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道楽人日乗

ツイッターのまとめ。本と映画の感想文。
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「闇のあとの光」 ネタバレ考察

2016-01-28 22:13:19 | 映画 ネタバレ感想
映画『闇のあとの光』予告編


カルロス・レイガダス監督
DVDにて鑑賞。
個人的な解釈によるネタバレ感想です。

牛男は何か?
何故画面隅がだぶっているのか?
リアルなドラマとシュールな画面が混在?
時制が前後するのは何故? そもそもどんな話なの?

予告編にあった「魔術的リアリズムに溺れる、戦慄の映像美」という宣伝文句のわりに「ホームビデオでとったよその家の記録」みたいな感じの断片的映像が続くので、正直とまどいます。
昔のTVの縦横比くらいの画面。その中央から、円形に画像がダブるフィルターかデジタル処理のような加工がされています。度の強いメガネで見た景色のよう。ふつうの場面もある。人称や幻想などで規則をもって区別されているのかというとそうでもないみたい。
一見、わかりにくく、取っつきにくい構成です。


僕の解釈はこうです。
この映画は、一つのお話に、表現のレベルの異なるいくつかの層(レイヤー)が重なりあうように進行している。

L2. より象徴性が高い、神話的表現
L1. 現実的ドラマ
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L0. 作り手の実生活

映画の冒頭、夕暮れに立つ少女、DVD付録の監督インタビューを見てわかったのですが、幼い少女と少年は監督の実際のご子息たち。少女が口にした名前は、実際の兄の名前(役名も等しい)。映画のために撮られたのだからL0.とは言えないけれど、素の現実にちかい場面だと思います。
桃色だった空は紫にかわり、遠雷の響きとともに闇につつまれる。稲光が少女のシルエットを浮かび上がらせる。不安げな少女の声「パパ、ルートゥ、エレアサル」
これから作品世界に入ってゆくことを示しているように思います。

次の場面は、夜の室内。光をはなつ赤いシルエットの牛頭男が、モダンな作りの廊下を歩く。手には青い工具箱?を持っています。ドアを開けて部屋を覗き込と、男の子が寝台の前に立っていて牛頭の影を見ている。牛頭は別の部屋に入ります。
ここはL2.

次の場面は、
○物語の要となる、セブンという男が山間の樹を伐採する場面。
○横たわるナタリア。幸せいっぱい、ファンの家庭の場面。
○依存者たちの集う集会。セブンに連れられてファンもここに来ている。
ここはL1.

質の異なる表現の層を行き来するドラマが、外面上どのように見えるか。
要約を、ムービーウォーカーの記事から引用させて頂きます。http://movie.walkerplus.com/mv55613/
内容がわかっている場合は要約2へ進んでください。

稲妻が轟く中、牛は草を食べ、馬は歩き、犬が駆け廻る。動物の後を追って走るのは幼い娘ルートゥ。赤く発光する“それ”が用具箱を手に、部屋の中をうろついている。大きな一軒家では、夫のフアン(アドルフォ・ヒメネス・カストロ)と妻ナタリア(ナタリア・アセベド)、幼い2人の子、兄のエレアサルと妹ルートゥが、使用人と多くの犬に囲まれて、幸せそうに暮らしている。だがある日の早朝、他の犬を噛んだ罰として、フアンは1匹の犬を執拗に殴る。その姿を目にして、“やめて!”と冷たく言い放つナタリア。掘っ建て小屋で行われている依存症の会。参加者たちがアルコール依存症、買春、麻薬など過去の行ないについて懺悔してゆく。集会後、フアンは集会に誘ってくれたセブンに、自分がポルノ映像を毎晩8年間も見続けているネット中毒だと告白。ラグビー場の控室で、10代の選手たちがウォーミングアップを行なった後、士気を高めてグラウンドへと駆け出す。どこかのサウナでは、フアンとナタリアを交えた大勢の裸の男女が、気怠そうに乱交を始める。夕食後、フアンとナタリアは言葉を交わすが、倦怠期の2人はすぐ険悪な雰囲気に。ある日、家族旅行の途中で忘れ物に気付いたフアンが自宅に戻ると、セブンが仲間と空き巣に入る現場に遭遇し、セブンに銃で撃たれてしまう。負傷したフアンは、ベッドでうなされながらナタリアの前で死期を悟ったかのように人生を振り返る。“警察に訴えないのか”というナタリアの問いには、“犯人を覚えてない”。やがて、フアンが亡くなったことを知り、セブンは激しく動揺。帰宅するが、妻子の姿は見当たらない。部屋のなかを歩き回る、赤く発光した“それ”。森の中を彷徨っていたセブンが自分の首に手を掛け、思い切り引き抜くと、血を噴き出しながら首と身体が転がる。そこへ降り注ぐ激しい雨。10代の男子たちが激しくぶつかり合うラグビー場には、若い力が溢れていた。

