなで迎へます

   波をはるばる渡り来て ここまでお出での人形さん
   さびしいやうにはいたしません
   お園のつもりでゐらっしゃい

   顔も心もおんなじに やさしいあなたを誰がまあ
   本当の姉妹と 思はぬものがありませう

 こうして、親善使節の人形たちは全国各地の幼稚園や小学校に配布されたのである。
 それにしても「人形を迎へる歌」は、作詞までの時間がなかったとは言え、あの高野辰之でもやっつけ仕事をしてしまうのか。題名も良くない。
 曲はどんなものか全く知らない。日本放送協会はその歌を何度か全国放送で流したと思われ、また各学校に人形が配布された際の式典でも、各校の児童たちによって歌われたと思われるが、その後誰も歌わなくなったのである。
 今でも歌われ続けているのは、野口雨情作詞、本居長世作曲の「青い目の人形」ばかりである。

 さて、アメリカから贈られた人形の親善使節に対する答礼として、渋沢栄一や日本国際児童親善会などの呼びかけで、人形を受け取った幼稚園や小学校の親たちからも募金し、市松人形を送ることになった。五十八体が選ばれ、各県にちなんで、台座部分に例えば「ミス島根」「ミス静岡」とかを彫って入れた。それらは青年館で壮行会を開かれ、ホノルルに旅立ち、やがてサンフランシスコに送られて、二手に分かれて全米で巡回展示されたらしい。その後は各地の博物館や美術館に収蔵されていったという。

 昭和十六年、十二月に真珠湾攻撃があり、日米は開戦した。ギューリック博士は驚愕し、悲しんだ。同志の渋沢栄一は、すでに十年前、この悲劇を見ずに鬼籍に入っていた。
 昭和十八年の毎日新聞は「青い目をした人形憎い 敵だ許さんぞ仮面の親善使」と出した。文部省はアメリカの親善使節人形を贈られた幼稚園や小学校に対し、その廃棄、焼却を求めた。学校によっては、子どもたちに人形を竹槍で突かせて破壊した。戦争ほど人を狂わせるものはない。戦争ほど愚かなものはない。
 雨情、長世の「青い目の人形」「赤い靴」を歌うことは禁止された。
 山田耕筰は演奏家協会を設立し会長となり、ナチスをモデルに演奏家協会音楽挺身隊を結成しその隊長ともなった。彼は皇道翼賛と国家主義を鼓吹し、戦地への慰問活動や戦意高揚の音楽活動に積極的でない音楽家たちを「楽壇の恥辱」と激しく罵った。「平和的な音楽は葬られるのが当然」「戦争に役立たぬ音楽は要らぬ」「全日本の音楽関係者が欧米模倣の域を脱却し、皇道翼賛の至誠を尽くすべき」と吠えた。
 雨情は茨城県の田舎に疎開した。詩人は戦争には無用の存在とされた。気力も失せ病を得た。食うにも事欠く日々を送り、終戦前に亡くなった。長世は「楽壇の恥辱」に甘んじ、音楽活動から身を引いた。彼は終戦を迎えたが病を得て、気力も失い、その一月後に亡くなっている。

 ちなみに、大正十年「金の船」十二月号に発表された際は「青い目の人形」だったが、いつしか「青い眼の人形」になっている。これは意図的な改題ではあるまい。そこまで意識はされておらず、印刷上そうなってしまったのではなかろうか。また、雨情もこだわっていなかったのではなかろうか。現在は童謡が「青い眼の人形」、アメリカ人形の親善使節が「青い目の人形」と表記されるらしいが、その経緯や理由は知らない。また興味もない。