勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編―5」
― 長谷川圭一
「5」の表題はー息もこときれ、手足も冷たいーである。
この表題は最後に記されているが、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」で歌われる歌詞で、殺された父の躯(むくろ)に対して、娘、ドンナ・アンナが歌ったものである。
この家の持ち主で、今では伊豆高原の施設に入っている雨田具彦(あまだともひこ)画伯に強い興味を持つようになり、画伯の息子、主人公の友人である雨田政彦に電話で聞くと、父のウィーンでの生活はどうでも良い話以外は何も聞いていないという。ナチのゲシュタポが暗躍していた時代である。
政彦は父の事を電話で次の様に告げた。
「雨田具彦はおれにとっちゃただの気むずかしい面倒なおっさんにすぎなかった。」
ここでふと、純文学―もし、その言葉にこだわりを持つ人がいるとすればーとはかけ離れたものを感じるのではないかと思った。このあたりが、春樹氏の春樹氏たる所である。
そしてこの章で「騎士団長殺し」の絵が発見される。それは屋根裏に隠されていた。天井裏の怪しい物音を調べるために天井裏に上って発見した絵であった。
ここから「騎士団長殺し」という絵がこの物語の前面に押し出されてくる。
「一幅の日本画だった。横に長い長方形の絵だ」
ドンファンのドンジョバンニが、若く美しいドンナ・アンナを手に入れようとするのを阻止しようとした娘の父騎士団長がドンジョバンニに剣で刺され絶命寸前の絵であった。
そしてこの絵に春樹氏は春樹氏ならではの工夫をする。即ち、この歌劇のシーンとは全く関係のない「顔なが」と名付けた奇妙な男を登場させる。ここでこの物語の骨格がほぼ示された事になる。
その顔ながについて「まるで彼が(地中から顔を出す細長い顔をした人物)蓋を開けて、私を個人的に地下の世界に誘っているような気がした・・」
ここでこの絵と主人公の奇妙なつながりが暗示されいよいよ、物語の世界に踏み込んでいく。