はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

山道を辿れば 第一部FAC時代 序章

2019年10月14日 | 日本百名山紀行
山道を辿れば
     第一部 FAC時代


序章 山路たどれば

 山と私との記
一枚の写真がでてきた。登山姿の十七才の実に若々しい肌に張りのある自分に出あう。途中ブランクはあるものの山は私の人生に深いかかわりをもつ。登山の記録を書き残し、また四十すぎて触れあつた短歌を通して、私自身の過ぎてきた日々を振り返るのもわるくないだろ・毛私が十七才の時、山に憧れて一般の山岳会を雑誌に求め、当時上野界隈で会合をもっていたFAC(エフアルパインクラブ)に入会した。一人で登山を試みるより、やはりそれなりの仲間や、先達のいる会に入ることが必要だと思ったからだ。FACは当時四期生を募集していた。六人か七人が入会した。中村さん、飯田さん、大島さん、女性で田中節子さん、山下直美さん、小林久子さんだつたと…早見私が最年少であつた。会長は木村さん、代表幹事が吉野さんだった。加藤さん、牛島さん、雨宮さん、田中さん、鎌田さん、源馬さん、鹿島さんなど、三十代、四十代の人達が活躍していたから、六月の上旬、上野駅に近い集会場にはじめて出向いたときは、幼い子供が迷い込んだ感じがした。しかしみんな暖かく迎えてくれたので、少しほっとした。特に吉野さんにはとてもかわいがられた。
 新人歓迎会が昭和三十七年七月、丹沢の水無川の作治小屋の河原でおこなわれた。河原にテントを張り、山料理で入会を祝った焚火を囲み、歌を歌い、酒が振舞われた。その時初めて日本酒を飲まされた。酒が体質に合わない事はこの時すぐにわかった。しかし、その時が大人の世界とのはじめての出合となった。
        作治小屋にて
    茶碗酒のまされて一寸ほど大人になる山の夜

