芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

加藤省吾と海沼實

2016年09月28日 | エッセイ
                                                              

 海沼實は才能にあふれ、自身仕事が早く、また上質な曲を数多く手がけた。その仕事の手早さや上質さを、他者にも要求した人かもしれない。もちろん、その方たちの才能や質を、海沼が信頼していたからに違いないが。

「スグオイデコフ カイヌマ」の電報に呼ばれた斎藤信夫は、千葉の成東町から急ぎ上京し、海沼の家を訪ねた。それは芝であったろうか。その頃の海沼は自分が歌唱指導する音羽ゆりかご会の童謡歌手・川田姉妹の家の二階に暮らしていたらしい。
 海沼はJOAK(NHK)ラジオの依頼で、「外地引き揚げ同胞激励の午后」という特別組のために曲をつくるのだが、その詞を斎藤の「星月夜」にしたいと言った。そして新しい三番の詞を書いてくれという。
 聞けば、12月の24日の1時半ころに、最初の復員兵を乗せた船が浦賀に入港するので、彼らを迎えるため、1時45分からの現地生中継放送になるのだという。
 船が接岸し、船を降りた将兵たちを前に「引き揚げ援護局」の偉いさんが挨拶し、その後、海沼のピアノを伴奏に少女歌手の川田正子の歌で、そのご苦労を慰め、励ますという。海沼はすでに「星月夜」に曲を付けていたのに違いない。
 しかし海沼が局からの要請を受けてから、詞を選び曲を作るまで十分な時間があったとは思えない。彼は手元のたくさんの詞の中から、記憶に残っていた詞を探し、「これだ」と決めたに違いない。
 おそらく海沼は斎藤に「こんな感じの曲を付けました」と、聴かせたのではないか。
 斎藤信夫は焦ったかも知れない。ほとんど時間がない。おそらく斎藤はその日は成東に戻らず、旅館に投宿して、そこで三番の詞を作ったのでないか。
 斎藤がその詞を渡したのが当日の朝である。ここで初めて海沼から「里の秋」に改題しませんか、と提案されたのだろう。そして、浦賀港からの生中継は回線故障のため、内幸町のスタジオからの放送に変更になったことを聞いた。
 彼らは(おそらく斎藤も同行したのではないか)川田正子を連れて、共に内幸町に行ったのではないか。局の担当者が、すぐにGHQの民間検問部の許可をもらいに走り、OKをもらってくるまでの間、海沼はいつものように川田正子の音域に合わせ、ワンフレーズごとに歌って彼女に教えた。この天才的童謡歌手はすぐに覚え、歌えた。
 まことに忙しい「師走」のクリスマスイブだったのだ。まあ当時はクリスマスイブなんていう時代ではなく、みんな飢え、生き延びるのに必死だったのだ。…私の勝手な想像まじりの「里の秋」の話である。
 ちなみに川田正子と音羽ゆりかご会のことである。昭和8年、海沼が音羽の護国寺の貫主・佐々木教純の共感を得て、寺内の一室を借り受け、児童合唱団の会をつくった。それを喜んだ海沼實の同郷(松代)で彼の恩師であった草川信が、自分の代表曲「ゆりかごの歌」を会歌として贈り、「音羽ゆりかご会」となった。川田正子とその妹の孝子、そして美智子の姉妹はそこから育ち、正子は童謡のスター歌手となったのである。

 築地市場最後のイベント、築地市場祭り「ありがとう築地」のステージで、童謡歌手の雨宮知子さんに歌っていただいた。その時に私から「必」としてリクエストしたのは、「かわいい魚屋さん」であった。それは歌っていただいたが、彼女がオープニングの曲に選んだのは「みかんの花咲く丘」であった。築地には青果市場もあり、それもいいだろうと思った。
「かわいい魚屋さん」は加藤省吾の作詞、山口保治の作曲である。そして「みかんの花咲く丘」の作詞も加藤省吾であった。

