芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

大正の話

2016年09月06日 | エッセイ
              

 演芸評論家、随筆家の矢野誠一の「大正百話」は、私の愛読書のひとつである。百話といいながら、それには少し足りないが、各話短く適度な文章で、どこから読み出しても楽しい。
 矢野は「舌代」に言う。舌代とは簡単な口上書きのことである。
「西洋暦で一九一二年から一九二六年にあたる、世に言う大正デモクラシーの時代は、正に日本版ベル・エポックであったように思う。」
 続けてお芝居の中の、実際のこの時代に青春を送った革命家の終幕の台詞を紹介する。
「考えていたんだが、この大正という時代、のちになったら、みんながそういうだろうね……のどかな……じれったいほどのどかな、美しい、いい時代だったとね。……つらい。何が、よき時代なものか」
 風俗、世態、人情、事件、思想、哲学、文学、演芸…「際立って特徴的な色彩を発揮してのけている」が、戦争をしていなかった事がもたらした、稀有な文化の時代だったのか。

 ちょうど十年前に「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」というCD絵本に関わって以来、私は童謡唱歌が気になり、明治の日清、日露の戦争前後から大正時代、そして昭和の戦前戦中、敗戦までの時代を調べるようになり、「掌説うためいろ」を書き出した。
 滝廉太郎、武島羽衣、土井晩翠、夏目漱石、岡野貞一、高野辰之、野口雨情、そして鈴木三重吉が童謡運動を起こし「赤い鳥」を創刊した。そこに北原白秋、西条八十らの詩人や、山田耕筰、成田為三、中山晋平、弘田龍太郎などが参集した。「金の船」も創刊され野口雨情らが優れた童謡詩を掲載した。ここに世界にも類稀な児童文学運動が起こったのである。
 それらのことだけを見れば「じれったいほどのどかな、美しい、いい時代」に思えるが、経済の浮沈激しく、旧家の没落や逃散、身売りの時代でもあった。
「赤い鳥」創刊の年、富山に発した米騒動が全国に燃え広がった。そもそも明治の末は忠君、愛国が声を大に謳われ、大逆事件が起こり、特高警察が発足し、言論への締め付けも強まり、うかうかとした発言はよほど気をつけねばならず、また自粛する傾向にあった。「つらい。何が、よき時代なものか」
「赤い鳥」運動は文部省唱歌の批判から起こった。硬い漢文調の美辞麗句と紋切り型の言葉ではなく、子どもたちの言葉で詩を書こうというのである。しかし、もうひとつの三重吉らの本心、本当のことなど、口に出して言えるものか。大逆事件はつい十年前のことなのである。文部省唱歌に押し込められた忠君、愛国思想と、戦争の歌、兵隊さん、軍人さんを讃える歌…子どもたちに、そんな歌ばかりを教えていいものか…ということではなかったか。

 まさに「大正百話」は学者の歴史家が取り上げぬような市井の稗史、世相の空気、世俗のスキャンダル、芸能界スキャンダルとこぼれ話なのである。
 そののっけの話は「廃朝中の歓楽街」である。つまり明治四十五年七月三十日、尿毒症のため天皇崩御の報。
 これによって全国藝妓屋同盟本部はお触書は発表されねど通達あるまで休業。芸妓の外出も禁止、遊郭も休業、三十日は遊女たちの検査日なれど結び髪や下髪に直して謹慎。芝居、寄席、活動写真その他一般遊楽場は悉く休業。各種の製造工場、大商店、大料理店も悉く弔旗を掲げ休業。仕事をなくしたその日暮らしの芸人たちの中には、部屋に籠ってできる内職をする者もたくさんいたという。歌舞音曲の停止は八月四日に解かれたものの、なおも遠慮しても五日、一週間の停止延長もあった。
 ちなみに先の今上天皇の生前退位の「お気持ち」には、天皇の崩御に際しての、これらの自粛による庶民生活停滞への気遣いも込められていた。