 夏に、秩父山行があつた。雲取山からの縦走であつた。キスリングをはじめて背負い、重い荷物にあえぐ。雨のテントでの夕食リカレーライスの人参の切り方が大きいと言ったら、雨宮さんに「黙って食え」としかられた。その後、私はその雨宮さんには随分と世話になった。やさしい先輩であった。
 その翌年の冬に合同で、丹沢で、加藤さんと組んで勘七ノ沢の沢登りを行ったのだが、大滝で五メートル落下して、右足の甲を捻挫してしまった。なんとか稜線まででたが、下り道は、雨宮さんに背負われて下山した。物静かだが、力強い先輩であった。
 こうしてFA℃の一員として、山との付き合いがはじまった。FACの活躍の舞台は、当時谷川岳南面であつた。南面の沢筋のルートの開発をテーマとしていた。その頃は、魔の谷川岳と言われ、事故死が多く、危険な山の代表であつた。一ノ倉沢や幽ノ沢などでの谷川岳の事故は新聞やラジオやテレビで頻繁に報道されていた。谷川岳との出会いは、そんな時代だった。
 入会したてのころの失敗はことかかない。その年の十月に冬山合宿の偵察に中央アルプスフの偵察にいった時、当時未成年者の私はタバコを吸わないために、マッチを忘れてしまい、テントで留守番をしていても、フォエブスに火をつけられずお湯も沸かせておけないという失態をしでかし、吉野さんにひどく怒られもした。それ以後は必ずマッチを忘れることはなかった。その時に、木曾駒ヶ岳と宝勧岳に登った。
 そして、その冬初めての冬山合宿は忘れられない。日本の上空に低気圧がどっしりと腰を据えて、入山の翌日から激しい雪になった。毎日吹雪いていた。下山する前の日の午前中はじめて晴天になった。この時雪の木曾駒ヶ岳に登ったのが唯一の行動となった。この停滞中のエピソードはいろいろあるが、ともかくテントの中で雪の収まるのを待つしかなかった。最後の下山の日、降り積もった雪は予想以上に深く、胸までのラッセルが続く。暗くなっても下山できない。腹は空くしつらかった。へとへとになって麓に着いたのは午後九時だった。最初の冬山は私に強烈な印象を残した。
 FACでの記憶をもう少し辿ると、夏の槍ヶ岳、北鎌尾根からの登挙、穂高潤沢での合宿で滝谷に入ったこと、あの暗い壁の陰欝な雰囲気は忘れられない。ジャンダルムの上に一人立って眺めた午後の落ち着いた山々の光景も美しかった。しかし、その夜にテントの中で不隆意からホエブスの残りガスに引火させて火傷をおい、診療所まで駆けて行き、入り口の床に座ったとたんに動けなくなり、翌日神高知上高地までみんなに背負われて下山し、松本国立病院に二週間入院した。そこの看護婦さんと恋をしたことなど、青春が、このFAC時代にいっぱい詰まっている。ヤケドを負った事故はラジオでもニュースになった。「無謀登山」と言われて、なにもわかっていないのにと思った。
.事故の後も、山はやめることはなく、八ヶ岳の冬の合宿や働の合宿にも参加した。この勧岳の合宿は楽しかった。早月尾根から直接鋤の頂上に到達したときは、その雄大な眺望に興奮したものだ。八峰のⅣ峰から岩綾を登聾したおりに、小さな落石がヘルメットをかすめた。風邪をひいて一人テント番をして、勧沢の岩の上で昼寝をしたのもこの時だ。
 そして更に、冬の槍ヶ岳合宿。山仲間の神出君を失ったのはこの時であつた。彼とは南アルプスを三伏峠から荒川岳、赤石岳、聖岳と縦走し、また東北の早池峰山への登山や谷川岳南面の思い出がある。彼のもっていた『たのしいコーラス山旅歌集』が私のてもとに残されている。
 袈裟丸山連山を先輩の牛山さんと縦走した帰途、電車の中でケネディ大統領の暗殺を知ったのも、入会して間もない頃で、高校三年の時だった。
 FAC時代は私の学生時代であつた。大学に行かせてもらえただけでも父に感謝しなければならないのに、山に行くには金もかかるため、自分で稼がねばならなかった。だからみんなと同じようには山には行けなかった。それだけはつらい思いがある。貧乏はつくづく嫌だがしかたがない。旅費をくれとはなかなか言い出せないでいた。
 装備の面でも金をかけられないで、いつも秋葉原のニッピンで安いもので我慢していた。冬の装備などは金額でかなり差がついてしまう。それでもピッケルだけは今でも手元にあるが、それを買うためにアルバイトで金を貯めた。シャルレーのピッケルで当時一万七千円であつた。高卒の初任給が一万円に満たない頃だ。その形の美しさに魅かれたのだ。鶴見の登山用晶店で購入したと記憶するが、手にしたときの嬉しさは表現しがたい。

        山の思い出

  胸までも雪にうまってラッセルをしたあの宝剣岳は十七の冬
  残雪の勧のカールにテントを張れば夏陽はわれに燦々とふる
  雨降ればなおさら暗い滝谷は瞼になかにいまなお晴らし
  北鎌の痩尾根をよじる夏空に槍の黒き秀尖り立つ
  テント張り洞沢谷の秋の夜は流れ星数えて過ごす
  みんなして溜め息ついて仰ぎみた空に巨大な赤石岳を踏む
  みちのくの早池峰山の岩陰にクスユキソウは其自に咲ける
  燕のなだらかな稜線を傘さして歩いた秋の雲間を

   
    神出君の死を痛みて
  厳冬の硫黄の谷に逝った君偲ぶこの事に残こる「山旅歌集」
  茶毘にふす君昇り逝くその星天にとどけよ友の悲しみの歌を
  青春の燃える命の悔しさを其白き峰々深くいだけよ

