今朝午前5時50分、NHK FMからバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」が流れてきた。
音楽は聴くものではあるが、どこで聴いても同じということはない。ロンドンにいた時にイギリス国内はもとよりヨーロッパ各地に出張したとき、空き時間ができれば、歩いて行ける近くの教会に寄ってみるようにしていた。どこでも教会は誰でも入れてくれるし、建物自体が歴史をもち、静謐、そして安全があり、また、ステンドグラスが美しいところがいくつもあるから。そんな時、偶然にパイプオルガンの演奏時間にでも遭遇できればこんなに幸運なことはない。あらゆる楽器の中で、パイプオルガンの音は圧倒的な響きを持つ。まるで天から降り注ぐ荘厳な音の雨、ということも言えるし、長く尾を引く余韻はに聞いている者の思考を一層の深みにまで引き込む力がある。パイプオルガンは教会建物と一体化して、教会の建物自体が楽器として音を奏でている(ような気がする)。
オルガン曲の中で、たぶん大多数の人が同意するだろうが、バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」の冒頭ほど劇的で心に訴えかけるものはない。天上から有無を言わせない迫力で、宗教に関係なく、人間の体の中で共鳴を呼び起こすような響き。とくにこれを、東欧の大きな教会、たとえばウイーンの聖シュテファン寺院、プラハの聖ヴィート大聖堂、ブダペストの聖イシュトバーン大聖堂などで聴いた時の感動は言葉にはできない。予めアナウンスなどはないから、なんという気もなしに入っていって、不意打ちのようにこのフーガが始まると、一瞬あたりが何も見えなくなるほどの、よろけてしまいそうな衝撃を受ける。もし、敬虔なキリスト教徒ならそこにまぎれもなく神の啓示を見出すのだろうし、宗教にかかわりなく、音楽を味わう喜びに触れた気持ちにさせられる。このフーガは冒頭の数分だけでも圧倒されるが、全曲聴いても10分程度で、出張の空き時間を見つけて訪れたあまり時間もないときでも、最後まで聞き終えることが出来る、凝縮された曲だ。
教会については、イギリスでの聖堂(寺院)としてはロンドンにあるセントポール寺院が、サンピエトロ寺院に次ぐ世界第二位の規模の大教会でありロンドンの中心部に位置することから有名であるが、イギリス国内での格式では、ケント州にあるカンタベリー大聖堂がイギリス国教会の総本山として最も高い。カンタベリーの大主教は、カンタベリー大聖堂を主教座とするイギリス国教会の大主教であり、イギリスにおける人臣としては宮中席次第1位である(第2位は大法官、 余談だが、テレビドラマ「ダウントン・アビー」の中で、伯爵令嬢メアリーと結婚する遠戚のマシューが、単なる弁護士ということで貴族階級では見下されるところがあるが、これに対して彼が爵位を継げなくても、法律家として極めて優秀であり、最後にはこ「大法官」になるかもしれないのに、という場面がある。大法官とはそれほどの高位の役職)。
この大主教の中で個人的に印象に残っているのは、前半が自分のロンドン駐在と重なる、1980年から91年までその座にあったロバート・ランシー卿。彼は、1981年セントポール寺院で挙行されたチャールズとダイアナの結婚式をつかさどった人物でもある。オックスフォード大学から聖職の道に入ったランシー卿は、イギリスの困難な時期に教会の頂点にあった精神的な指導者と言える人物だった。
去年6月、久しぶりにロンドン近郊にある古刹、セント・オールバンズ教会を訪ねた。ここは彼がカンタベリー大主教になる前に主教をつとめたところであり、彼はこの地で2000年で癌のため死去、落ち着いた中にも歴史と、ステンドグラスや天井の美しさが際立つこの教会の墓地で今静かに眠っている。
セント・オールバンズ教会とその内部、ランシー卿の墓