 次は「歌姫環の家出」で、柴田環(三浦環)のスキャンダルである。続く「原のぶ子の上海道行」は、三浦環の後釜を狙っていた東京音楽学校の美形・原のぶ子のスキャンダルである。
 名人圓喬の死、消えた歌舞伎座の芝居茶屋、圓蔵・むらくの喧嘩、真砂座のストライキ、花魁の表彰式、訴えられた雲右衛門、蝶花楼馬楽の死、芸術座の崩壊、金髪藝者リーナ、当世吉原事情、弁士の楽屋……と、芝居、寄席などの話が主であるが、このこぼれ話が面白い。また築地小劇場の設立や、関東大震災下の役者や噺家たちの様子をよく伝えている。
 島村抱月と松井須磨子の醜聞と死も興味を惹くが、彼らと同じ空気を吸っていた中山晋平についても想いが飛ぶ。まさに「赤い鳥」と童謡運動と同じ時代である。
 旧家が没落して新興成金が登場し、また新興財閥が形成されていく。景気の良い社会と絶望の社会が二極化していった。
 ロシア革命に際し、寺内内閣は欧州諸国や、特にアメリカからシベリア出兵を強く要請され、ついにそれに踏み切った。それを機に米騒動が起こったのだが、寺内内閣は軍隊を動かしてこれを取り締まり、いよいよ言論統制を厳しくしたのである。その頃、徳山湾に停泊中の弩級戦艦「河内」が大爆発し、六二一名の死者を出した。これらを大阪朝日新聞が政府批判を展開すると、編集者らは告発され、社長は右翼の黒龍会によって襲撃された。
 大逆事件に際しての永井荷風もそうだが、日本の作家、知識人、文化人は政府に対して、誰も声を上げないのである。ただ黙するのみ。…
 そして関東大震災である。朝鮮人、中国人、沖縄人の虐殺、無政府主義者・大杉栄と伊藤野枝と親戚の子の虐殺、拘束されていた共産主義者や労働組合運動家の虐殺。
 芥川龍之介は「唯ぼんやりとした不安」を感じており、昭和二年に死を選んだ。じわじわと、締め付けられるような息苦しさも進行していたのである。
「…つらい。何が、よき時代なものか」……やがて昭和に入ると、司馬遼太郎が「異胎」「鬼胎」と憤怒を込めて言う「統帥権」が、いよいよそのおぞましい声を上げ始めるのである。

 この矢野誠一の著作も、先日紹介した白崎秀雄の著作も、読むと語彙がとても豊かになる。ああこういう言葉、こういう表現方法があったのか…と。


治五郎と四郎の柔道

2016年09月05日 | エッセイ
         

 日本柔道はリオデジャネイロオリンピクで復活の兆しを見せた。井上康生氏のもと、選手の育成をはじめ意識改革が進み、その成果が現れたのだろう。それはそれで実に慶賀の至りである。
 しかし以前から書いているが、私はどうも柔道の試合の縺れ合いが好きになれない。特にごろごろ転がっての決着も気に入らない。シドニーオリンピックで篠原信一が内股すかしを見事に決めたが、互いに襟や袖を掴んだままのため、ごろりと体が入れ替わったら、上になった相手の勝ちとなった。無論、大誤審である。
 ちなみに相撲では、技をかけられ投げられた力士は、自分も相手の回しを掴んでいる場合、その回しを自分から離して受け身をとること教えられるそうである。回しを掴んだまま縺れて転ぶと大怪我のもとになるからである。

 柔道の創始者、講道館の創始者・嘉納治五郎の時代の柔道は、どうも今とは全く異なる武術だったのではないかと思われてならない。残念なことに、当時の嘉納治五郎や、その弟子・西郷四郎の映像はない。

