すぜけうすサンマ豊漁記 ④

2006-01-25 22:29:44 | すぜけうすサンマ豊漁記
 
 
 塩漬けされる衝動。空なったグラスはすぐに曇った。

 ユジャのうなされる声を聞いて、私は目が覚めた。喉の渇きのためしゃがれた声でよく聞き取れなかったが、「ノゼア」とか「ウショコォ」とか言ったようだった。どちらにしても意味は理解できなかった。何かの名前なのかもしれない。
 声の意味はともかく、私はすっかり目が冴えてしまった。額の左上に少し痛みが走った。いつの間にか眠ってしまったらしい。思いのほかアルコールが効いたようだ。
 初めてユジャの部屋を訪れた。今日、正確には昨夜なのか、もたらされた情報について相談するためだった。それにしても酔いつぶれるほど飲み、そのまま寝てしまうなんて我ながら迂闊だった。すぜけうすに来て、こんなに警戒心を解いたことがあっただろうか。その情報から考えれば、不謹慎としか言わざるを得ない。
 「この国に馴染んでしまったのか」。私は自分の行動を計り兼ねた。

 ヴッチが私とユジャのもとに現れたのは、洗浄の仕事を終えて船を離れてから間もなくだった。日はとうに暮れ、人の顔も間近でなければ分からないほどだった。ヴッチは声も上げずに近づいてきた。いつものような屈託の無さは鳴りを潜めていた。ただならぬ気配に、私たちは何かが起きたことを感じ取った。
 歩きながらではいけない、と、ヴッチは辺りを見回しながらユジャの家で事情を話したいと言った。しかも別々のルートで向かおうと提案した。私たちはすぐに了解し、それぞれ違う順路でユジャの家を目指した。船からユジャの家まではそう遠く無いが、ヴッチが一人で夜道を歩くのは危険じゃないかと思った。ユジャから聞いていた奇妙な事件のことが頭にあったからだった。
 私の取り越し苦労は、ユジャの家で3人がそろうことで解消された。しかし、取り越し苦労では済まされない事態になったことをヴッチから聞かされることになった。ヴッチと会った時点では予想もできないことだったので驚いた。山を越え、ここにたどり着くまでの自分なら、こんなことで動揺も驚きも覚えることなど無かった。やはり緊張感と無縁の環境に身を置いているせいだと狼狽した。同時に、そんな状況下で、私たちに会いにきたヴッチを軽率だとたしなめたい気持ちと、切迫した彼女の心情を斟酌していた。