 加藤省吾が生まれ育った静岡県の大潟村(現富士市)は、高台に位置し、田子の浦が眺望でき、さらに駿河湾が霞みながらどこまでも広がっていた。
 田子の浦では、荒天や波の高い日を除けば、朝ともなると地曳網が引かれ、種類も豊富なたくさんの魚が獲れた。昼頃には、天秤の両端に魚を入れた籠を担いだ行商(振り売り)が、村々の家を回って歩いた。威勢良く「こんちわーす! 魚いかがです?」
 加藤省吾の家は十代続いた旧家で裕福だった。しかし父親が相場で失敗し、両親は四人の子を残して失踪した。兄弟も離散し、彼は富士宮の菓子屋の子守奉公に出され、その後に叔父の家に預けられた。辛い日々であった。しかし両親を恨む気持ちはわかなかったという。きっと、止むに止まれぬ事情があったのだろう…。
 昭和10年に東京に出て、薬屋に勤め、旋盤工になり、やがて印刷会社に就職した。自転車に乗って回る営業だったという。
 彼は以前から古賀政男作曲、島田芳文作詞の「丘を越えて」を聴いて励まされ、自分もああいう詞を書きたいと思い、詞を書いてはレコード会社に持ち込むようになった。
 しかしどこのレコード会社にも専属の作詞家がいて、流行歌を手がけていた。加藤はそれらの専属作詞家があまり手がけることのないジャンルの詞を書こうと思った。例えば童謡もいい、そうだ童謡を書いてみようと思った。
 ある日、自転車で回っているときに、庭先でゴザを敷いて「ままごと遊び」をする幼い子どもたちを見た。彼は着想を得た。このままごと遊びの中に、当時普通にあった「御用聞き」を入れよう、いや生まれ育った村でよく見た「振り売り」「棒手(ぼて)ふり」の魚屋さんを入れよう…。江戸時代の話に登場する一心太助も「棒手ふり」だ。その晩、彼が書いたのが「かわいい魚屋さん」である。

   一
    かわいい かわいい 魚屋さん
    ままごとあそびの 魚屋さん
    こんちわお魚 いかがでしょ
    お部屋じゃ子供の お母さん
    きょうはまだまだ いりません
   二
    かわいい かわいい 魚屋さん
    てんびんかついで どっこいしょ
    こんちわよいよい お天気で
    こちらのお家じゃ いかがでしょ
    そうねえきょうは よかったわ
   三
    かわいい かわいい 魚屋さん
    ねじりのはちまき はっぴ着て
    こんちわお魚 いかがでしょ
    大だい小だいに たこにさば
    おかんじょじょうずに いっちょにちょな
   
 昭和13年、「かわいい魚屋さん」はビクターから8インチ盤で出て、加藤省吾の初ヒットとなった。加藤省吾、23歳のときである。翌年に10インチ盤をつくると言われて収録スタジオに行った加藤は、「四番の詞を急いで書いてくれ」と言われた。本番録音の一時間前だったという。

   四
    かわいい かわいい 魚屋さん
    ままごと遊びの 魚屋さん
    こんちわお魚 売り切れだ
    まいどありがと ございます
    にこにこ元気で またあした

 そして加藤は消息も知れなかった両親と再会した。両親はずいぶん小さく見えた。彼には二人を恨む気持ちはなく、ただ生きて会えた喜びを素直に伝えた。
 やがて彼は印刷会社を辞め、音楽新聞社に入って雑誌の記者をしながら作詞も続けた。
 終戦後の昭和21年8月のまだ暑い盛りの頃である。加藤は月刊誌「ミュージックライフ」の編集をしていた。当時12歳の川田正子を取材に、芝の川田家を訪ね、そこで作曲家の海沼實にも会う約束をしていた。後に加藤は「運命の日」と言った。
「加藤さん、昼飯はまだだろ。お赤飯があるんだが、どうぞ召し上がれ」
 まだ昼には早かったが、お赤飯は滅多に食べられない時代だった。加藤は遠慮なくご馳走になった。食べている間に海沼が恐ろしいことを言った。
「加藤さん。実は正子が明日、静岡県の伊東市で、生放送のラジオ番組に出るのだが、その時に歌う曲がまだできていないんだ。これは東京のNHKのスタジオと伊東市の西国民学校の講堂をつないで、ラジオ初の二元放送をやるんだ。『空の劇場』という番組なんだがね。まあ、一回限りの放送なんだが…。今日の午後一番の列車で伊東に向かわなければならない。加藤さん、ちょうど良かったよ、詞を書いていってよ」
「ええっ〜」
 時計を確認すると猶予は30分もない。しかも海沼は加藤に注文を出した。
「伊東の丘に立って、海に浮かんだ島を眺めていると、黒い煙を吐きながら船が通っていく…。そんな情景を入れてほしいね…」
「…ぼくは静岡県の田子の浦を望む高台で育ちました」
「おお、いいねえ。それはちょうどいい」
 故郷の情景、なだらかな丘、みかんの木、みかんの可憐な白い花、海に浮かぶ島、沖を行く船を思い浮かべ、そして幼い頃の楽しい暮らし、母の笑顔も思い浮かべた。それは優しい母の顔だった…。戦争で母親を失くした子どもたちがたくさんいる。彼らの母親への想いも歌に託したい。
 加藤は20分で一気に「みかんの花咲く丘」を書き上げた。
 海沼はその原稿用紙をひっつかみ、正子の手を取って飛び出していった。列車の中で、海沼は加藤の詞を読み、曲を作っていった。列車は八分の六拍子で伊東に向かった。

