茶々丸日記(光る川…朝ときちーたんのぶろぐ)

嫁がきちーたんという、ちょっと(かなり?)変わった人のブログ
今は通称「茶々」の成長日記になってます

カメラ人生の原点@光る川…朝

2007-09-25 00:00:00 | 写真のたわごと
Canon AE-1 PROGRAM BLACK + New FD50mm f/1.4

正確にいうと、これが初めてのカメラではない。
初めてのカメラはコダック製で、「126サイズフィルム」というのを使う独特なもので、
いまやカメラはあってもフィルムの入手が不可能。
そのあとに「OLYMPUS PEN EE-3」ってのがあり、さらに「Canon Autoboy」ってのがきて、
それからこいつとなる。
何が原点なのかといえば、「初めてのマイカメラ」だったからだ。

高校入学を控えた、3月の終わり。
私は親にかなりの勢いで噛み付いていた。
「今日じゃなかったらいつになるの!私が撮りたい写真は今日じゃないと撮れないんだよっ!」
阪急電車西宮北口駅の「平面交差」最終日のことである。
自分が意図する撮影には、バルブ撮影が必要。家のカメラではそれができないのだ。
だから「今日」でなければ1年後でも10年後でもかまわなかったし、
親がいつもはおとなしい私がかなり噛み付いてるのを無視していれば、
今でも「何かの記念に…」程度でしか写真は撮ってなかったろう。

とりあえずボディと標準ズーム。
決して安い買い物ではない。当時で約8万ほどになったはずだ。
「ほんとに将来まで使い続けるんでしょうね??」
とにもかくにも昼下がりの3時に、半信半疑の親を連れてカメラ店に行き、
4時に家に戻り、急ぎ取説を見て5時前に撮影に向かった。
全国でここだけの「見もの」だったので、それはもうすごい人だかりで、
とてもじゃないがガキの立ち入る隙などない。
そこをなんとか、2時間ほどがんばってがんばって、
出来上がった写真を見ると、1枚だけ実にきれいに撮れていた。
後はブレててお話にならなかったんだが…

すぐにストロボがほしくなった。
すぐに望遠がほしくなった。
すぐにモータードライブで連写がしたくなった。
すぐにフィルムがなくなった。

いかほどかかったろう。使い放題だった私にはわからないが、
今自分の財力で、そんな豪勢なことはできないだろうことは想像に難くない。
母はそれでも怒りながら、ほぼ要求どおりにしてくれた。
非常に感謝している。

2年たって、明るいレンズがようやくほしくなった。
それが、この写真のレンズである。
高校3年間、撮った写真はフィルム550本、推定17000コマになった。

仕事をし始めると、いいカメラがほしくなった。
Canon F-1 がフラグシップ機だったが、さすがにそれは買えなかった。
次位となると、A-1 になった。これは最終的に3台買った。
でも、こいつは結局、すべて壊れたかお蔵入りになった。
どうしても、手になじまなかったのだ。

親が買ってくれた AE-1+P は、A-1 に浮気してた頃に行方知れずになってしまった。
いや、部屋のどこかにあるはずなんだが…
この標準レンズも、なぜか見当たらなくなった。
なのでどちらも、後日改めて買いなおしたものである。

本気撮りのときは、必ずこのカメラを手にしていたが、コンパクトデジカメに走ってしまい、
「本気撮り」も少なくなって、永らくお蔵入りになっていた。
デジタル一眼になってなおのこと触ることはなくな…

…るはずなのだ。普通の人ならば。
しかし最近、このカメラを手にする機会は少なくない。
フィルムこそ入れないが、ファインダーをのぞいてシャッターを切っている。
ストラップも、当時はこのケバケバしいストラップは嫌いだったが、
このたび改めて中古で購入し、つけてみた。


「安心」というより「安堵」といったほうが正しいか。
このカメラのファインダー、それも先日まで撮っていたシャッター優先ではなく、
買ってまもなく、新鮮な気持ちで、あの日のぞいたファインダーと同じ「P」のマークを見ると、
まるで母に抱かれてるかのような、そんな安堵感がしみじみと沸いてくるのである。
「将来までずっと使い続けるっていったでしょ!」亡き母がそう言っているのかもしれない。

「手ごろなFDレンズのL玉でも追加してやるかなぁ…」
いまさらこんなカメラシステムをまだ使ってやろうという、
ほとんどありえない話を、ぼんやり考えてたりするのである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする