就職した後の同窓会で久しぶりに同級生に会って、何かで親の話になった。その時に自分がふと喋った一言に、
「お前、まだ自分一人で大人になったと思ってんだな。」と言われたことに猛反発した。
高校の頃はみんな、「親なんかいなければいい。」と思っていて、そういう前提で話をしていたのだが、みんな就職して、そこの意識が変わったらしい。親が自分を育ててくれた苦労を認めて労ってあげたくなるものらしい。
何だか一人だけ大人になり損ねているみたいに言われたように感じて、自分でも驚くほど強い語気で反発してしまった。
その後、結婚しても、その気持ちは変わらずだった。深夜アニメの設定で、主人公の家が出てくることがあっても、両親は非常に影が薄いか、何らかの事情でいないことになっていることが多く、そのことが、その高校生の頃の常識を象徴していると思っていたくらい。
何かの折に家内にその話をしたら、
「文化資本というのがあって、一般的には各家庭に蓄積されるものなのですよ。」と少し諌められたものの、
「まあ、あなたとご両親の様子を見ていると、文化資本の継承より、断絶って感じがするのが不思議ね。」
と、私の主張にご理解いただけた様子。
ところが我が家に子宝がなかなか来ないことに対し、私の母がボソッと話したのが、このブログの表題の言葉である。
なんでいちいち気持ちを逆撫ですること言うかなと思いながら、まあ、息子があまり育てた苦労に感謝していないことも伝わっていて、そういう言葉になるのだろうと思っていた。
ところが私の結婚と同じく、子供も全く予想していない時期に授かってしまった。いやもうそれはそれは、嬉しくて仕方のないことですよ。ただ自分の人生こうなるだろうと思っているところと違うことばかり起きるという意味での「授かって『しまった』」です。
そして、子供が産まれて育てて思うのが、やはり両親と自分の関係である。
子供が産まれてわかったのは、母が子供の私が思っていたより、ずっと、不器用な人であるということ。
密かに母の愛情を心の底で疑っていたのですが、それは愛情不足というより、表現の下手さと自分を持て余していたのではないかということ。
それに加えて、世間の規範に縛られており、そこからはみ出す息子をそのまま受け入れる勇気がなかったのだなあと。
もう今更言ってもしょうがないことなのですが、愛娘を育てながら、なぜこれが私の母にできなかったのだろうと思うと、子供返りして文句を言う自分がいることに驚きます。
子育ては自分との対話なのだなと改めて思います。そして、この色々と上手くいかなかったこの人生が、自分にとって相応しい人生なのだなと思います。
さらに、このブログという自分を表現できる場所をもらったことに感謝します。
そして間違いもあるかもしれませんが、父として、娘が精神的に豊かな人生を送れるように、私が与えられるものは少しでも与えたいと思うのです。
あぁ、俺、武田鉄矢を笑えないじゃないか。臭い文章長々とごめんなさい。
ただ母親をディスること、そういう衝動に対して向き合っておく必要があったので。
あと、今日のこの文章でお別れと言ったことは全くなくて、これからもあほうなことをベラベラ喋って行きますので末長くお付き合いください。
何だか田村正和の文章書いた後、なぜかサヨナラ宣言ブログに連続ヒットして、で自分の記事もそれっぽくなったので、ちょっと言い訳でした。
コロナで結婚を巡る風景も色々変化したみたいで、時代遅れかもしれない自分の経験も記録すべきと思った次第。紫苑さんのサイトは私と対極でおしゃれな女性らしいページ。楽しく拝見しました。これからもよろしくです。