   一
    みかんの花が 咲いている
    思い出の道 丘の道
    はるかに見える 青い海
    お船が遠く かすんでる
   二
    黒いけむりを はきながら
    お船はどこへ いくのでしょう
    波にゆられて 島のかげ
    汽笛がボウと なりました
   三
    いつか来た丘 母さんと
    いっしょに眺めた あの島よ
    今日もひとりで 見ていると
    やさしい母さん おもわれる

 伊東の旅館に着くと、海沼は東京のNHKの担当者に電話かけ、加藤の詞「みかんの花咲く丘」を書きとらせて、すぐにGHQ民間検問部の許可を取るよう伝えた。そして正子に列車の中で作ったメロディーを教えた。旅館の海沼に、GHQ民間検問部の許可も出たという電話が入った。…
 翌日、正子は海沼が自分の名刺の裏に書いた詞を見ながら、間違えないように歌ったという。
 やがて「みかんの花咲く丘」は大ヒットした。
 それが契機となって、加藤はコロムビアレコードと専属契約を結んだ。その後にキングレコードに移籍し、子ども向けのテレビ番組「隠密剣士」や「怪傑ハリマオ」などの主題歌を書き、それも大評判になった。
 そして加藤は年老いた母を引き取り、その最後を看取った。

                                                                 

中山晋平の音楽世界

2016年09月26日 | エッセイ
   

 NHKの紅白歌合戦は、当初から年末に行われていたわけではない。第1回も2回も、1月3日に東京放送会館の第1スタジオを使い、夜の7時半から9時までの一時間半の生放送だったのである。第3回は1月2日に放送されている。
 この昭和27年の第2回紅白歌合戦の審査委員長は中山晋平だった。
 この年の秋、黒澤明の「生きる」(東宝製作・配給)が発表された。東宝創立20周年記念映画である。志村喬がブランコを揺らしながら「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンは有名である。この映画はその後、第4回ベルリン国際映画祭で、ベルリン市政府特別賞を受賞し、第26回キネマ旬報ベスト・テンの1位、昭和27年度芸術祭賞を受賞した。

  一
   いのち短し 恋せよ乙女
   あかき唇 あせぬ間に
   熱き血潮の 冷えぬ間に
   明日の月日は ないものを
  (映画では「明日という日も/ないものを」と歌っている)
  二
   いのち短し 恋せよ乙女
   いざ手をとりて かの舟に
   いざ燃ゆる頬を 君が頬に
   ここには誰れも 来ぬものを
  
 大正4年4月、島村抱月と松井須磨子の芸術座が、ツルゲーネフの「その前夜」をかけた時に、その劇中歌が「ゴンドラの唄」で、中山晋平作曲、吉井勇の作詞だった。この歌は大ヒットした。
 …それから37年も経った。昭和27年の12月1日、晋平はこの「生きる」を恵比寿駅前の映画館に見に行き、あまり座り心地のよくない客席に身を沈め、志村喬の唄う「ゴンドラの唄」を聴いた。
 その翌日、晋平は倒れた。病院に運び込まれ診察を受けると、彼は膵臓癌に冒されていた。晋平は自宅のある熱海の熱海国立病院に運ばれて治療に入った。しかし年の瀬の30日に、その生涯に幕を閉じた。

 中山晋平は、明治20年、長野県下高井郡新野村の代々名主の家の四男として生まれた。父は村長も務めた。晋平は幼い頃から、近くの新野神社に奉納する式三番叟の笛役に加わった。「ほう」と周囲の大人たちが感心した。晋平の音楽の才であろう。
 日清戦争が始まった頃、中山家を相次いで不幸が襲った。父と長兄が亡くなったのである。家の暮らしは急迫した。母ぞうは残された四人の子どもを育てることになった。晋平は下高井高等小学校に進んだ。音楽好きで、先生にオルガンの弾き方を教えて貰った。しかし、満足に学費が払えずに中退せざるをえなかった。彼は小諸の呉服店に奉公に出て家計を助けたが、母と別れた淋しさから店を辞め、家に戻って来てしまった。
 母は晋平を復学させ、働きづめに働き、彼を卒業させ、さらに長野県師範学校講習科第三種に進学させた。晋平は無事修了すると、瑞穂村柏尾尋常小学校の代用教員になった。16歳である。
 彼は子どもたちに音楽を教えることに喜びを感じた。子どもたちも彼を「唱歌先生」と呼んだ。準訓導になったが、どうしても本格的に音楽を学びたいと強く思うようになった。
 縁あって、島村抱月の実弟に嫁いだ北信濃出身の女性から、早稲田大学教授の島村抱月が書生を求めていると聞いた。耳よりな話である。抱月はイギリス、ドイツ留学から帰国したばかりであった。晋平は兄弟から反対されたものの、母の後押しもあって上京し、抱月の家を訪ね、彼の面接を受けた。
 こうして晋平は抱月の書生となり、家事全般から雑用、論文の清書、「早稲田文学」の編集助手まで、なんでもやることとなった。
 その間、事あるごとに抱月は「大衆なくして芸術は存在しえない」と晋平に言い聞かせたという。やがて抱月は晋平の音楽の夢を叶えるべく、洋楽家の東儀鐡笛の書生になることを勧めた。抱月と鐡笛は親しく、家もごく近所だった。晋平は鐡笛の書生となった。鐡笛は晋平にヴァィオリンを教えた。
 再び抱月の家に書生として呼び戻された晋平は、彼から金を借りて中古オルガンを買い音楽の勉強を続けた。明治41年に晋平は東京音楽学校予科に入学した。さらに本科ピアノに進級し、たまたま同郷の先輩・高野辰之から、歌謡史を学ぶ機会も持った。
 卒業後、浅草区の千束尋常小学校で音楽教師となったが、学校へは抱月の家から通った。
 
