ヨーロッパではアイスランドやマルタ、キプロスと言った島国を除けば、ほとんどの国がどこかに陸続きの国境を持っている。イギリスも北アイルランドとアイルランドとの間には陸続きの国境がある。合法的に国境を越えるためには国境に設置されている検問所をとおり入国審査を受け、入国許可を得なければならない、その時に自身の国籍を証する旅券(パスポート)を提示しなければならないのは大体どこでも同じ。EUのように、ヒトとモノの移動を自由にしているような場合には、これらの手続きは不要だ。EUが人の往来の自由を認める前でも、いわゆる西欧諸国の場合にはある程度簡素化されていたし、また、日本人が日本のパスポートを提示して本人と確認されれば、そして入国の目的が商用や観光など妥当であれば自動的に入国を許可された。さらに言えば、観光客としてカネを落としてくれるということでは歓迎もされていた。
これまで仕事や観光などで数えきれないくらい国境を越えた。その大部分は飛行機に乗って空港に着き。入国審査を受けるものであり、陸路での国境越えは必ずしも多くはない。そんな国境越えで自分の中でひとつ記憶にあるのはドイツ統一前の西ベルリンから、東ベルリンを訪れた時のことだ。
東ドイツの中にポツンと浮かぶ小島のようなベルリン市が東西に分けられ、その周囲にかつてのソ連がコンクリートの壁を建設して周囲の東ドイツ領と遮断したのが1960年代。この離れ小島の中は厳密にはソ連、アメリカ、フランス、イギリスがそれぞれ管轄地域を持っていたが、ソ連以外の3か国の地域はお互いに往来は自由だった。西ベルリン市内には一応「ここからイギリス管轄地に入る」と言うような表示がしてあったが、それは国境と言うようなものではない。それが、ソ連の管轄地域だけは別になっていた。
この西ベルリンから東ベルリンに移動するということは当時の西ドイツから東ドイツと言う別の国に移動することを意味する。このための検問所がアルファベット名でいくつか設けられており日本人が通過出来るのはチェックポイントC(チャーリー)だった。ここで所定の東ドイツマルクに交換(実際には価値は全く違うのだが、形式上、西ドイツマルクと東ドイツマルクは等価)する。この東ドイツマルクを持ち帰ることはできないし、仮に持ち帰っても、交換性がないから無価値だった。それから審査受けて問題がなければ曲がりくねった迷路のような通路を通て東ドイツに入る。まだ東西冷戦が厳しかった時だから、入国後にはどうなるかと言う不安があった。仕事が終わったら一刻も早く帰りたい、と思ったものだ。最初に東ベルリンすなわち東ドイツに入った時には恐ろしい秘密警察の話を色々と聞かされていたので、とにかく無事に戻れるように最大限の注意を払った。どんな嫌疑がかけられるかわからない、と言う恐怖心があったから。
当時の東側、すなわちソ連の衛星国としての共産党独裁、社会主義の国は、ソ連に食い物にされ、搾取にあえいでいたと言っても過言ではない。ソ連およびその威を借りて特権を享受していた各国共産党員に対する庶民の不満は極めて大きかった。ただ、秘密警察を恐れて、表立って口にすることはできない。そんな憂さ晴らしに多くの、ソ連や共産党を嘲笑するジョークが生まれていた。
その一つ。ソ連の共産党書記長が東ドイツを訪問した。東ドイツ共産党はドイツの技術を結集した結果、あの世につながる電話機を開発した、と自慢する。聞いた書記長が是非にと言ってそこから今は亡きソ連指導者に電話をする。感度は良くないがゆっくり先輩と話をして満足した書記長はこんな便利なものがあるのならモスクワに持って帰りたい、と。東ドイツ側は、それでは無料で進呈します。しかし、通話料は別途お支払いいただきたい。請求された通話料は高額だったので東ドイツ側に照会してみると、あの世までは長距離通話なので、料金が高いのです、と言う返事。書記長は気前よく支払って勇んでモスクワ持ち帰った。そしてまた、そこからあの世の先輩に電話でいろいろ相談をする。通話の感度も良くまるですぐ近くで話しているようだった。そのため、書記長は電話料金のことが気になり、部下に料金の確認をするようにと指示。しかし、東ドイツから請求された電話料金はベルリンの時と違って極めて安い。そして請求書には、モスクワからあの世への電話は「市内通話料金」とあった。ソ連共産党のかつての指導者が行ったあの世とは地獄の事であり、この世の地獄であるモスクワからの電話は市内通話だった、というオチである。
国境とは人為的に設定されたものにすぎない。いつでも変わりうる、と言うのは歴史が示している。かつての東西ドイツの国境は消滅してしまった。EUの基本哲学はヨーロッパの国境をなくすると言うものだったが、イギリスの離脱はまさにこれに逆行している。さらには軍事力を背景に国境線を変えようとしている中国のような国もある。国境と言うのはある意味、人類の愚かさの象徴であるのかもしれない。
東ベルリンに一泊し翌日西ベルリンに戻る前にホテルで何か土産はないかと見まわしたら、売店の隅の方に赤い花瓶が置いてあった。交換した東ドイツマルクで何か買い物をしなければ没収されるのではないかと思ったので、色の綺麗なその花瓶にした。真偽のほどはわからないが、そして記憶違いかもしれないが当時西側諸国では使用が禁止されていた金属化合物が含まれており、そのために鮮やかな色のガラス製品が出来ている、と言う話もあった。戸棚の奥に飾っておいたが、30年以上経って体に異常を覚えていないので、仮にそうだとしても健康被害はなかった(と言える?)
この花瓶は、2011年の東日本大震災の際、棚から落ちて一部が欠けてしまった。そのため骨董品としての価値はないが、最初に東ベルリンに入った記念の品ではある。その後仕事で何度か東ベルリンを訪れたが、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツの統一、東ドイツの消滅後にベルリンを訪れたことはない。
東ドイツ製手彫りの花瓶(Handgeschliffen、Made in GDR -German Democratic Republic)
Made in GDR のシール