そして、七十年安保闘争の時代に入り、学園紛争が各地で起きる。ベトナム反戦闘争も激しさを増てともかく政治的な時代であつた。その後、二十三才位までは、それなりの山行をしたが、大学の学園闘争が激化して巻き込まれていく。大学院に進学したので、行く回数も少なくなった。
修士過程の終了間近に根っからの都会派の娘である村山裕子と結婚し、強引に新婚旅行を屋久島の宮ノ浦岳を登山させた。それが最後の山になった。就職後は積極的に山行をすることもなく、FACとの関係も、その時を境に薄れていってしまったが、山への憧れは薄れることはなかった。
       山遠い日々
    大学のスト激化する日々にいてふと山頂の静けさを思う

       次女あずさ髄生
    児は二人ほたかあずさと呼びあつてわが青春の結晶となる

 三十代は、仕事に没頭し、生活を維持することで、精一杯の日々をすごしていたように思う。昭和五十六年十一月十四日母が癌で亡くなつた。六十三歳の早退ぎる死であつた。あずさの七五三の祝いの日に葬式をし、その姿を遺影の母に見せた。通夜の夜、癌に気づくのが遅かったことを悔やんで母の柩の前で一晩自分を責めて泣いた。悔しかつた。母に済まないと思った。
 三十九才になる直前にIYを退職し、環境が変わり、四十才の夏に、車の免許をとつた。その年の一月末には、裕子に約束していた念願のパリに十日間の旅行もした。しかし、車の免許をとったことが私の行動範囲を広げることになった。昭和六十二年六月、私が四十二才になつた頃、ほたかが十五、あずさが十二才の時、突然上高地まで行きたいという衝動にかられ、有無を言わせず家族を乗せ、上高地に行った。その日はウエストン奈の日であつた。午前四時過ぎに、中湯のゲートに着いてしまったので、そのまま乗鞍のハイウェイを走ることにして、三千メートルの朝を迎えようとした。このときも天気は悪く、只々寒いだけで、頂上付近はガスの中にあつた。しかし、上高地に戻った時は、上々の天気になつており、付近を散策した。自然の中に、何年か振りに身をおいた。
            上高地再肪
    照りかえる穂高の峰に残る雪解けてあずさの瀬音すずしく
    妻と子と大正池より眺めてるあの焼岳のまるい頂き

 山への思いが再び頭をもたげて来たのはこの時であつた。裕子がまた来ましょうと、言い出した。これはとても嬉しいことだった。その夏、私は、乗鞍岳の山麓で、キャンプをすると言い出し、家族で出かけることにした。

           鈴蘭高原にて
    子とともにキャンプ暮らしの荷を運ぶ赤とんぼがみな寄ってくる
    カツコウや鴬の声ききながら朝餉のしたく子は米をとぐ

明け方、家を立ち昼前には、鈴蘭高原のキャンプ地に着いた。かくして、三日間のキャンプがはじまった。スーパー林道を通って上高地に一日を遊び、一日は阿房峠を越え、FACの六期の水島女史が旅館の女将になっている穂高温泉に行き、温泉に入れてもらつたり、食事をご馳走になつたり大変お世話になった。西穂高のロープウエイで上まで行ったが、天気に自信がないため、登山はしなかった。
そしてまた高原の散策に一日と、子供達と一緒の日はあっと言う間に過ぎた。帰りは、乗鞍を越え高山の町で遊び、下呂温泉で湯につかり、その日の夜半過ぎ、帰宅した。
 翌年昭和六十三年の夏は、高校二年生のほたかをロンドンヘ、中学二年生のあずさをカルフォルニアヘ、約一ケ月間ちかくホームステイさせると言う。我ながら大胆なことをしてしまったので、おとなしく裕子と二人で、子供達のことを気づかいながら過ごした。お蔭で家の財政は火の車となった。
遊ぶことも儘らならぬまま、一年が過ぎ、年がかわってすぐ、一月十八日に父が癌で他界した。数え八十歳であつた。病院で父を看取った。裕子は臨終に間に会わなかった。病室が物音一つせず、冬の膝日が白いカーテンを通して病室を明るくしていた。この父にはいくら感謝しても、したりないものがある。この父がいなかったら私は幸せにはなれなかっただろう。そして兄弟のない私はついに一人になった。妻と子供が掛替えのない存在になった。
            山を思う
    余裕なく日々を暮らす遠くを見ればさ秀はとざすわが山路