 時代は大正に入った。この頃、晋平は三角関係に巻き込まれる。それは師の抱月と芸術座の看板女優・松井須磨子、抱月の妻の三角関係である。抱月の妻は、晋平に二人について探りを入れさせるのである。これが晋平の心を悩ませた。やがて夫人は抱月と須磨子の現場を押さえ、一悶着あった。晋平はうんざりした。
 大正3年、芸術座は第三回公演にトルストイの名作「復活」をかけた。抱月は晋平にその劇中歌「カチューシャの唄」の作曲を命じた。作詞は抱月と相馬御風によるものである。
「カチューシャの唄」は松井須磨子の独唱で、大評判となった。このデビュー曲で、作曲の中山晋平の名は一挙に知られたのである。晋平27歳であった。
 晋平の曲の特徴は「ヨナ抜き」と「ピョンコ節」である。つまり西洋音楽の七音音階からファとシを抜いた五音音階が活かされており、またスキップしたようなリズムなのである。
 翌年4月、「ゴンドラの唄」で再び大評判をとった。その成功の直後、母のぞうが亡くなった。母の葬儀から戻る車中、その悲しみが晋平にひとつのメロディを口ずさませた。それが「生ける屍」の劇中歌「さすらいの唄」となった。作詞は北原白秋である。これも大ヒットとなった。
 大正7年の11月、師の島村抱月が大流行のスペイン風邪で亡くなった。その二ヶ月後に、悲しみにくれた松井須磨子が自殺し、芸術座は消滅した。

 中山晋平は北原白秋や野口雨情と組んで、童謡に曲を付けるようになった。これらも評判となり、晋平は千束尋常小学校を辞め、作曲に専念することにした。白秋や雨情とは童謡に限らず、歌謡曲や新民謡も手がけた。白秋とは「砂山」「にくいあん畜生」「恋の鳥」「酒場の唄」「アメフリ」…。雨情とは「船頭小唄」「シャボン玉」「黄金虫」「波浮の港」「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」「雨降りお月さん」…。また西条八十ともコンビを組み、「東京行進曲」は佐藤千夜子の歌唱で大ヒットした。さらに東京音楽学校出身の声楽家たちとの仕事も増えていった。それにしても、中山晋平の音楽の幅は広く、大きく、なんと豊かなのだろう。

   一
    己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき)
    同じお前も かれ芒
    どうせ二人は この世では
    花の咲かない 枯れ芒
   二
    死ぬも生きるも ねえお前
    水の流れに 何変(かわ)ろ
    己もお前も 利根川の
    船の船頭で 暮らそうよ

 晋平と雨情は、その童謡に対する考えもほとんど一致し、また新民謡づくりでも一致した。晋平は野口雨情を心から敬愛した。

   一
    磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
    波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
    明日の日和は
    ヤレホンニサ 凪るやら
   二
    船もせかれりゃ 出船の仕度
    島の娘たちゃ 御神火ぐらし
    なじょな心で
    ヤレホンニサ いるのやら

 昭和に入った。軍靴の音が近づいてくる。やがて日中戦争が起こり、それが長引き、拡大していった。
 さらにアメリカとの戦端が開かれると、本居長世らと平和の同志であった野口雨情は失意のうちに、茨城に、さらに宇都宮の鶴田に疎開していった。
 山田耕作らが盛んに忠君愛国、戦意高揚の軍歌を作る中、本居長世は音楽活動を止めた。晋平は公的な役職は続けたが、軍歌は苦手で、ほとんど作曲しなくなった。そしてかねてから持っていた熱海の別荘に居を移した。
 晋平を衝撃が襲った。昭和20年1月、敬愛する野口雨情の訃報が入ったのである。晋平は慟哭したという。晋平はついに沈黙し、熱海に籠り、終戦を迎えた。…

