すぜけうすサンマ豊漁記 ③

2006-01-24 22:36:52 | すぜけうすサンマ豊漁記
 
「認めるなら話は早い。変な考えだけは起こさないでくれよ。父さんが言いたいのはそれだけだ」。爬虫類の口元がまた少し右にぐいと吊り上った。
「どういうことかしら」。ヴッチは、やっとそれだけ言えた。
「とぼけなくてもいい。私の契約者は非常に有能だ。町をごろつくために野放しにしているわけじゃないんだよ。傭兵というのは情報収集能力に長じているのだから。幼な馴染みと言ったって、あんな負け犬の家系といても、これっぽっちも利益はないんだ。いよいよ困ったら金目当てでたかるためにお前を利用している姑息な奴らなんだから」。
「ユジャはそんな人じゃないわ」。遮るように憤慨の声を出したが、思わず言い澱んでしまった自分の不甲斐なさを、ヴッチは恥じた。
「それはいずれ分かることだ。と言うよりもそんなことで詰まらない思いをする前に、早く縁を切りたまえ。それに、もう一人の男だが、奴がどんな素性かは知らないが、陸のサンマと娘が知り合いだなんてことは、父さんの名誉にかかわることだ。私のことを立派だの、理解していると称えてくれたお前が、そんな奴らと一緒にいるなんて、そもそもおかしな話だとは思わんかね」。表情は全く変わらないが、ヴィトルの語気は強く、冷徹だった。
 
 ヴッチは体が震え、顔が紅潮していくのを感じた。自分には遂げねばならぬ目的がある。そのためには自分が忌み嫌う父を褒め称えもし、自分が侮辱や辱めを受けることも甘んじて受けようという心構えは持っていた。
 しかし、仲間へのそれは許しがたく、成し遂げるべきことさえ吹き飛んでしまいそうだった。いったい父はどこまで自分たちの関係を知っているか想像すると、ぞっとした。そのことで何とか正常を保てた。
「私もう大人ですもの。お父様に言われるまでもないことですわ。私と、現実としてお父様からお金を収奪しようと日夜考えて行動している傭兵の皆さんのどちらを信じるかということじゃないかしら」。
 ヴッチは怒りを鎮め、冷静さを呼び起こして、ふうっとため息を付いて見せた。今日のところはいったん引き下がろう。芝居だろうがそうでなかろうが、平静を装って伏線を張ることにした。ヴィトルが自分を信じているとは思えないが、少なくとも彼が人間ならば、判断を曇らせることもできると考えたからだ。
 きびすを180度返し、ヴィトルに背中を向けた。大きく肩で深呼吸してから、一直線にドアへ向かって歩き始めた。直後に、背中に悪寒が走るのを感じるが早いか、「なぜ名前を変える必要があるのかね。お前には私が付けた素晴らしい名前があるのに」。ヴィトルがヴッチの背中にぴしっぴしっと鞭の様に叩きつけた。
 ヴッチは、振り返らず、聞こえないという態度でドアにたどり着こうと必死だった。
「次に漁船が来るのは、来週の水曜日、つまり1週間後だ。日曜日まで停泊して西の国に出航する。妙な気は起こさないことだ。お前のお友達もただでは済まないぞ」。
 ヴィトルが話し終わるのを待たず、ヴッチはドアを締めた。
 しゃがみこんでしまいそうになる自分の体を立たせることがやっとだった。絶望が体の中を電流のように駆け巡っている。顔には夜を拒むように西日が橙色の光を浴びせ、ゲシャ海を阻む湯気、尖塔、クレーターに埋もれた町を照らしていた。頬を伝う涙さえも容赦なく同じ色に染めていた。
“nojia-temeki-HA-ushokooshi”。
 ヴッチは呪いの様に自分の本当の名前を呟いた。それはヴィトルが最後に彼女へ掛けていた声でもあった。
「私が夢を見る自由は、すぜけうすにはない」。彼女は、この国に縛られていた。