 嘉納治五郎は万延元年、摂津国御影村で廻船業を営む治朗作の三男坊として生まれた。治朗作は幕府御用達の大店で、勝海舟の庇護者でもあった。
 治五郎は非常に犀利な子どもであった。しかしかなり小柄なため、悪ガキ達の標的となり、いつも苛められていた。学校の成績は抜群に良くても、喧嘩は抜群に弱かったのだ。強くなりたい、あいつらを喧嘩で見返したい、投げ飛ばしたい。
 明治三年、新政府に招聘された父の治朗作とともに、治五郎も上京し、官立の開成学校に進学した。優秀なので教師の資格も難なく取れた。彼の志望は外交官になることであった。しかしこのまま肉体の弱者は嫌だ。強くなりたい。
 治五郎は天神真楊流の福田八之助の門下に入った。福田八之助は稀代の豪傑として知られていた。治五郎は八之助に稽古をつけてもらった。あっという間に投げ飛ばされ、天井を見つめていた。
「先生、今の技はどうかけるのですか?」「何度も投げられ、何度もかけろ。そのうち体が覚える」と師は言った。
 八之助は治五郎に秘伝のすべての技を教えた。そしてあっけなく他界した。治五郎は同門の磯正智の弟子になった。正智も治五郎にその全ての技を伝え、免許を与えてのち、あっけなく他界した。
 二人の高潔な師範から学んだ柔術の歴史は俺が伝える。柔術は単に武術、武道ではない。理論が大事だ。そしてそれより大事なのは、肉体鍛練を超えたもっと道徳的な、全人格形成的なものが必要なのだ。それが勝つことよりも大事なのだ。治五郎は「柔道」と呼ぶようになった。
 明治十四年、東京帝国大学文学部を卒業した治五郎は、外交官の道には進まず、学習院の教師となった。二十三歳のとき、周囲の反対を押し切り、下谷のボロ寺の永昌時の一角を借り、「嘉納塾」を開いた。彼は多くの門下生を集めようとは思わなかった。やって来た志望者には「ここは柔術家をつくる道場ではない」と言った。要するに全人格錬成の道場なのだ。やがて「嘉納塾」は「講道館」になった。
 明治十八年、警視庁武道大会には全国から諸流の猛者が集まった。当時の柔道・柔術は全て無差別戦である。体の大きさは関係ない。
 講道館柔道はそれらを全て打ち負かしてしまった。小が大を投げ飛ばす。全て一本、投げ伏せるのである。講道館と嘉納治五郎の名は全国に轟いた。
 当時、講道館の四天王とか五羽ガラスと謳われたひとりに富田常次郎がいた。彼の息子が富田常雄である。常雄もまた講道館柔道の五段を得たが、「姿三四郎」を書いて作家として名をなした。
 姿三四郎のモデルは、四天王のひとり、チビで一番強かったという西郷四郎である。富田常雄は、父から西郷四郎の話を聞かされ続けた。その人物、その神速の技、あの伝説の「山嵐」…投げ飛ばされた相手は悶絶、あるいは失神したそうである。

 志田四郎は慶応二年に会津若松で会津藩士の家に生まれた。戊辰戦争の際、一家は戦争を逃れ新潟県津川に移住し、阿賀野川で漁師をしていたらしい。四郎も川舟に乗って育った。四郎の腰の強さ、吸い付くような足指の強さは、この川舟の揺れが育てたのかも知れない。
 四郎が十六歳のとき、元会津藩家老で福島県伊達郡の霊山神社の宮司をしていた西郷頼母の養子となった。明治十五年に上京、天神真楊流柔術の道場に入門し、稽古に汗を流していた。彼も小柄で五尺余しかなかった。あるとき四郎は、同門の嘉納治五郎の目に止まった。彼は講道館に移籍した。
 後年、西郷四郎は治五郎から講道館の師範代を任されていたが、師の洋行中に出奔し、宮崎滔天の支那革命に奔走した。やがて「東洋日の出新聞」の編集長となり、かたわら柔道、弓道、日本泳法の指導に当たった。彼もまた単なる柔道家ではなかったのだ。
 師の嘉納治五郎も教育者として突出していた。東京高等師範学校や旧制五高等の校長を務めている。夏目漱石を松山中学に送り込み、のち旧制五校に送ったのも治五郎である。旧制灘中学や日本女子大学の創立に関わり、治五郎が設立した英語学校の弘文館は多数の中国からの留学生を受け入れた。その中に魯迅もいた。
 さて、小柄な嘉納治五郎や西郷四郎の神速の柔道とは、どんなものだったのだろう。漫画家の浦沢直樹もそれを作品に描きたかったに違いない。
「YAWARA!」がまさにそれで、ヒロインの猪熊柔も無差別級で巨体選手を神速で投げ飛ばすのである。彼女を育てた柔道の達人・祖父の猪熊慈悟郎も小柄だが、彼は無差別級で全て一本勝ちしか認めなかった。