   一
    ソソラ ソラ ソラ うさぎのダンス
    タラッタ ラッタ ラッタ
    ラッタ ラッタ ラッタラ
    あしで 蹴り 蹴り
    ピョッコ ピョッコ 踊る
    耳にはちまき
    ラッタ ラッタ ラッタラ
   二
    ソソラ ソラ ソラ 可愛いダンス
    タラッタ ラッタ ラッタ
    ラッタ ラッタ ラッタラ
    とんで 跳ね 跳ね
    ピョッコ ピョッコ 踊る
    あしに赤靴
    ラッタ ラッタ ラッタラ

 この雨情と晋平の「兎のダンス」は、聴くたびに思わず微笑んでしまう。まさに中山晋平の特徴とされる「ピョンコ節」の真骨頂だろう。

        

「里の秋」の話

2016年09月25日 | エッセイ
                                                              

 以前「童謡道〜掌説うためいろ余話〜」という短い文を書いた。童謡詩人の斎藤信夫における「童謡道」である。
 彼は童謡のための詩を書き始めてから、毎日一篇の詩を書くことを自らに課し、昭和六十二年にその生涯を閉じるまで、実に11,127の詩を書いている。
 明治四十四年に千葉の成東の農家に生まれたが、教育者であった祖父と同じ教職に進んだ。信夫は地元の尋常小学校の代用教員を振り出しに、一時休職して師範学校に学び、尋常小学校の訓導に復職し、一貫して教育の場に身を置いた。
 昭和七年に勤めた千葉市内の院内尋常小学校で、先輩教師の市原三郎との出会いをきっかけに、童謡の詩を書き始めたのである。
 彼が船橋市葛飾尋常小学校で教鞭をとっていた昭和十六年十二月八日、日米は太平洋戦争に突入した。斎藤信夫は、翌日から戦争童謡の詩を書き始めた。
 しかし彼は苦しんでいた。心に沁みる納得のいく詩はできないのだ。好戦的な歌ばかりでよいのだろうか。もっと兵隊さんを励ます、喜ばすような、子どもの歌はできないだろうか…。
 その年の十二月二十一日、彼は風も冷たい戸外に出て、幕張の夜空を見上げた。凍てついているせいか、星が結晶のようにキラキラと輝いていた。
 彼の教える生徒たちの中に、父親が戦地に行っている子もいる。子どもたちが戦地の父親に宛てて、慰問の手紙を書いているような詩はどうだろう。
「お父さんのご武運をお祈りしております。銃後の僕もお母さんを助け、お留守を守ります。大きくなったら兵隊さんになって、僕もお国を護ります。…」
 彼は家の中に戻り、机の前に座って、いつものように大学ノートに詩を書き始めた。脳裏に浮かぶ情景は東北の片田舎である。小学生の男の子が、戦地の父へ慰問の手紙を書いている。
 信夫は題名を「星月夜」とした。

  一
    しずかな しずかな 里の秋
    お背戸に 木の実の 落ちる夜は
    ああ 母さんと ただ二人
    栗の実 煮てます いろりばた
  二
    あかるい あかるい 星の空
    鳴き鳴き 夜鴨の 渡る夜は
    ああ 父さんの あの笑顔
    栗の実 食べては おもいだす
  三
    きれいな きれいな 椰子の島
    しっかり 護って くださいと
    あゝ 父さんの ご武運を
    今夜も ひとりで 祈ります
  四
    大きく 大きく なったなら
    兵隊さんだよ うれしいな
    ねえ 母さんよ 僕だって
    必ず お国を 護ります
 
 信夫は「星月夜」を、以前面会したことがある作曲家の海沼實に郵送した。しかし返信はなく、やがて彼もそのことを忘れた。戦争はいよいよ拡大しつつあり、またどうも戦局も厳しくなってきた様子が窺われる。
 斎藤信夫は真面目で熱心な教師だった。軍事教練も熱心にやった。子どもたちに「日本は神国、必ず勝つ」と教えた。「みんなでしっかり銃後を守ろう」と教えた。戦争はどんどん激しくなり、とうとう日本の都市上空に敵の爆撃機が現れ、空襲がはじまった。…斎藤信夫は敗戦を予期していた。その日が来たら教職を退く覚悟をした。そして昭和二十年八月十五日、日本は戦争に敗れた。
 斎藤信夫は学校に辞表を出した。子どもたちに嘘を教え続けた。彼の教師としての戦争責任をとったのだ。彼は幕張から成東に戻り、職探しをしていた。
 その年の十二月、「スグオイデコフ カイヌマ」という至急電報を受け取った。海沼實からである。
 海沼はNHKから復員兵を迎える歌を依頼された。彼は手元にある多くの童謡の詞の原稿に目を通し、その中から「星月夜」を選び出したのである。
 海沼は斎藤信夫に言った。
「一、二番はこのままでよいと思いますが、この三番、四番を削り、新たに戦地から戻って来る兵隊さんを迎える詞を書いていただけませんか」
 信夫が新たに三番の詞を書き、それを海沼に渡すと、彼は頷きながら言った。
「斎藤さん、『星月夜』では硬い感じがする。『里の秋』にしませんか」
 信夫は「里の秋」への改題を了承した。
 新しい三番の歌詞はこうである。

