勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編ー3」
― 長谷川圭一
「3」の表題はーただの物理的な反射に過ぎないーである。
小田原郊外の山頂の家に落ち着いた主人公は、妻と生活した広尾のマンションに「まだ置いてある自分の荷物を取りに行く」と、会社で仕事をしている妻に電話した。すると妻は主人公に何度も携帯に電話したがつながらなかった事を話した。
それで主人公は広尾のマンションを出てからのいきさつを説明した。
「でも、とにかく無事だったのね?」
「死んだのは車だ」
ユズはしばらく黙っていた。それから言った。「このあいだ、あなたが出てくる夢を見た」
主人公の夢、妻の夢、やはりこの物語の深層での繋がりを感じさせる。
妻は言う。「ねえ、最初にデートしたとき、私の顔をスケッチしてくれたことを覚えている?」・・・・「ときどきあのスケッチを引っ張り出して見ているの。素晴らしくよく描けている。本当の自分を見ているような気がする」
実は私も本当の自分を描いてもらいたくて、2017年2月26日、湯島天神の「梅まつり」で、似顔絵を描いていた東大まんがクラブの女子学生に自分の似顔絵を描いてもらった。まさに雰囲気と内面がそこに浮き出ていた。
46年前、1971年10月31日、銀座中央通りで、チャリティーで肖像画を描いていたアンパンマンの作者、やなせたかし氏に描いてもらってから、二度目であった。当時27歳で、教師3年目で色々悩んでいた時期であった。そのときの自分の心がその画にはにじみ出ていた。まさにその時の本当の自分を感じられる。
その事があって再び似顔絵、今では73歳、を描いてもらおうと思ったのだ。そして帰ってからそのコピーをある人に送った。本当の自分を知ってもらいたいために。
話はまた本題に帰るが、電話の二日後に主人公は車で広尾のマンションに行く。妻は会社に行っていていなかった。
主人公が自分の持ち物を選ぶ際の描写も面白い。「封を切っていないコンドームの箱がそのまま残っていた」の描写には思わず笑ってしまった。
その部屋で30分程、必要な物を選び取っている時主人公はふと部屋の静かさを気にする。「私は沈黙の中で耳を澄ませ、水深を測るおもりを垂らすみたいに部屋の気配を探った。」
ここにも春樹独特の表現がある。
主人公は小田原に戻り、肖像画を取り次ぐエージェントに、仕事の打ち切りを告げる。それから新しく住むことになった、友人雨田(あまだ)政彦の父の家を説明する。
「家は洋風のコテージで、色あせた煉瓦造り煙突がスレートの屋根の上に突き出ていた。平屋建てだが、屋根は意外に高かった。
ここでスズメバチの話が挿入される。「刺されて亡くなった人もいる」という話をその家の管理を任されていた中年の女性から聞く。これもこの物語の重要な伏線となる。
家を案内する雨田政彦から、政彦の父がウィーンに留学している頃、オペラが好きで、歌劇場に通い詰めていた事を知らされる。このあたりから物語の本題の一端に触れていく。
小田原で生活の手段として、雨田政彦から小田原駅前のカルチャー・スクールを紹介され、週二回、絵画教室の先生をすることになる。そしてそこで生徒である人妻と性的関係を持つようになる。
まさに忌まわしい行為である。先に述べた熊に襲われて死んだ老人の話に対して抱いた嫌悪が蘇る。
だが、ここでも「許される行為だったかどうか、判断に苦しむところだ。・・・自分のやっていることが正しいことなのか、それを判断するような余裕は、そのときの私にはなかった。私は材木につかまって、流れのままに流されていただけだった。・・・」
まさに主人公の状況をここでも冷徹に描いている。そして、この本のタイトル「騎士団長殺し」に触れる。