 作家で随筆家、美術評論家の白崎秀雄は、まことに端倪すべからざる人である。私は彼の作品が大好きだ。その中の一つに「当世畸人伝」がある。
 白崎秀雄は柔道も相当やっていたらしい。「当世畸人伝」の中に「阿部謙四郎」があり、この柔道家がいかに強かったかを描いている。

「俗に、柔道の世界では木村の前に木村なく、木村の後に木村なしといふ。昭和十年代に活躍した木村政彦の強豪ぶりを形容する語で、彼を知る者は誰しも誇張とは思はない。このキャッチフレーズは、わたしがあるパンフレットとアナウンサーに提供したものであつた。
 その木村を、完膚なきまでに投げ伏せた、ただ一人の男が阿部謙四郎である。」

 阿部はその狷介な性格、畸人ぶりから柔道界に嫌われ、遠ざけられていった。彼は昭和三十年代には、既に過去の人となり、その名が語られるときはその畸人変人ぶりに関してであったという。
 おそらく阿部謙四郎の柔道は、嘉納治五郎、西郷四郎らの草創期の柔道に近かったのではなかろうか。阿部は植芝盛平に合気道(六段)も学んだ。剣道も六段である。後に日本の柔道界と対立、決別し、ロンドンに渡った。彼はイギリスでは、柔道と合気道と剣道の紹介者として、その名を伝えられている。

王様になった一等兵

2016年09月04日 | エッセイ
                  

 政治家を志す人のほとんどは権力志向が強い。なんとかして権力を握りたい。大臣になりたい、党首になりたい、総理になりたい、大統領になりたい。あるいは国王になりたい。…
 しかし、そのような権力志向を全く持ち合わせず、温良で控えめな一人の青年が、偶然から小さな部族の国王になった。彼はそこで憲法も制定した。
 しかし、王様になった一等兵・妹尾隆彦を知る人は、今やほとんどおるまい。

 妹尾隆彦は大正九年に香川県の丸亀に生まれた。関西大学卒業後、大阪税関に勤め、美しい娘と結婚した。二十二歳である。
 しかし翌昭和十六年すぐに応召された。彼は一日も早く帰国したいがために、幹部候補生には志願せず、一等兵として陸軍・楯兵団に組み込まれた。送られた先はフランス領インドシナのハイフォンであった。彼はそこで真珠湾攻撃、日米開戦を知った。
 楯兵団は進軍し連戦連勝、ビルマに達した。妹尾は英語が話せたことから、ビルマ戦線での情報収集と、住民への宣撫の担当となった。
 ビルマの原住民と言ってもいくつもの部族に分かれていた。それらの部族に紛れ込んだ残敵はゲリラとなる。戦争は悪夢である。その統治と残敵掃討隊がいくつも編成された。
 妹尾一等兵は「カチン高原掃討隊」に加わった。総員百五十名であった。カチン高原にはカチン族という野蛮な首刈り族、人喰い人種がいるという。

 やがて妹尾一等兵は、ザオパンという現地人の若者と二人で、カチンのジャングルの偵察を命じられた。
 このザオパンの巧みな交渉力もあり、部隊は渡河でカチン族の協力を得た。また協力したカチン族は温順で、とても人喰い人種には見えなかったし、この部族に残敵が紛れ込んでいる様子もなかった。日本軍は撤収したが、妹尾はザオパンと数日残り、さらに情報収集に当たることになった。やがて妹尾とザオパンは別れた部隊の後を追って合流しなければならない。
 ところが、このザオパンという青年は、実はカチン族の酋長の息子であった。ザオパンはなかなか開明派で、カチン族を争いのない豊かな民族にしたいと考えていた。彼は妹尾をカチン国の首都に案内したいと言った。
 その頃、カチン国には国王がおらず、五人の族長の族長会議で統治が行われていた。この族長たちも対立しており、部族同士の野蛮な殺し合いも行われていた。
 ザオパンはカチンを豊かにし貧苦から救いたい、また文明化を図りたいという。妹尾はザオパンやその仲間たちの話に心を打たれた。彼は現地人への差別意識は全くなかった。優しい人柄で、平和を愛し、争いごとは大嫌いであった。また不正を嫌い、平等と人間同士の心の触れ合いや共存、協同を信じていた。
 ザオパンは妹尾隆彦の中に理想像を見た。そして彼にカチンの国王になってほしいと頼み込んだ。すでに妹尾一等兵は、本隊と二百キロも離れ、ジャングルの真ん中にいた。
 ザオパンの提案に彼の仲間たちや、各部族の族長たちも賛意を示した。