  三
    さよなら さよなら 椰子の島
    お舟にゆられて 帰られる
    ああ 父さんよ 御無事でと
    今夜も 母さんと 祈ります

 海沼の曲作りは早かった。その「里の秋」は二十四日には、NHKラジオの「外地引き揚げ同胞激励の午后」という番組で、少女歌手の川田正子が歌い、流された。その歌の放送は、一回かぎりの予定だった。しかしその歌は、わが子、わが父、わが夫、わが兄、わが弟の、無事な復員を待ちわびる多くの人たちの心を激しく揺さぶり、たちまち大反響を呼んだ。
 その日本全国からの反響を受けて、NHKは「復員だより」という番組で流し続けることにした。これこそ敗戦後の日本の国民の琴線に触れた歌だったのだ。
 しかし、すでに戦死を知らされた遺族たちは、この曲・歌を聴いて涙が止まらず、再び悲しみにくれたという。その便りを聞いた斎藤信夫は、三番はなくてもよかったと思ったという。戦争で家族を失った人たちの悲しみが心に突き刺さったのだろう。…今は三番の歌詞が歌われることはほとんどない。
 一年後、斎藤信夫は再び教職に復帰した。子どもたちに伝えたいことが、たくさんあったのだろう。


たった一文字

2016年09月22日 | エッセイ
                                                                                               

 展覧会やコンサートなど、パッケージ化されたイベントが多い。パッケージ化されたものなら、ひとつひとつの手作りや演出などを考える必要もなく、また調整や稽古にほとんど時間をかけないですむ。「○○展」などという展覧会も、パッケージ化されて全国を回る。コンサートもほぼ同じ。
 その点、落語家の師匠たちは偉い。噺はどこで演っても同じだが、その町にやって来て、会場までの町の様子を観察し、高座に上がって客席の様子や客の顔を見、話し始める。その「枕」は実にその日の、その町の、その客席の様子で異なり、しかも面白い。「枕」はパッケージ化されておらず、出たとこ勝負なのである。
 イベントでもパッケージ化されたものをそのままやるのは、何となく味気ない。私はひねくれているので、パッケージ化されているものでも、つい弄りたくなる。

 中山競馬場のイベント提案であった。場イベントであったか場外イベントであったか、その記憶は曖昧である。あまり予算もなかったように思う。イベントアイテムのひとつに、馬場内子どもの広場の特設ステージのために、キャラクターショーを仮押さえした。
「帰ってきたウルトラマン」である。ウルトラマンシリーズなら、そのままでも来場の子どもたちをステージ下に集めることはできるだろう。「帰ってきたウルトラマン」も人気があった。
 しかしイベントはコンペである。競合他社と何かしらの違いを示したい。キャラクターショーでも何か差異を示したい。またお客様をニヤッとさせたい、喜ばせたい。私は仮押さえしたイベントアイテムのタイトルをずっと眺めていた。…そうだ、たった一文字で印象を変えることができるのだ。
 私は仮押さえしたキャラクターショーを運営する会社に、お願いの電話を入れた。中山競馬場、そして当日限定で、タイトルを「帰ってきちゃったウルトラマン」と変えさせてもらえないかという相談である。
 当然円谷プロはダメだと言うだろう。ダメもとでお願いに行きたい。企画趣旨は私が話すから、一緒に円谷プロに同行してもらえないかとお願いした。私たちは成城の円谷プロにお願いに行った。
 円谷プロはOKしてくれた。「いいですか、今回だけですよ。今回だけ」と微笑みながら念を押された。「帰ってきちゃったウルトラマン」はイベント当日のその日限定。そのタイトルの露出する看板は中山競馬場内限定、チラシも地域と場内限定である。
 そして私たちのイベント提案は決定をもらった。
 
