自作の俳句

長谷川圭雲

0809健太郎日記・勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編―5」ー長谷川圭一

2017-06-30 09:48:07 | 自作の俳句

          勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編―5」

                   ― 長谷川圭一

 

「5」の表題はー息もこときれ、手足も冷たいーである。

 この表題は最後に記されているが、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」で歌われる歌詞で、殺された父の躯(むくろ)に対して、娘、ドンナ・アンナが歌ったものである。

 この家の持ち主で、今では伊豆高原の施設に入っている雨田具彦(あまだともひこ)画伯に強い興味を持つようになり、画伯の息子、主人公の友人である雨田政彦に電話で聞くと、父のウィーンでの生活はどうでも良い話以外は何も聞いていないという。ナチのゲシュタポが暗躍していた時代である。

 政彦は父の事を電話で次の様に告げた。

「雨田具彦はおれにとっちゃただの気むずかしい面倒なおっさんにすぎなかった。」

 ここでふと、純文学―もし、その言葉にこだわりを持つ人がいるとすればーとはかけ離れたものを感じるのではないかと思った。このあたりが、春樹氏の春樹氏たる所である。

 そしてこの章で「騎士団長殺し」の絵が発見される。それは屋根裏に隠されていた。天井裏の怪しい物音を調べるために天井裏に上って発見した絵であった。

 ここから「騎士団長殺し」という絵がこの物語の前面に押し出されてくる。

「一幅の日本画だった。横に長い長方形の絵だ」

 ドンファンのドンジョバンニが、若く美しいドンナ・アンナを手に入れようとするのを阻止しようとした娘の父騎士団長がドンジョバンニに剣で刺され絶命寸前の絵であった。

 そしてこの絵に春樹氏は春樹氏ならではの工夫をする。即ち、この歌劇のシーンとは全く関係のない「顔なが」と名付けた奇妙な男を登場させる。ここでこの物語の骨格がほぼ示された事になる。

その顔ながについて「まるで彼が(地中から顔を出す細長い顔をした人物)蓋を開けて、私を個人的に地下の世界に誘っているような気がした・・」

 ここでこの絵と主人公の奇妙なつながりが暗示されいよいよ、物語の世界に踏み込んでいく。


0809健太郎日記・勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編ー4」-長谷川圭一

2017-06-22 09:25:10 | 自作の俳句

           勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編―4」

                   ― 長谷川圭一

 

 「4」の表題はー遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見えるーである。

 妻のユズの下を去り、車で北海道まで放浪し、帰ってきて、空き家となっていた友達の父の家に住み始めて、画家には恵まれた環境の中、肖像画を捨て、本格的な自身の絵を試みるが、「どれだけ長くキャンパスの前に立って、その真っ白なスペースを睨んでいても、そこに描かれるべきもののアイデアがひとかけらも湧いてこなかった。」

 そういった中での人妻との不倫であった。その状態を作者は次の様に表現する。

「オペラの創作に行き詰っていた時期について、クロード・ドビュッシーは『私は日々ただ無(リアン・rien 仏語、何も~)を制作し続けていた』とどこかに書いていた。」と主人公に言わせる。そしてリアンに過ぎない性行動を描く。

 そしてその家の持ち主で今は、伊豆高原の養護施設に入っている雨田具彦(あまだともひこ)画伯への関心を募らせ、小田原の図書館で調べる。

 そして雨田画伯がヒットラーが政権を取った時代にオーストリア・ウィーンに滞在していた事を知る。

 実はこの体験が「騎士団長殺し」の絵に隠された作者の深い苦悩を示すものであったのだ。

 この章で作者はこの物語の副主人公とも言える人物の登場を暗示する。

主人公の住む家の、谷間を挟んだ向かい側の瀟洒(しょうしゃ)な家に一人住む謎の人物である。

「その人物がほどなく私の人生に入り込んできて、わたしの歩む道筋を大きく変えてしまうことになろうとは、もちろん想像もしなかった。」


0809健太郎日記・勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編ー3」ー長谷川圭一

2017-06-17 09:55:23 | 自作の俳句

         勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編ー3」

                   ― 長谷川圭一

 