 この国に入って半年。どうやってゲシャ海を渡るか、最善の選択肢を考え、出した結論が密入国者を引き取りに来る他国の船、この国でいう「漁船」だった。
 陸にしか船のないこの国では、海を渡る船を造るにも適切な資材もなければ、必要な技術や技術者もいない。自分で舟を作るにしても、大金は持ち合わせていない。できてもイカダ程度のものしか造れず、噴出す湯気の前では自分が大火傷を負うだけだ。湯気で負傷しない耐熱服を調達する考えも浮かんだが、その先がどうしてもイメージできなかった。
 漁船なら対湯気の装備も申し分ない。自分なら密入国者か船員になりすますかして、短時間の停泊でない限りは密かに船に潜り込むことができる。結論はすぐに出た。法を犯す認識や罪悪感はない。そんなものは故郷を出るときに置いて来たし、これまで通過した国々では犯罪すれすれ或いは犯罪そのものに手を染めてきた。ユジャともその点では見解の相違がなかった。彼は胸いっぱい呼吸することに飢えていたからだ。
 手段や方法は決まった。実行に移すには、漁船がいつ来るかを知ることが重要だった。市民には知らないところで、密入国者はかなり頻繁にこの国に入り込もうとしているらしい。漁船はそれを引き取りに同様に入国してくる。市民は、普段大酒をかっくらい、女・子供をからかったり、年寄りや男たちに喧嘩を吹っかけたりしている傭兵たちが、何かの合図で俄かに本職としての本分を発揮するために動き出すことで密入国者の接近や拿(だ)捕を知る。いつ漁船が来て、いつまで滞在するかは知らないのだ。
 漁船は示し合わせたように拿捕と同時に来ることもあれば、数日置いてやって来ることもある。引き取ってすぐに自国に帰るかと思えば、何週間も滞在していることもあるのだという。船員は陸の船に来て体を洗い、市場へ買い物にも来るが、市民と会話を交わすことは極力禁止されているらしく情報が入らない。まして寝泊りはすべて船内だ。滞在期間を知る術も無い。漁船の規模すら到着してこの目で見るまで分からない。
 私たちが危険を冒す以上、周到な準備が必要だった。そのためには情報がいる。漁船がいつ来て、どのくらい停泊するか、できれば船の規模も事前に把握しておきたかった。それらを知る必要があった。
 その答えは、向こうからやってきた。ユジャの幼な馴染みであるヴッチがいた。彼女の家は漁船相手の仕事を生業にしている。幸運が自分の目の前にあった。そのはずだった。
 しかし二つの問題があるために、半年近い月日をこの澱んだクレーターの中で過ごすことになった。
 一つは、ヴッチのつかめる情報も市民とほとんど変わらないということだ。拿捕と同時の引き取りを除いて、必要な情報をつかむには彼女の父親から情報を聞き出さなくてはならなかった。
 しかもヴッチと父親の関係は、彼女に言わせれば「あまり良くない」のだという。恐らくは彼女本人の申告より割り増して考える必要がある。つまり、険悪、絶縁状態まで想定しなくてはならないだろう。仲睦まじい親子であり、彼女が父親の仕事を手伝うような立場なら話は早かった。成り金野郎とその金に惚れた女との間に生まれた、世間知らずで何の苦労もなく育ったお嬢様。そんな相手一人騙しおおせるのに大した策を労する必要はなかった。
 もう一つがさらに問題だった。彼女も私たちと一緒に国を出ると言い出したのだ。最初の問題を考えれば、想像できない話ではない。しかし余りに危険だ。彼女が国を捨てたいと思っていることを、父親が知らないはずはない。彼女はこれまで、父親がそう考えるヒントを相当与えて来たに違いない。出会って彼女と話した数々の会話の中で、私自身がそう判断した。反発する娘が漁船の来航を尋ねたら、父親が怪訝に思わないはずがない。せっかく差し込んだ一条の光が、再び消えてしまうことになりかねない。
 だから私は彼女に条件を出した。当分の間、父親との関係修復に努めること、そしてこちらが判断したその時期がきたら父親に悟られないよう漁船の来航など必要な情報をつかむこと。これが果たせたら出国に同行してもいい。
 彼女にしてみれば、自分が出国のチャンスを作り出す女神でこそあれ、条件など出される覚えはないと憤慨してもいいはずだ。しかし彼女はこの約束に同意した。彼女もまたユジャと同じくこの国から離れることを渇望しているようだ。そしてそのことで、私は彼女が世間知らずのお嬢様ではないと思った。
 本来なら、ユジャもヴッチも私には全く無関係な人間だ。二人をうまく操り、自分だけ海を渡ればいいだけの話だ。
 しかし、集団密入国は政治的、社会的に重大な犯罪であり、漁船は政府直属の機関だ。1個人の漁船への不法潜入、不法出国とは訳が違う。かなりの危険が伴う。ましてヴッチの家に雇われた傭兵という物騒な輩もいる。漁船の船員だって、単なる船乗りや政府職員でないことは明らかだ。一人で目立たないように動けば、うまくできる自信はあったが、どうしても協力者が必要だった。その意味で今回は特別に3人で動くことにしたのだ。そう自分に言い聞かせている。何か腑に落ちないものは感じているにしても。
 そうやって慎重に策を講じていたと思っていたら足元をすくわれた。ヴッチによれば、彼女の父親はすべてお見通しだという。
 私が彼女の話で聞いていた以上に狡猾な男らしい。もっとも外交上の問題を避けるために、他国との違法な密入国者の売買を、国家に成り代わって実行する立場の人間なら当然と言えば当然だった。こちらが浅はかだったと言わざるを得ない。政治や権力を握る連中と言うのは、私の想像を遥かに越えた領域で行動しているのだろう。口惜しいと思いつつ、納得もした。
 いずれにせよ、新たに生じた問題をクリアしなければ、私たちの計画は頓挫する。諦めるわけにはいかない。私たちは、ユジャの部屋で沈黙した。その時間がどのくらいだったかは分からない。私は沈黙を破り、とりあえずヴッチがこの場にいることは状況を悪くさせるいっぽうだと言った。三人別々にここに来たからと言って、傭兵たちをまけたとは考えにくい。彼らは闇に乗じて動くのも心得ているはずだと。ユジャもヴッチもうなずき、ヴッチは一人で帰宅することになった。あとは私とユジャで相談するからと言った。具体的な打開策は見つかりそうになかったが、そう言うしかなかった。
 ヴッチの帰り際、ユジャは玄関先まで彼女に付いていき、この国の言葉で何か言葉を掛けていた。言語の意味は分からなくてもユジャが鼻につく甘ったるい言葉で、彼女をなだめ、愛をささやいているのがニュアンスで分かりすぎるほど分かった。
 こうなればヴッチはこの国にとどめて父親の視線をそらし、或いは彼と取り引きしてでも二人の、私だけの出国に目をつぶってもらうしか道はない気がした。問題なのは、私とユジャ二人が出国する場合にしても、ユジャのヴッチに対する男女の感情がそれを邪魔するに違いないということだ。そうなれば私一人でも出国する。そう腹を決め、私はユジャに本意を告げずに今後のことを話し合った。結論の出ない、無意味な話をするには、酒が必要だ。私はユジャをうながして、杯を傾けた。