 当日来場した親子がイベントの案内看板の前で立ち止まった。子どもが指差した。「パパあれ! 『帰ってきちゃった』だって!」「ほんとだ」と父親が笑った。「これ見たい!」「うん、見よう」
 みんな看板を指差して笑う。にこにこする。「見ようよ」「見たい」と言う。
 馬場内子どもの広場の特設ステージ前の客席はすぐに一杯になり、立ち見が後ろまで広がった。私がそれまで競馬場でやったキャラクターショーでは、一番人が集まったのではなかろうか。みんな始まる前からニコニコしている。
 出演者の方たちが驚きの声を上げた。「すごい、ずいぶん集まりましたね」
ショーが始まると、司会のお姉さんがいつもよりハイテンションになっていた。悪漢が二、三人登場し、「おい、まずいぞ。ウルトラマンが帰ったきちゃった。」…客席が笑いで沸いた。キャラクターショーの登場人物の声も、効果音も音楽も録音済みのものである。しかし司会のお姉さんと、二、三の登場人物はマイクを使う(あるいは上手もしくは下手の袖で使う)。この方たちが台本にないアドリブをどんどん繰り出して客席を沸かす。
「帰ってきたウルトラマン」を「帰ってきちゃったウルトラマン」と、たった一文字変えただけで、子どもたちが喜び、つられて親たちも笑う。客席が沸き、出演者が愉快がり、パッケージ化されたショーを超えたのだ。そしてそれらが大いに受けたのである。
 イベント企画は、たった一文字の工夫で、変わるのである。

                                                                

イベントは物語をつくること

2016年09月21日 | エッセイ
         

 また、だいぶ以前のイベント企画の話である。中山競馬場のオールカマーの日の企画提案であったか。広告代理店の各社が中山競馬場の会議室に集められた。中山競馬場の庶務課の担当者がイベント提案に関するオリエンシートを配布し、説明をはじめた。
 期日、オールカマー当日の場イベント、予算などである。さらに「必ず実施していただきたいものは、千葉県の物産展、あとは各社の提案にお任せする。ただし、今まで中山競馬場で実施していないもの、やっていないアイテム、さらに中央競馬(JRA)のどの場でも実施していないアイテム、また地方競馬でも実施していないもの、本邦初のものをご提案ください…」
 居合わせたオリエン参加者は思わず全員顔をあげ、担当者の顔を見、また互いの顔を見合った。
 H堂の方が手を挙げて質問した。「これまで中山ではどんなアイテムをやられたのですか?」
「みなさんご存知のとおり、馬場内こどもの広場にフワフワなどの大型遊具、フワフワ滑り台、ミニSLや変わった面白自転車、おもしろ乗り物、キャラクターショー、歌のお兄さん・お姉さんのショー、車載型移動遊園地の回転木馬、海賊船とか…」
 D社の方も手を挙げた。「貴場と、他場でやったイベントの資料、イベントアイテムなどリストがあったらいただけないでしょうか?」
「わかりました。それでは今日中に各社にリストをファックスいたしましょう」
 会議室を出た各社はそれぞれ固まって廊下を歩いた。ぼそぼそと囁く声もする。事務所の外に出ると各社口々に言った。「もうみんなやり尽くされている。これは無理だね。」「どうします?」「本邦初のものか…」「まいったね」「今までやっていないものか」… 
 H堂の担当者が苦笑しながら言った。「もちろんプレゼンは参加するけど、うちは今回取れなくてもいいや」
 その時すでに何を提案すればいいか、私の中では決まっていた。しかし、それを口に出すのはギリギリまで控えることにした。

 競馬会のイベントに関して、私の事務所はTI社のパートナーとして組ませていただいていた。帰りの電車の中で尋ねられた。「フワフワって何種類ぐらいあるの? まだやっていない本邦初の遊具とかの情報ある? 車載型の移動遊園地で新しいやつはあるの? 予算的に無理か…」
 そして今後の会議や、進行と日程、どういう企画にするか等を打ち合わせた。
 案の定、中山競馬場から送られてきたファックスのリストを見れば、もう実施されていないイベントアイテムは無いのであった。私は毎日のようにTI社に出かけ会議を重ねたが、良案は全く出ず、いたずらに日が経つばかりであった。
 私はギリギリまで腹の中に決めたアイデアを言わなかった。私が会議に出すのはダミー案である。無論けなされる、反対される。すでに千葉県の物産(市)展に関しては、JA等に協力していただく裏は取っていた。また腹案のアイテムに関しても全て仮押さえをした。
 手詰まりから、とうとうTI社の担当者たちが言った。「H堂もD社もお手上げみたい。もう取れなくてもいいって言ってたよ。うちも今回取れなくてもいいや。もう時間が二日しかない。企画内容は全部あんたに任せるから、いちおう企画書作って。もう任せる!…」
 実はその言葉を待っていたのだ。早く提示すると反対されるからである。
「すみません、実はもう大体の企画はまとまっています」
「ええっ〜。どんなの?」
「今までやったものを全部やる!」
「ええ〜」
「と言うか、提案するアイテムは、すでに中山競馬場でも他場でも、過去にやったもの。それをあえて出す。フワフワ遊具、歌のお兄さん、キャラクターショー、ミニSL……」
「え〜…まあ、取るつもりないからいいけど…」
「今回、私たちはこれらのアイテムで、楽しげな物語(ストーリー)を提案しましょう」
「??」
「物語をつくりましょう」
 アイテムのひとつひとつには物語(ストーリー)がない。だから、それらをつなぐ物語をつくるのだ。