「3」の表題はーただの物理的な反射に過ぎないーである。

小田原郊外の山頂の家に落ち着いた主人公は、妻と生活した広尾のマンションに「まだ置いてある自分の荷物を取りに行く」と、会社で仕事をしている妻に電話した。すると妻は主人公に何度も携帯に電話したがつながらなかった事を話した。

それで主人公は広尾のマンションを出てからのいきさつを説明した。

「でも、とにかく無事だったのね?」

「死んだのは車だ」

 ユズはしばらく黙っていた。それから言った。「このあいだ、あなたが出てくる夢を見た」

 主人公の夢、妻の夢、やはりこの物語の深層での繋がりを感じさせる。

 妻は言う。「ねえ、最初にデートしたとき、私の顔をスケッチしてくれたことを覚えている?」・・・・「ときどきあのスケッチを引っ張り出して見ているの。素晴らしくよく描けている。本当の自分を見ているような気がする」

 実は私も本当の自分を描いてもらいたくて、2017年2月26日、湯島天神の「梅まつり」で、似顔絵を描いていた東大まんがクラブの女子学生に自分の似顔絵を描いてもらった。まさに雰囲気と内面がそこに浮き出ていた。

 46年前、1971年10月31日、銀座中央通りで、チャリティーで肖像画を描いていたアンパンマンの作者、やなせたかし氏に描いてもらってから、二度目であった。当時27歳で、教師3年目で色々悩んでいた時期であった。そのときの自分の心がその画にはにじみ出ていた。まさにその時の本当の自分を感じられる。

 その事があって再び似顔絵、今では73歳、を描いてもらおうと思ったのだ。そして帰ってからそのコピーをある人に送った。本当の自分を知ってもらいたいために。

話はまた本題に帰るが、電話の二日後に主人公は車で広尾のマンションに行く。妻は会社に行っていていなかった。

 主人公が自分の持ち物を選ぶ際の描写も面白い。「封を切っていないコンドームの箱がそのまま残っていた」の描写には思わず笑ってしまった。

 その部屋で30分程、必要な物を選び取っている時主人公はふと部屋の静かさを気にする。「私は沈黙の中で耳を澄ませ、水深を測るおもりを垂らすみたいに部屋の気配を探った。」

 ここにも春樹独特の表現がある。

 主人公は小田原に戻り、肖像画を取り次ぐエージェントに、仕事の打ち切りを告げる。それから新しく住むことになった、友人雨田(あまだ)政彦の父の家を説明する。

「家は洋風のコテージで、色あせた煉瓦造り煙突がスレートの屋根の上に突き出ていた。平屋建てだが、屋根は意外に高かった。

 ここでスズメバチの話が挿入される。「刺されて亡くなった人もいる」という話をその家の管理を任されていた中年の女性から聞く。これもこの物語の重要な伏線となる。

 家を案内する雨田政彦から、政彦の父がウィーンに留学している頃、オペラが好きで、歌劇場に通い詰めていた事を知らされる。このあたりから物語の本題の一端に触れていく。

 小田原で生活の手段として、雨田政彦から小田原駅前のカルチャー・スクールを紹介され、週二回、絵画教室の先生をすることになる。そしてそこで生徒である人妻と性的関係を持つようになる。

 まさに忌まわしい行為である。先に述べた熊に襲われて死んだ老人の話に対して抱いた嫌悪が蘇る。

 だが、ここでも「許される行為だったかどうか、判断に苦しむところだ。・・・自分のやっていることが正しいことなのか、それを判断するような余裕は、そのときの私にはなかった。私は材木につかまって、流れのままに流されていただけだった。・・・」