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4 コメント

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番外編ていうかぱられる編 (いちごや)
2006-01-25 19:10:11
可否の作法

「すぜけうすより南方に2000里のところにふらしるという国ありける。

かの国、一面に可否なる草木はえにき。その実るところの葉をもって飲用とせり」

いまより20代ほどむかし、よあひむという異国の者、我がすぜけうすに可否を伝えし。

 さて、この可否を飲用するに作法あり。

可否を飲むに平素なるところで飲むべからず。さだめて可否亭あるいは可否処あるいは可否の間にて飲むが古くよりの慣わしなるべし。

 いわく可否を飲むに南方と同じく周りを整えて飲むに最上となす。

室温40度を常とし、湿度80%を越えるを可否に良く似合いに候。簡なるは室温35度にても可也。しかして湿度を80%より下回るを固く忌む。

もし下回りたればこれ可否の毒気なる「可否印」にあたりて夜も昼も寝られじ。命縮むるの法なる。

 次に器を整えるべし。器は古来すぜけうすにあるイナゴ屋くらふと亭にて扱いしものを最上となす。ゆえは古来よりの慣わしなると。

略してはするぷれにて求むるも可也しが、可否の味わいはなはだしく損ねる怖れあり。こころあるひとなれば倣うべからず。

 可否はその色墨のごとく黒きものなり。これを詐して墨汁を可否と販売せるものあり。味わいまったく異なりて可否の味知る者なれば瞞ぜられることなかりしも、世の若きもの可否の味しらずんば、かくのごとく墨汁を可否として味わうもの多し。

これ腎の病のもとなり。決して倣うべからず。

 可否を入れる器に左右に「耳」あり。これ人の耳に同じなり。斜め上を持ちて言うことを聞かぬ子を諭すがごとく摘み上げるものなり。

このとき飲み手は座布にあぐらに座り、あしの裏を上に向けるものなり。ゆえは「我が心のうちに、貴殿に対し蹴り技を加える意思なし」をあらわす。

まことにもって美しきすぜけうすの心なるをみる。

 さて、左右の耳を摘み上げたる器を鼻先に速やかに運ぶが善し。なんとなればその香り迅速なるをもってあたりに散ってしまうがゆえに。

このとき未熟なるは面目に熱き可否をかぶり、火傷はなはだしくなるもあり。気にやむべからず。可否の最初はすべて斯様なるものなれば。

 次に鼻と口をもって勢い良く香りと湯気を楽しむべし。けっして可否の液を吸い込むべからず。さだめてむせる事誤りなし。対する主人に可否と鼻汁を吹き付けるは多くは笑いて許せしことなれど、まれに激怒するもあり。避くるに危うからず。

 湯気と香りを味わいてのち右の第2指をもっておもむろに可否をかき混ぜるべし。このとき三度回転させることができたればこのときこそ可否を飲用するに最適の温度なり。

この指を持って飲用の可否を試すがゆえにこの飲み物を「可否」となずくとも聞こゆ。あながち間違いにあるまじ。

 時期を誤りては3度まわすを能わず。その熱さ脳を突くに似るも取り乱すべからず。熱さゆえに取り乱すは可否の礼を失するなり。

熱き可否に指を入れたまま、相手をまっすぐに見、「いまだ熱すぎて候、飲むことかなわず」と笑いかけるべし。決して眉間にしわなど寄せるべからず。

熱きを熱く振舞わざるがすぜけうすの礼なるがゆえに。これ、船にて体を暖めるの法に似る。

 可否にはニュウを入れるもあり。ニュウとはいかなるか。これ4足の畜類にてすぜけうすの野に住むものなり。呼んでうしとなす。うしより分泌される体液をニュウといいける。

ニュウは新鮮なるを最上とす。もって草をはむうしより採取したるが古来最上級としてすぜけうすの人の好むところなり。

されどもこれに修練かならずあり。若輩はけっしてうしに近寄るべからず。糞を踏むこと必定なるがゆえに。うしの糞、これまことくさきものなり。もし踏みつけたれば、人えんがちょまちがいなし。



続く・・・(どこに?)