 妹尾は国王になった。元来、愛情豊かで、真面目一本の男である。誰に対しても穏やかで優しかった。妹尾は国王として、熱心に、真面目に、精力的に働き出した。
 カチン国の憲法を制定し、憲法下の国法をつくり、裁判制度を設けた。阿片を禁止し、教育に取り組み、福祉という考えも教えた。道路を整備した。また国土開発と大首都の建設計画もつくった。
 ジャングルを開削し、樹海の中に、緑の丘と白い壁、赤い屋根の家々や役所を建設する。…
「カチン族の首カゴ」に言う。「わたしは自分の言動に責任を持つことをまず学んだ。わたしは自分の才能、能力をはじめて知り、自信を持った。そして肩章や肩書きを取り除いたハダカとハダカの人間として、他をくらべてみるとき、決して自分が劣っていないことを知った。」
 戦争の最中、妹尾は本気で、小なりといえ理想の国家づくり、理想の共同体づくりを夢見た。いかなる戦争も愚劣であり悪夢である。妹尾は兵籍離脱、国籍離脱を考えるようになった。
 大日本帝國の大東亜共栄圏は嘘っぱちのスローガンである。どこに共栄の心があったのか。この妹尾一等兵の小さな試みこそ、共栄圏づくりの一歩でなかったか。
 しかし彼の元に帰隊の命令が届いた。妹尾一等兵は部隊に戻った。
「たかが一等兵のくせに、人喰い土人の王様ヅラしやがって。なんだその服装は? 大日本帝國の兵隊なら兵隊らしくしろ!」
 彼を待っていたのは中尉の激しいビンタの嵐であった。執拗なビンタの次は、腫れ上がった顔で、口内に溢れる血を飲み込みながら、軍人勅諭と戦陣訓の朗唱を何度も繰り返すことを要求された。
…日本軍はカチン高原に駐留し、横暴、乱暴な統治をしようとした。ほどなくカチン族は日本軍の敵に回った。やがて日本軍はカチン族に追われ、ビルマを敗走した。

 妹尾隆彦は昭和二十一年に復員し、大蔵省、運輸省、大阪市役所の港湾局に勤めた。大阪万博に出向し、退職後にメキシコの大統領顧問となり、さらに国立メキシコ大学で創造工学の講義をした。

荷風と個人主義

2016年08月25日 | エッセイ
                                                                                             

 自民党の人たちは、憲法から「個人」を消して単に「人」としたいらしい。個性を持った個人ではない。犬猫牛馬のような種としての「人」である。日本国憲法に個人主義が入ったせいで、日本から社会的連帯が失われたので、新憲法では個人主義を排するのだそうである。
 個人主義は、彼らが言うような戦後にアメリカから持ち込まれた観念ではない。彼らが戻したい明治維新後に、西欧から持ち込まれた社会の基盤を成す近代思想の一つであろう。彼らは明治維新すら否定し、奈良時代の律令社会に戻らねばなるまい。
 また、個人主義という言葉はなかったものの、江戸時代の奇人変人、粋人の多くは、相当に個人主義的な人ばかりであった。つまり、わがまま勝手な人たち、他人の目をとんと気にもとめず、自分のやりたい放題という人たちである。松尾芭蕉も平賀源内も、山東京伝も、菅江真澄も、そうであったと思われる。
 勝海舟も個人主義的な人間であった。海舟は言った。「なあに、国だ国だと言う、その憂国の士ってえ連中が国を滅ぼすのさ」
 彼の元にやってきた坂本龍馬もかなり個人主義的だったように思える。龍馬に尊皇意識は薄かったであろう。攘夷思想もなかった。鎖国と攘夷は一体だ。尊皇攘夷を唱える連中を、幕藩体制や鎖国を破壊する道具と考えていたに違いない。彼は勤王派とも幕府方ともうまく付き合った稀代の策謀家である。龍馬の狙いは、尊王攘夷で倒幕を果たし、新政府を樹立して一気に開国させる。龍馬は海外と自由な交易をする商社を作りたかったのだ。
 福沢諭吉も徹底した個人主義に思える、片田舎の中津藩、その貧しい下級武士から出て、己の立身のための学問、蘭学を身に付けるため大坂に出た経緯と自己主張、さらに江戸に出て英語を身につけようとする猛烈な自己主張。維新後も官に身を置く気持ちはさらさらなかった。官などに縛りつけられてたまるか、ということだろう。
 安政六年生まれの坪内逍遥も、慶応三年生まれの夏目漱石も、個人主義者であった。