 当時、中央競馬会(JRA)にはシンボルキャラクターの「ターフィー」は生まれておらず、各場が可愛いシンボルキャラクターの絵をつくり、それを塗り絵やシール、ワッペンにしていた。中山競馬場は最も熱心で進んでおり、そのキャラクターを「ナッキー」と名付け、子どもたちに配布するワッペン、スケッチブックやキャンデーに反映していた。

 馬場内こどもの広場に「ナッキー共和国」をつくりました。競馬場の門の所で来場の子どもたちに「パスポート」を配布します。失くさないよう、それを首からかけてくださいね。パスポートには「ナッキー憲章」が書かれているので、みんなよく読んでね。「みんな仲良く遊ぶこと。遊具やSLに乗るときは整列しよう…」等です。みんなナッキー憲章を守ってね。またパスポートといっしょに、ナッキー共和国の地図(イベントアイテムやスケジュールが入ったチラシ)ももらってね。
 馬場内こどもの広場に行くにはトンネルを通らなければなりません。そのトンネルの入り口にナッキー共和国のゲートがあって、「入国」のためにはパスポートを提示してもらいます。そこでナッキースタンプを捺すよ。そこをスルーしてしまうと密入国となり、「国境警備隊」のスタッフのお兄さん、お姉さんに捕まります。でも改めてパスポートにスタンプを捺すよ。もし競馬場に入ったところでパスポートをもらっていない場合は、国境警備隊のお兄さん、お姉さんが渡してくれます。
 ナッキー共和国の初代大統領は、テレビでおなじみの「歌のお兄さん」です。歌のお兄さんによる「ナッキー共和国の建国宣言」もあるよ。
 さてナッキー共和国は三つの州があります。ひとつはフワフワ州で、巨大なペンギンが棲息しています。またネッシーのようなフワフワ怪獣の目撃例がたくさん寄せられています。みんな探しに行ってください。そこで遊んだらパスポートに「ナッキースタンプ」を捺してもらってね。
 もうひとつの州はヒーロー州で、ヒーローが登場するシアターがあります。ここでヒーローショーや大統領の歌のお兄さんの建国宣言と、楽しいコンサートとクイズ&ゲーム大会があります。歌の得意な子にはステージにも上がってもらって「のど自慢」もやろうかな。ここでもナッキースタンプを捺そうね。
 三つ目の州はワクワク州で、ここにナッキー共和国の首都があります。首都の名前は「バザール市(シティ)」です。ここにもナッキースタンプを捺すコーナーがあります。ナッキースタンプの欄が全部埋まると「ナッキーのスケッチブック」と「ナッキーキャンデー」をプレゼントするよ。
 バザール市では千葉県の物産展が開かれ、お母さんもピーナツや新鮮野菜などを安く買えますよ。また、けんちん汁やおでんや焼きそば、たこ焼きなどの美味しい屋台が並んでいます(これらの売り上げの一部は交通遺児育英会に贈られます)。
 このワクワク州の駅から「ナッキー鉄道」のミニSL「ナッキー号」が出て、フワフワ州やヒーロー州を回っています。それぞれの州にも駅があります。…他にも楽しい遊具や、ポニーの乗馬もありますよ。…

 企画書にはナッキー共和国の地図や、ナッキー鉄道路線図、パスポートとナッキー憲章の文なども付けて、指定された日時にプレゼンを行った。
 やがて、決定の通知が入った。「決定の理由はなんでしたか?」とTIの担当者が中山の担当者に尋ねたらしい。「いちばん楽しそうだったから」という返事だったという。これが「してやったり!」である。
 当日、中山競馬場の係長や課長までが、トランシーバーで現場のスタッフに伝えてきた。「え〜、国境警備隊、国境警備隊、どうぞ」「はい、国境警備隊です、どうぞ」「いまそちらに密入国と思われる子どもが二人向かいました。どうぞ」「はい、了解しました!」
 D社やH堂の担当者がイベントのモニターにやって来た。そしてニヤリと笑って「やられました」「なるほど、してやられたね!」