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追記 (hanamizu)
2006-01-25 23:17:18
 可否にニュウ入れるは蛮国の知恵なり。可否の刺激、抑うる秘技なり。決して安価なニュウに頼るべからず、けうをう遊牧公社のニュウを使うべし。

 しゅがに置いても同様、安価なしゅがは避けるべし。時として、女人に馳走叶えばしゅがを多量に勧めることやむなし。先を思えば、男の本懐遂げる布石、と、なる場合もあります。



可否の作法は厳格なれば、常に己の軸を意識し臨むべし。
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トピックス  (いちごや)
2006-01-28 18:55:45
すぜけうすの伝統音楽「ぺんた」論

「リアルミュージックとサブミュージックたるダンスの相関」



発祥は定かではない。そもそもすぜけうすに発生したものではないという意見を近年の研究者の多くが持つ。

内陸のガンジュ岳付近の村にほとんど存在せず、げしゃ海沿岸の小さな集落にぺんたの亜流と見られる音楽が確認されていることから、げしゃ海の向こうより渡来するものとする研究者もいる。



このすぜけうすに伝わるぺんたが研究者の関心を集めるところは、その独特のリズムによる。

一般配管放送などでご覧になった方も多いと思うが、体中にTAKE(テイク)とよばれる大小の打楽器をまとい演奏(あるいは演舞)する姿は圧巻である。

一般に音域の低い打楽器は下半身に取り付けられることが多く、高音域をカバーするものほど頭部へと集中する。

足元のTAKEが大きく、頭部に近づくほど小型化するのはその発生する音域の構造によるためである。

これは下肢をほとんど動かすことなく演奏する形態からきわめて合理的といえるものではあるが、なぜ下肢を動かさない演奏スタイルとなっているのかは不明である。

すぜけうすの沿岸に集落を構える部族(?といっては差し支えるかもしれないが)に、自分達には重大な罪が課せられているという意識が強くみられることが、下肢をほとんど動かさない演奏(ダンス)の一つの理由にもなっているのかもしれない。



歴史的背景はさておき、この「ぺんた」はすぜけうすの多くの人々に愛されていることには間違いが無い。

毎年、くじら座の頭部に水王星が差し掛かるころになると、すぜけうすの中央を流れるゼンリュウ川の流木地帯に巨大なやぐらが作られる。

やぐらは流木を編んで作られるために遠目には巨大な廃木のごとくにも見えるが、近寄ってみるとその網目の美しさに圧倒される。

網目のところどころに人が一人立てるほどのステジとよばれるイス様の場所が作られる。

この場所がぺんたの演奏者の定位置となる。

今から10代ほど前、すぜけうすの人口が最も多かったころにはやぐらに立つぺんた演奏者が100人を越えることもあったというから驚く。



このやぐらはぺんた演奏者の多くすむゲシャ海の部族によってではなく、山岳部の集落にすむ多数のやぐら職人によって作られる。かれらはその作業をむしろ喜んで行っているようであり、またそれを誇りにしている様子もある。(中略)



さて、その独特のリズムに迫ってみよう。

多くは下肢につながれるもっとも大きなTAKEを震わせるように打撃することから演奏は始まる。

これはぺんた1点から18点まですべての演奏に共通する決まりとなっている。

通常、集落でのぺんたの演奏は



・・・・

あー、こんなもんで。あとはまた機会があったらねー。腹減っちゃったんで。
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外伝、無意味に壮大! (hanamizu)
2006-02-04 22:43:33
いいですね、しかも暗喩がピリッと利いています。暇があったら火曜日辺りにでも「ぺんた話」しましょう。



壮大で、笑えるから…是非!可否と共に本編に入れたいです!!
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