 明治十二年東京小石川に生まれた永井荷風(本名・壮吉)も、若くして徹底した個人主義者であった。荷風の自由で吝で好色で、個人主義的我儘は、戦前からかなり評判が悪く、批判を受け続けてきた。
 荷風の父・永井久一郎は、プリンストン大学、ボストン大学に留学経験もあるエリートで、高級官吏を経て、日本郵船に天下りして役員を務めた。山の手の裕福で気品のある家庭である。母親は邦楽や歌舞伎好きで、壮吉少年を連れて出入りしたため、これが青年となった荷風に強い影響を与えた。
 荷風は長男として父親の期待を集めたが、この父親を困らせることに熱意を持っていた。故意に一高を落第し吉原通いをした上、広津柳浪を訪い、その門弟となって小説家を目指しながら、すぐ飽きて清元を習い始め、その次に日本舞踊の稽古に通う。舞踊に飽きると尺八を習い始めた。さらに噺家の朝寝坊むらくに弟子入りし、朝寝坊夢之助の名をもらって高座にも上がった。
 次は福地桜痴に弟子入りし、歌舞伎座の座付作者見習いとなった。この頃からエミール・ゾラに傾倒し、勉強嫌いの荷風としては珍しく熱心に、フランス語を学んでいる。二十一歳のときである。
 翌年の明治三十四年、「やまと新聞」の記者となり、雑報を拾って歩いた。この自由気儘な道楽息子を、父の久一郎は何とかしたかった。正業・実業に就けと勧めたのである、それもアメリカで。荷風は喜んでその提案に乗った。
 日本郵船の船で渡米し、タコマやカラマズーで英語やフランス語を学び、ニューヨークとワシントンDCの日本大使館で下級官吏となり、さらに正金銀行に勤めたが、どうしてもフランスに渡りたい。彼は父のコネを借りようとした。そのとき彼は、街娼イデスと熱烈な恋に落ちていたのである。
 そんな荷風は、父の力でリヨンの正金銀行に移ることが可能となると、さっさと身を焦がすような恋を捨てた。こうして荷風は、当時のヨーロッパの金融の中心地、リヨンに渡った。
 しかしリヨンでの銀行勤めを八ヶ月で辞め、パリに移り住み、繁くオペラや演奏会に通った。彼のこの経験が、日本に西洋音楽の傾向や現状、注目の音楽と音楽家紹介をもたらすのである。シュトラウスやドビッシーを日本に紹介したのである。