 まさに主人公の状況をここでも冷徹に描いている。そして、この本のタイトル「騎士団長殺し」に触れる。


0809健太郎日記・勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編―2」ー長谷川圭一

2017-06-14 10:27:41 | 自作の俳句

        勝手に春樹讃歌「騎士団長殺し・顕れるイデア編・2」

                   ― 長谷川圭一

 

「2」の表題はーみんな月に行ってしまうかもしれないー、である。まさに春

樹節の真骨頂である。

 妻から突然切り出された離婚の一方的な通告。それは妻の見た夢に起因していた。

「どんな夢?」、と主人公は妻に問う。

「悪いけど、その内容はここでは話せない」

「夢というのは個人の持ち物だから?」と、主人公は真面目に問う。

 まさにこういった個所が、作品の一服の清涼剤となる。

 妻は他の男と寝ていて、それを主人公である夫に告げるが、「でもそれはいろんなものごとのうちのひとつに過ぎない」と言う。そして、この部分は殆ど漢字が使われていない。作者が作品で意図するものが隠されているのかもしれない。

 そして主人公はその日のうちに家を出て行く。夫が出て行こうとドアノブに手を置いたとき、妻はぽつりと言葉を投げた。

「もしこのまま別れても、友達のままでいてくれる?」

 主人公は妻の意図を掴めないまま家を出て行く。行く当てもないままに。

 使い古した車を走らせながら、ホテルや旅館に泊まりながらただただ車を走らせ、新潟、秋田、青森、そして北海道まで来てしまった。

 途中主人公の生業(なりわい)である、肖像画描きの代理人から電話が入るが、仕事を断わって、持っていた携帯を川の中に投げ捨て、次の様に心の中でつぶやく。

「(代理人にたいして)申し訳ないが、あきらめてもらうしかない。月に行ったとでも思ってもらうしかない。」

 苫小牧の床屋で久しぶりにテレビのニュースを見ていて、キノコ採りをしていた老人が熊に襲われて死んだことを知る。

「熊に惨殺された老人に対する同情心はなぜか湧いてこなかった。その老人が経験したであろう痛みや恐怖やショックを思いやることもできなかった。というか、老人よりもむしろ熊の方に共感を覚えたくらいだった・・」

 この部分に恐らく読者はショックと共に嫌悪を覚える。だが、作者は言う「おれはどうかしている・・・」。

 まさに作者は読者の嫌悪感を承知した上で、主人公の心の中の状況を表現したものと思われる。

 そしてこの物語の隠れた核となる、三歳違いの十二歳で死んだ妹の思い出を話す。そして妻との関係。

「妻の名前は柚(ゆず)といった。料理に使うゆずだ。ベッドで抱き合っているとき、私は冗談でときどき彼女のことを「すだち」と呼んだ。・・・彼女はそのたびに笑い、でも半分本気で腹を立てた。

「すだちじゃなくて、ゆず。似ているけど違う」

 主人公は一ヶ月半の放浪から、東京に戻り、住む家を探し、小田原の今は空き家になっている友達の家を紹介され、そこに住むことになった。いよいよ物語の中へと入って行く。


0809健太郎日記健太郎の創作・自作の俳句(長谷川圭雲)(580)(581)(582)

2017-06-12 11:36:37 | 自作の俳句

自作の俳句(長谷川圭雲)(580)(581)(582)

 

  心破(や)れ 春樹の騎士が 我救う 

               (2017・4・1)

*** 村上春樹の「騎士団長殺し」を買った。壊れた心がまさに春樹の最新作「騎士団長殺し」によって救われたのだ。作品が私の心をストーリーに引き込んでくれることによって。

 

  六義園 古木のしだれ 大見得(おおみえ)か 

               (2017・4・3)

*** 文京区駒込の日本庭園「六義園(りくぎえん)」に入ると正門近くのソメイヨシノの一本の古木が見事な花をつけていた。その姿はまさに歌舞伎役者が大見得をきる姿に見えた。

 

  淵染める 千鳥の桜 人も染め 

            (2017・4・4:千鳥ヶ淵緑道にて)

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ハセケイ コンポジション(252)・hasekei composition(252)