 そして目が覚めた。時間が知りたかった。外は漆黒の闇で、夜明けがいつ訪れるのかも分からなかった。ユジャは先ほどの悪夢とは無縁の安らかな寝息を立てていた。ヴッチと離れ離れになる夢でも見ていたのか。それとも漁船の潜入がばれて八つ裂きにされる自分の映像でも眺めていたのだろうか。
 それはともかく、このままユジャの家にいていいものか。自分のねぐらに帰るべきか。傭兵たちのことを考えると、寝静まった町を一人で歩くことは危険ではないか。「ただでは済まさない」というヴッチの父親が先手を打ってくる可能性もある。もしそうなら、ここに二人でいること自体、非常に危険なことだった。そう思うと、身震いがした。自然に尿意を催した。
 起き上がって部屋を見回す。少し暗さに慣れ、窓から漏れる街灯の僅かな光に照らされた酒瓶や、インテリアなのか食器なのか分からない金属類がうっすら見える。しかしトイレはどこにあるのか知らなかった。
 仕方なく玄関に向かってみることにした。ユジャを起こさないよう、酒瓶やらコップやらを踏んづけたり、家具に足をぶつけたりしないよう歩いた。慎重になりすぎてなかなか前へ進めない。玄関まであと1㍍というところまで進むのに1分以上かかった気がする。表情を捉えることはできないが、振り返るとユジャの寝息が聞こえた。ぐっすりと眠っているようだ。
 どうして自分がユジャに気を遣わないといけないのかと、苛立ちながら振り返り、右足を前に出した瞬間、すねに角のある固いものが当たった。少し勢いがついたせいで、思わずうめき声を上げそうになった。痛みが走った。長方形のテーブルに足を打ちつけた。打ったと同時にテーブルは前方へ動き、玄関脇のクローゼットに衝突し、鈍くごつんと音を立てた。
 「畜生」と叫びたい気持ちをこらえ、振り返ってユジャが起きたか確認してみた。思ったほど音はしなかったようで、彼が目覚める様子はなかった。寝息は止んだ気がした。痛みが優先して、聞き取れなかっただけかもしれない。
 前方に目を遣った。テーブルが当たった拍子にクローゼットのプリーツが少し開いていた。開いた先をよく見ると、ぼんやりとだが奥がほの赤く光っていた。先ほどよりずっと早く近付くことができた。どうやらそれは電気の灯りで、布か何かで覆われているためにぼんやりとして弱いものの、その布らしきもの全体を照らしているようだ。よく見るとゆっくりと点滅しているようだった。
 私はユジャが掃除機でも充電しているのかと考えた。それにしては部屋が清潔とはいいがたい。部屋に似つかわしいほど大きい掃除機だとも思って打ち消した。
 どうやら光の正体を覆っているのは薄手のタオルケットらしい。めくればそれが何か分かると思い、タオルケットに手を掛けた。持ち主に内緒で中身を見ることに後ろめたさが湧いたのは一瞬で、心地よく眠るユジャを起こすのも悪いし、このまま中身が何かを知らないのも気持ち悪いからと、右手でぐいとたぐって一気にタオルケットを引き剥がした。
 「…」。
 それは確かに掃除機みたいな構造だったが、用途は違うようだ。掃除機の本体のようなものは人が肩にかけて操作するようなストラップが付いている。本体自体はカメムシみたいな変な形で、その中央にある丸い液晶が赤く点滅していた。操作レバーみたいなものが数本取り付けられ、ボタンやスイッチみたいなものが幾つかある操作盤風の板が搭載されていた。そこに接続するようにホースのようなものがあった。長さは見当もつかない。直径は大人の腕一本が入るぐらいか。素材はビニールではなく、もっと繊細で丈夫なもののようだ。その先端がシャワーのノズルのようになっている。その少し手前にはライフル銃に付いている柄のようなものが付いていた。
 いったい何に使うのか。そういえば船のどこかでこんな機械が使われていたような気がする。部品の一つ一つをよく見てみると、船内で見たことがあった。暗くてはっきり分からない。しばらく眺めていた。
 ふと我に返り、ぞくりとした。背中に凍りつく視線を感じた。恐る恐る振り返ると、闇の中で人の上半身が浮き上がり、こちらをじっとうかがっていた。
 「ユジャ」。
 突然のことで何を言っていいか分からず、思わず名前を呼んだ。返事はなかった。窓に背中を向けている格好で、ユジャの表情も目も窺い知ることはできなかった。ただ、彼がこちらを見ているのだけは分かる。私は言葉を出せず、急に得体の知れない、触れてはいけない何かに触れてしまった気持ちになった。
 ユジャから悲しみや恨みに似た感情がじわりじわりと滲んでいるようだった。私はしばらくその場に立ちつくしていた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