 足掛け六年の外遊から帰国した荷風は、森鴎外から推挙され、慶應義塾大学文学科の教授となった。真面目な講義ぶりだったという。そして荷風は「三田文学」を創刊した。
 ところが明治四十二年に事件が起こった。荷風の「ふらんす物語」「歓楽」が発禁処分を受けたのである。荷風は初めて国家権力という強大な敵を身近に知った。
 明治四十三年、大逆事件が起こった。幸徳秋水とその妻・管野スガら十二名が死刑を宣せられた。
 荷風は文学者として何もできず、傍観するばかりであった。荷風は愕然とした。荷風にとって文学者とは、「なにものよりも強い自由な人格」のはずであった。日本の文学者、知識人もただ拱手傍観するばかりで、意気地がなく全く行動を起こさなかった。
 荷風は慶應大学出勤の朝、刑場に向かう秋水らを乗せた馬車と出会い、それを立ちすくんだまま見送ったのである。彼は自分も、日本の文学者、知識人も情けなく思った。
 大逆事件はフランスの「ドレフュス事件」そっくりである。荷風は彼我の文学者、知識人の差を思い知った。
 1893年、フランスで「ドレフュス事件」が起こった。フランス陸軍参謀本部付きのユダヤ人の大尉アルフレッド・ドレフュスが、スパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。
 このときエミール・ゾラは新聞に「私は弾劾する」という大見出しの大統領宛の公開質問状を掲載した。これを機に世論も動き、多くの文学者や知識人もドレフュスを助けようと立ち上がった。ゾラは名誉毀損罪で告発され有罪判決を受けた。一時イギリスに亡命を余儀なくされたが、その運動は「人権擁護連盟」を結成して、自由と平等、正義と真理、軍国主義批判を展開したのである。
 ドレフュスは有罪となったが、その後特赦された。彼はその後も冤罪を主張し続け、やがて無罪判決を勝ち取り、その名誉を回復した。ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派がフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく安定した。

 大逆事件を境に、荷風が師と仰ぐ森鴎外は、歴史物ばかりを書くようになった。他の文学者たちも政治向きのテーマを扱わなくなった。東京と大阪に特高警察が生まれた。
 荷風は「自分は文学者の資格を失った」と思った、意気地なしの弱虫であると考えた。「以来、わたくしは自分の芸術の品位を江戸作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」
 こうして荷風は春本や春画の戯作者のように、堕落しようと決意した。彼は大学からの帰りに、花柳の巷で遊ぶようになった。そこで新橋芸者の富松(本名・吉野こう)と出会った。荷風は左腕に「こうの命」と入れ墨し、富松もまた「壮吉の命」と入れ墨した。しかし一年も続かなかった。富松が大金持ちに落籍されたのである。
 その後の荷風は好きになった女は、いち早く身請けし妾とした。次から次へとである。正妻はおらず、妾だらけとなった。一時妾の一人を市川左団次の媒酌で妻としたが、すぐ離婚した。彼は女たちを愛さなかったが、女たちもすぐ荷風を裏切った。
 荷風にとって女たちは、所有しているだけで嬉しかったのである。瀧井孝作が荷風を評した。「永井荷風氏は、女好きで、それは好色家、漁色家の風とはちがい、釣好き、釣道楽に似た風で、女の耽蕩とした気分が好きで、女の性質が可愛くて憐れでたまらないようです。」
 荷風はつとに日本の文学者を見限っていたが、やがて女たちも見限るようになった。荷風は二、三を除けば、その身辺に誰も近づけなくなり、いよいよ偏奇となり偏奇館主人と自称した。

高々と「たいまつ」を掲げて

2016年08月22日 | エッセイ
              

 武野武治は大正四年(1915年)、秋田郡仙北郡六郷町に生まれた。家は小作農家だったが、両親は集落の農家の作物を町に売りに行く仕事を始めた。町に行く前に、農家から町で手に入れて欲しい商品の注文をとり、町でそれを仕入れた。御用聞きでもある。また、双方から様々な雑用も引き受けたらしい。武野家は小作農家から非農民に移行していったのだろう。
 武治はこのように農民に囲まれて暮らし、育ったのである。

