気づけばもう3月も終わりに近づいています
更新出来ずにごめんなさい
もう2週間位更新してないと、気づきました
今月半ば、私の父が息を引き取りました
まだ父がいない事、どこかで信じられなく過ごしています
それでも色んな手続きはあって、母と二人、あれこれ忙しく動いている毎日
母が一人になったので、子ども達は実家に泊まってくれています
私も実家に泊まる日もあり、毎日日中は実家にいます
そのせいもあり、PCを開く事も出来ず
何より、頭の整理が出来てなかったので、何をどう打っていいのやらわからないままでした
父は、長い間、色んな病気を繰り返し、通院の日々を送っていました
私が結婚した後、自営業も引退し、体調の良い時には母と近場に出かけ、料理を趣味とし、孫に美味しいものをご馳走してくれるのを楽しみにしてくれてました
昨年肺気腫を患い、その後、ちょっと様子がおかしいと入院
検査の結果、骨髄小脳変性症と言う、難病が発覚しました
国の難病指定疾患になっています
最近では、ドラマ(1リットルの涙)で、世の中にはちょっとは知られるようになった病気みたいです
私自身ドラマも観てなかったので、父の病気発覚後、ネットで色々調べて知った病気でした
発覚後主治医の先生に説明をされた通りにあっと言う間に進行していき、年末に自宅に戻った時にはほぼ寝たきりになり、要介護4級(その後5級になりました)
自宅もリフォームし、治らない病気だけれど、進行を遅らせ、リハビリをして、せめて気候のいい季節には散歩には出ようって話してました
話す事もどんどん難しくなり、食道楽だった父なのに、食べる事も一切出来なくなり、胃ロウ(胃に直接穴を開けて管を通す)を付け、栄養剤を入れるのが食事
ただこの病気は死に至る病気では無いので、長い介護生活になるだろうと、漠然とした不安だけで、この先、どのように父に生きる楽しみ、気力を養ってもらうかをぼんやり考えてた矢先でした
超低血圧、酸素も不足していた父だったけれど、最期は自力で痰を出せなくなり、色んな要因が重なって、窒息に近い状態でした
母が気づいて救急車を呼んだ時にはもう呼吸も停止、私と旦那が母の電話で実家にかけつけた時には、隊員の方に「今の段階で心停止、呼吸も停止しています」と説明され、心臓マッサージのまま搬送されていきました
寝ていた子ども達を連れに家に戻り、病院にかけつけた後もマッサージは続き、通常30分だと先生が言われたマッサージを1時間半続けてもらいました
それでも父は戻らず、あとは家族の判断と言われ、、、
母の「もうこれ以上苦しめたくない」と言う言葉でマッサージを止めてもらい、臨終となりました
子ども達には”治らない病気”とは伝えないままの日々で、いきなり臨終に立ち合わせてしまったわけです
ただマッサージを止めてもらった父の胸が人の手形に真っ白くなっていたのだけが頭に残っています
「じーちゃん、もうしんどいから、さようならしよう」と話し、「先生の手の跡見える?」と教えて、それでも父が戻らなかった事を話しました
泣きじゃくる子ども達と一緒に泣くしか出来ず、、、
その日、日中ナゼか3号がやたらと「じーちゃん家に行く」と言い張っていたのと、8時に寝たのに8時半にものすごい夜泣きで起きたのも、全てここに繋がっていたのかと、後悔だけが今も私の中に残っています
「明日行こう」と言って引き伸ばした結果が、このさよならでした
子ども達に父と会話させないままで別れさせた事が悔やまれてなりません
その後悔があって、自分の中で整理が付かず、何をどうしていいかわからない日々で
ただ周囲の方の温かい言葉やメール等で、少しずつ私の気持ちにも変化が表れてきました
何も書かないままで更新する事も考えたのですが、書くことで少しでも自分の中で消化出来ればと、勝手な思いで書く事を決めました
関西はもうすっかり春です
毎日暖かな日が続きます
もうすぐ父の誕生日がやってきます
父の写真を持って、お花見に行こうと母が言ってます
母も父の闘病に付き合って、自由の無い生活を送っていたので、これからは少しずつ色んな所に連れ出し、それを父への供養だと思おうと話しています
読み辛い文章を書き連ねてしまい、ごめんなさい
でもこうしてここに書く事で、また少し前進出来るかなぁと思っています