 昭和から平成に変わつた年の春、FACの深田さんより、OB会を谷川温泉で開催するから、出席
してほしいとの連絡を受けた。時期堕ハ月末であった。参加することを約したのだが、当日まで予定を失念してしまい、谷川温泉から、深田さんのより電話をもらって思い出すというポカをしてしまった。IYを去ってから四年近く、仕事面では粁余曲折し、当時私は埼玉県のスーパーで企画部長の職にあり、予算その他のことで、いつもの如く仕事に、没頭していた折りであつた。電話をもらったのが、午後七時過ぎ、半には家を出て、関越道路を飛ばして、十時前に会場についた。懐かしい面々が揃っている。皆歳を取っているのに、何か自分だけが昔の健でいるような気がしてならなかった。皆しっかり生活している、山の中だけでなく、日々の暮らしの中でも、立派な先輩だとつくづく思えた。FACが、大人の世界との初めての会いであつた十七の時と、少しも変わっていないのだ。FACとは私にとっていつもそんな世界であつた。
         仲間との再会      
    山々へいだく想いはそれぞれに生活(たつき)背負いてみないい歳をとり

 そのFACが、八月十二日に解散式をすると亭っことになった。場所は谷川嘩家族同伴のキャンプである。私は裕子と参加することにした。私は裕子と一緒に、子供等を家に残して、懐かい谷川岳の入口、土合に向かって出かけた。昨夜、久しぶりにザックをひっぱりだし、シュラフをつめて荷づくりをし、車のトランクにつめた。裕子と二人だけの山行きは、新婚旅行の屋久島の宮の浦岳以来初めてであつた。会員が集まらないことが、解散する原因となったと育つ。十七才から四十四才の今日まで、FACは私の青春であり続けていた。それが消えてしまうことになる。出席したメンバーのなかでは、中村さんと私が最も古いメンバーで先輩諸氏は見えなかった。出席できない気持ちが、理解できる思いがする。心のどこかでいつでもFACを存続させて行きたいのだと思う。改めて、区切りをつける必要があるだろうか。みんなそんな思いでいるのだろ。それぞれのFACがあるのだと思う。私にとつても、同じことが言える。会が無くなったことによって、私は山と別れることになる。
今まで思い出としていた「山」との別れである。私はFACの解散で、「思い出の山」と別れ、いま新たな「山」と出会おうと思う。
      FACの解散によせて         
    青春と言う名の山との別れて一人一人の山道を辿る
    さようならと見返りみれば遠ざかる青春の山青春の日々
    最愛の妻を同行者に得れば遥かな山々蘇ってくる

 四十を過ぎて、今更と言うかもしれないが、だからいいのだと思いたい。今までは、生活することに追われて、自分の思ったことができないで来た。山に対する青春の日々は、完全燃焼していたわけではない。これから初めても、けっして遅いことはないだろ一誌自分の行きたい山に行く。しかも身体相応の方法で。しかもFACの解散式で、一番いい同行者を得ることが出来た。妻の裕子である。夫婦で山登りをする。若い頃思っていたことが、これから実現するFACの時代、ロッククライミングは苦手だったし、臆病だから、皆よりは、山に対する接し方も違っていたし、技術的にも劣っていた。これからは、そんな最もなしに「山」に行けるのではないかと魯箋新たな「山」との出会いを大事にしたいと思う。まったくの都会派の妻が一緒に山に行ってもいいよ、と言い出したことは本当に嬉しいことだった。
                            (1990.8記・1908.9改訂)