大阪水曜ほっと集談会一世です。
朝から暗い話であるがご容赦いただきたい。
最近体調が優れないせいか、自分はいつ、いかなる状況で死ぬのか考えることがある。
また兄弟が早世していることも一因かと思う。
10歳の頃のことである。
人間は死んだらどうなるのかという不安に苛まれていた時期がある。
森田博士も少年期にお寺の地獄絵を見て死の恐怖に取りつかれたと書かれている。
何処か共通している部分を感じる。
今から思うと随分早熟であった。
文学や哲学に魅かれ、ひたすら生きることの意味を探していた時期もあった。
当時は観念としての死であったが、今は60代で亡くなる人も多い事を考えると現実である。
ある意味で神経質者とは、命が有限であると感じている人々ではないだろうか?
森田博士は、死についてこう述べられている。
私にとっては死ということは、いかなる場合、いかなる条件にも、常に絶対的に恐ろしいものである。
私はたとえ私が一二五歳まで生きたとしても、そのときに死が恐ろしくなくなることは、けっしてないということを予言することができる。
世の中の大半の人々は、自分はいつまでも元気で、死は別世界と考えてのんきに生きている。
神経質者は、今にも死ぬのではないかという不安を抱えながら生きている。
どちらが良いかという問題ではない。
生死一如という言葉あります。
これは森田博士の言葉ではなく仏教の言葉です。
仏教では、「生」と「死」を別のものとして分けてとらえるのではなく、二つをひっくるめて「生死(しょうじ)」と言うそうです。
命を有限と感じる感性が、よりよく生きたいという発想につながる。
最近あらためて神経質であることに、感謝の気持ちがわいてきた一世です。
2022.11.25 一世