更新出来ずにごめんなさい
もう2週間位更新してないと、気づきました
今月半ば、私の父が息を引き取りました
まだ父がいない事、どこかで信じられなく過ごしています
それでも色んな手続きはあって、母と二人、あれこれ忙しく動いている毎日
母が一人になったので、子ども達は実家に泊まってくれています
私も実家に泊まる日もあり、毎日日中は実家にいます
そのせいもあり、PCを開く事も出来ず
何より、頭の整理が出来てなかったので、何をどう打っていいのやらわからないままでした
父は、長い間、色んな病気を繰り返し、通院の日々を送っていました
私が結婚した後、自営業も引退し、体調の良い時には母と近場に出かけ、料理を趣味とし、孫に美味しいものをご馳走してくれるのを楽しみにしてくれてました
昨年肺気腫を患い、その後、ちょっと様子がおかしいと入院
検査の結果、骨髄小脳変性症と言う、難病が発覚しました
国の難病指定疾患になっています
最近では、ドラマ(1リットルの涙)で、世の中にはちょっとは知られるようになった病気みたいです
私自身ドラマも観てなかったので、父の病気発覚後、ネットで色々調べて知った病気でした
発覚後主治医の先生に説明をされた通りにあっと言う間に進行していき、年末に自宅に戻った時にはほぼ寝たきりになり、要介護4級(その後5級になりました)
自宅もリフォームし、治らない病気だけれど、進行を遅らせ、リハビリをして、せめて気候のいい季節には散歩には出ようって話してました
話す事もどんどん難しくなり、食道楽だった父なのに、食べる事も一切出来なくなり、胃ロウ(胃に直接穴を開けて管を通す)を付け、栄養剤を入れるのが食事
ただこの病気は死に至る病気では無いので、長い介護生活になるだろうと、漠然とした不安だけで、この先、どのように父に生きる楽しみ、気力を養ってもらうかをぼんやり考えてた矢先でした
超低血圧、酸素も不足していた父だったけれど、最期は自力で痰を出せなくなり、色んな要因が重なって、窒息に近い状態でした
母が気づいて救急車を呼んだ時にはもう呼吸も停止、私と旦那が母の電話で実家にかけつけた時には、隊員の方に「今の段階で心停止、呼吸も停止しています」と説明され、心臓マッサージのまま搬送されていきました
寝ていた子ども達を連れに家に戻り、病院にかけつけた後もマッサージは続き、通常30分だと先生が言われたマッサージを1時間半続けてもらいました
それでも父は戻らず、あとは家族の判断と言われ、、、
母の「もうこれ以上苦しめたくない」と言う言葉でマッサージを止めてもらい、臨終となりました
子ども達には”治らない病気”とは伝えないままの日々で、いきなり臨終に立ち合わせてしまったわけです
ただマッサージを止めてもらった父の胸が人の手形に真っ白くなっていたのだけが頭に残っています
「じーちゃん、もうしんどいから、さようならしよう」と話し、「先生の手の跡見える?」と教えて、それでも父が戻らなかった事を話しました
泣きじゃくる子ども達と一緒に泣くしか出来ず、、、
その日、日中ナゼか3号がやたらと「じーちゃん家に行く」と言い張っていたのと、8時に寝たのに8時半にものすごい夜泣きで起きたのも、全てここに繋がっていたのかと、後悔だけが今も私の中に残っています
「明日行こう」と言って引き伸ばした結果が、このさよならでした
子ども達に父と会話させないままで別れさせた事が悔やまれてなりません
その後悔があって、自分の中で整理が付かず、何をどうしていいかわからない日々で
ただ周囲の方の温かい言葉やメール等で、少しずつ私の気持ちにも変化が表れてきました
何も書かないままで更新する事も考えたのですが、書くことで少しでも自分の中で消化出来ればと、勝手な思いで書く事を決めました
関西はもうすっかり春です
毎日暖かな日が続きます
もうすぐ父の誕生日がやってきます
父の写真を持って、お花見に行こうと母が言ってます
母も父の闘病に付き合って、自由の無い生活を送っていたので、これからは少しずつ色んな所に連れ出し、それを父への供養だと思おうと話しています
読み辛い文章を書き連ねてしまい、ごめんなさい
でもこうしてここに書く事で、また少し前進出来るかなぁと思っています