俊輔にオシムの難問…再招集望むならFK決定力だけじゃだめ (サンケイスポーツ) - goo ニュース
オシム監督が俊輔を辛口査定
最初に言っておくが、俺は「トルシエ信者」であり、当然のごとく「アンチジーコ」だ。そういう立場からすれば、オシムという監督は歓迎すべき人間ではある。正しい目標を設定でき、その目標に向ってキチンと筋道を立てることができる人物だからだ。
が、就任以来、俺はどうにもこの男が信用できない。あるいは好きになれないのかも知れない。
トルシエはエキセントリックな人物であったし、選手・サッカー協会に対して暴言を吐いたり、日本という国のシステム(慣習)に対しても辛らつな批判をした人物として記憶されている。それは正しいが、同時に一方的だとも思う。
トルシエは「日本の選手で海外で活躍できる人間は300人はいる」的なことを言ってみたり「あのフリーキックは世界トップレベルだ」的なことを言ってみたり、人を褒める方でも相当にエキセントリックだった。そして「日本サッカーは十分優秀であり、やりようによっては世界一だって目指せる」くらいの大法螺で日本を鼓舞することもできる人物だったのである。
その点は、ジーコも同じで「日本はすばらしい。十分上にいける」との立場を取っていた。
そして、ジーコもトルシエも「その素晴らしい日本が力を発揮するには、こういう方針でやれば良い」とやったのである。まず前提として、日本や日本サッカーを素晴らしいものとして、その上にやるべきことを描いたわけである。
対して、オシムはどうか。
「日本が凄いという妄想を捨てよ。大したことないという事実を認識せよ」との立場だ。いわば「日本は素晴らしくない」を前提にして、「だから日本の良さを生かす方法でやらなければ糞だ」という立場とも言える。
この二つの立場、つまり
・「その素晴らしい日本が力を発揮するには、こういう方針でやれば良い」
・「日本は素晴らしくないので、日本の良さを生かす方法でやらなければ糞だ」
も、結局は同じことの裏表ではある。「見方によっては素晴らしい」「良さを生かせれば素晴らしい」と同じことを言っているだけだからだ。
が、その「同じことをネガティブに見るか、ポジティブに見るか」というのは、実は結構、大きな違いではないかと思う。特に自国の誇りに直結する「日本代表」というものに対しては。
確かにオシムは現実的だ。しかし、それ故に、オシムの作る代表には夢も誇りも持てないのである。いや、それ以前に、オシム自身が「日本サッカー」や「日本国」そのものに対して、敬意を持っているのか疑わしい気すらしてくる。「所詮、お前らはダメなんだから」という小馬鹿にした考えを持っているのではないか、とすら疑ってしまう。
今回は俊輔の記事を取り上げたが、俊輔に限らず、オシムはあまり選手を褒めない。むしろ、積極的に悪い部分を論う。もちろんそれば、オシムが「監督が良かった所を褒めても意味がない。悪いところを改善しなければ成長はない」との信念に基づくものだろうし、それはそれで意味がある。
しかし、教育には「注意して短所を改善する」という方法だけでなく、「褒めて長所を伸ばす」という方法だってあるわけだ。
何よりこうやって「何をやってもダメ出ししてばかり」だと、選手が何をすれば良いのか分からなくなる可能性がある。「何やっても文句言われるんじゃん。何やったら満足するんだよ」って具合である。
「フリーキックだけじゃダメだ」「スター気取りはやめろ」「海外組だからっていい気になるな」とは、トルシエだって言っていたことだ。しかし、トルシエは良いものは良いとしっかり褒めたのである。それこそ(あれだけ不仲が伝えられた)俊輔のフリーキックだって褒めていたのである。
果たして、オシムの教育論の結末はどうなるのだろうか?