 彼は横手中学校から東京外国語学校スペイン語科に進んだ。ふと、彼がスペイン語を選んだ理由を想像してみる。たった一人で巨大な風車、強者に挑むドン・キホーテの物語から触発されたのか。あるいは、ヘミングウェイが「誰がために鐘がなる」で描いたスペインの内戦と、人民戦線政府を助けるため世界中から集まった義勇兵への憧れでもあったのか。
 外語学校卒業後に報知新聞に入社し、社会部の記者となった。その頃であろうか、近衛文麿や有力軍人などを取材、インタビューしている。昭和十五年、朝日新聞に移った。
 彼は朝日時代に、同僚や社内の空気が急速に変化していく様を目にした。中国戦線の拡大や外交政策に批判的だった社の空気が、どんどん変化していくのである。もちろん日本の新聞各社は、発禁や軍部の強硬姿勢、それを支持する右翼勢力の暴力を恐れ、批判的記事は鳴りを潜めていったのである。日本の新聞各社はさらに自主規制を始め、積極的に提灯記事、国威発揚記事を書くようになり、国民の戦意を煽ったのである。言論統制ははますます強まっていった。そして日米開戦を迎えた。
 彼もまた東條英機などをインタビューし、中国、東南アジア特派員として従軍し、戦地を取材した。
 どんなに大本営発表の記事で戦意を煽ろうとも、撤退を転進と言い換えようとも、あるいは玉砕と美化しようとも、もはや日本の敗戦は自明であった。彼は痛切な自責の念にとらわれていた。自分も積極的に国威発揚記事を書いた。なぜ、そうなったのか。なぜ新聞は批判記事を書けなくなったのか。戦争への新聞の責任とは何であったのか、記者の責任とは何であったのか。ジャーナリズムはどうあらねばならなかったのか。ジャーナリストとして、その責任を取らなければならない。終戦後、彼は朝日新聞を退社した。

 昭和二十三年の元旦、彼は妻子を連れて秋田県横手市に帰郷した。その翌月にタブロイド版二ページの週刊新聞「たいまつ」を発行した。発行人・主筆は彼「むのたけじ」である。社員は彼と妻の美江さん、そして復員兵士の竹谷幸吉の三人である。
 ただの週刊の、二ページだけの、地方紙に過ぎないが、天下国家を論じ、反戦と平和を社のテーマとして高々と掲げた。あまりにも小さく、細々とし、一部三円。当然のごとく定期購読者はゼロから始まったのである。「たいまつ」は創刊の宣伝のための無料配布をしなかった。「タダのものは真面目に読まれない。読まれぬものは初めから作らぬほうがよい」
 むのをはじめ、三人で新聞の束を抱え、雪深い農村を歩きながら一軒、一軒売って回った。やがて鉄道弘済会の売店でも売ってもらえるようになった。しかし購読者が増えるにつれ、配達の苦労はいや増したのである。購読者の六割は農民である。彼らは歩き、配達して回ったのである。
 部数も二千部となった。こうして田舎の豆新聞は維持されていくのである。夫人は着物を入質した。翌年には社員も一人増えた。
 昭和二十六年、自社印刷を目指し、朝日新聞から中古活字を譲り受け、美江さん自ら素人植字を始めたのである。それもこれも赤字続きの「たいまつ」の経費削減のためであった。当時、日本には四千社の地方新聞があったそうだが、一番貧乏だったのは「たいまつ」であったろう。
 むのは、やがて自らの「口による新聞づくり」を開始した。横手を中心に、その外に出かけて行き、「たいまつ」主催の講演会を始めたのである。「たいまつ」の主筆はよく語った。聴衆が一人しかいなくても、熱心に語った。農民の皆さんに知ってもらいたいこと、知らなければならないこと。そして講演会に顔を出した人々に、「皆さんが、世の中に対して、何か伝えたいこと、言いたいと思うことはありませんか?」と。
 新聞の行商を兼ねた講演会は、取材も兼ねていたのである。読者の声を大きく取り上げた「たいまつ」は、実に個性的なタブロイド版のローカル新聞であった。
 やがて、むのは「たいまつ十六年」と「雪と足と」を刊行した。すると彼の元に、この二書に感動した日本中の読者から、千四百通もの手紙が届いたのである。そのほとんどは若者たちであったという。若者たちが心を揺さぶられたのである。彼はその熱い魂が書かせた手紙を集め「踏まれた石の返書」を刊行した。
 
 享年百一歳。彼の死は、リオオリンピックでのメダルラッシュに沸く日本では、あまり大きく報道されなかった。彼の反戦・平和の言葉の数々を、日本のメディアは政権の意思を忖度し遠慮したか、あるいは、今さらどうでもいいだろう、という判断であったのだろう。…民の沈黙が戦争をまねく。戦争は報道の自主規制から始まる。…