
日テレの『ラピュタ』〔1986〕をチラ見していたら、公開当時、わたくし「コミックモーニング」でイベントや試写会等を紹介する読者プレゼントのコーナーを見開き2ページで連載していて、そういえば、『ラピュタ』も紹介したのう‥‥‥と思い出した。
そう考えるとおれのキャリアもけっこう長えな‥‥‥と感心するも、まだ19歳だったしのう‥‥‥
宣材の、音声が入っていないラッシュ・フィルムをVHSにおとしたものをもらったのだったが(フラップターが要塞に向かうあたり)、あれって実家のどこかにまだあるのかしら?
んで、↑みたいに「中年が昔話を得意気にはじめたらおしまい」―――であるが、そんな流れと、前の記事でサンデーがどうのと書いたら、ぼんやりと『ラピュタ』公開あたりのわたくしのきわめて少ないアシスタント経験を思い出したので、歴史の証言?的意味で、それを得意気に書き込んでみたい!
記憶によれば、自分が生涯アシに伺った日数というのは、たぶん1985~6年の間の10日に満たないのではないかと思う。
これは、自分がアシに行くということは「手伝う」というより「迷惑をかけにいく」ことだったからであって、漫画家としての「順調」気取りでは全然ない。
当時(18~9歳)のおれが、今のおれを手伝いにきたとしたら「すまない!○○は帰ってくれないか!」と蹴とばすのは間違いない。
つまり、漫画技法の基本をまったく知らず、ベタフラってどう描くの?というありさまで、そのくせ既成の価値に唾を吐け!みたいな痛くて真っ当な心持ちだったこともあって、謙虚に勉強しようなんて態度は微塵もなく、相当ひどいしろものであった。
その迷惑をおかけしたのが、島本和彦さんと上條淳士さんと中津賢也さんである。
島本さんの仕事は起床、食事、就寝、すべてが時間通りに厳格に決められていて吃驚した。
下手なサラリーマンよりはるかに自分を律しなければ、週刊(『炎の転校生』)と月刊(『風の戦士ダン』)をこなすことなどできないのだ!と得心して、その都心の3LDKオートロックマンションの絵に描いたような売れっ子漫画家の生活に、われながら驚くほど憧れなかった(!)。
上條さんは、というか、上條淳士さんとYOKOさんの協働関係がどういうものだったのか自分はまったくわかっておらんのだが、とにかく自分が手伝いに入ったときには机を並べて作業しておられた。
ときおり机に突っ伏して仮眠する、いかにも漫画家の修羅場といった〆切間際で、わたくしはちまちまと2色ページのカラートーンを貼ったり、『TO-Y』のライヴシーンのスポットライトを砂消しで削ったりしたのだった。
上條さんの担当さんとタクシーで帰る際、ポツリとA藤さんに「なんでこんなに時間かかるんだと思う?」と問われたのが、印象に残る。
中津さんの仕事ぶりはどこか呑気な共感できるものであったが、そんな中津さんにすら「君は原稿を汚すねえ」と叱られたものです(!)。
作品は『黄門☆じごく変』であったでしょうか。
と、ここまで書いて、アシスタントを経験したとはまったくいえない内容であることに気づいたので、『リトル・ニモ』がつくられていたら、『ラピュタ』は海もの(潜水艦もの)になっていたかもしれない!‥‥‥と、得意気に妄想してしめくくるのだった。
わたくし『ラピュタ』は、スタッフの顔ぶれからしても『リトル・ニモ』の復讐戦のような気がしてしかたないのである。