引用おわり。


これを、僕のいうところのレイヤー1、現実的ドラマの層だけを通して見た場合を、独自に再構成してみると以下のようになると思われます。

要約2
裕福なファンは、妻と幼い子供たちと広い家に暮らしている。使用人をつかい不自由の無いくらしだ。ただし、ナタリアとの性生活は冷え込んでいる。
村に住む人々は貧しい暮らしを送っている。様々な依存者が集まる集会で苦しい内情を告白している。その一人セブンは、かつてファンに雇われていたが、今は新たなボスのもとで林業などの仕事をしている。今ではファンは友人だ。彼はファンの家のガス管や電気関係を修理した際に、ナタリアと性的な関係を持ってしまう。幼いエレアサルは、母の部屋に入るセブンを見てしまう。
3 夕食の団らんの後、ファンはナタリアにせまるが拒絶される。ナタリアは海へ転居したいと言う。
4 ファンの家族は車で旅行にでかけるが、忘れ物をしたというナタリアのために、ファンは家族を食堂において一人で家に帰る。そこでパソコンやテレビを盗もうとしていたセブンとその仲間にでくわし、ファンはセブンに撃たれる。
5 逃走していたセブンは、家族の元に帰る。妻はボスがセブンを探しているとつげる。始末をつけると出かけたセブンはファンが死んだことを知る。帰ると家族はいない(もしくは殺されている)。絶望したセブンは自ら命を絶つ(あるいはボスに捕まり斬首される)。
6 エレアサル、妹のルートゥは、裕福な親類の世話を受けて、少年、青年へと成長してゆく。
エレアサルは、時たま悪夢に悩まされるが、負けが見えたラグビーの試合も懸命に頑張る青年になった。
7 砂浜で遊ぶ成長した兄妹は、美しい夕焼けの光を見る。それは、まだ幼かった頃の二人が見た夕陽とよく似ていた。

多くの人が、神、もしくは悪魔と受け取った「赤いシルエットの牛頭の男」は、L1.(現実的ドラマの層)として解釈するならば、エレアサルの夢にあらわれた間男セブンの姿でした。目撃したものの、幼い彼には意味のわからない男の行動。不吉な印象がこのように夢のなかに変換されてあらわれた。手に持っていた工具箱は、ファンの家の修繕のための道具。セブンは依存者の会でファン家の配水管や電気の修理の状況を自慢げに語っています。牛頭の男が入ったのはナタリアの部屋でしょう。
「それ、が現れたために、メキシコのとある一家、平凡な暮らしの歯車が狂い始める」という予告篇の文句はそのまま通用します。

の一場面では、エレアサルが「しっぽの生えた怪物が沢山立っていた」ということを父親に語りかけているところがあります。「でも、スパイダーマンがやっつけた」
子供の妄想として見過ごしてしまうようなところですが、エレアサルの中では、悪夢が変化し生き続け変化しているということを描いているように思います。

逃走から家族の元に帰ったセブンが、ボスに追われていると聞き「片をつける」と出かけるのは自分の身を守るためにファンにとどめを刺すため。ところがエレアサルたちの言葉から、ファンが死んだと言うことを聞く。セブンのことを明かさずに死んだ、友情を通したということ。エレアサルは一緒に遊んでともいう。間男をしていたときの状況を暗示してもいます。

帰ったセブンの家、妻と子はいなくなっている。依存者の会の場面で語られていたように、セブンの暴力を恐れて姿を消したのか、ボスの放った追っ手に殺されていたのか。セブンの絶望と悔恨は頂点に達し、セブンは自死するか、ボスに捕まり斬首されたという事だと思います。
L2.

セブンの死の場面の前に再び現れる「赤い牛頭の男」、事件のきっかけである愚かな行為。この場面も少年の夢であると思いますが、牛男を見つめる少年がはっきり描かれています。成長と共に、事件の本質を理解し直視し始めていると言うことでしょうか。

以上は僕の解釈似すぎませんが、このようにみると、わかりにくいどころか案外すっきりしたお話のように見えてきました。
少年と少女をめぐる時間が、シャッフルされたように前後するというのは、彼らのたどる長い時間をコンパクトに表現するためです。大まかな話を理解した上で(個人的な解釈ですが)もういちど見ると、それ程難解ではなく、独特のリズム、継続性・類似性などから人生の美しい場面を結びつけたり、意外性から人生の新たな展開を示したりしています。
ファンが撃たれたあとに、成長したエレアサル達が葦の茂った薄暗い河を下り猟をする場面がつながっているのは、黄泉の世界をゆく魂を暗示しているのでしょう。

画面の四隅が、滲んでいたのは何故か? いままで述べてきた、現実と、個人の人生を描く物語、それと永遠に続く神話的物語の多様な層がかさなりあっているということを表しているのでは無いかと、現時点の僕はそう解釈します。ホームビデオ的画面で撮影されたのも、則物的な映像=平凡な日常のなかに、神話的象徴がいきづいている、そんなことを表しているのでしょうか。

「闇のあとの光」という題名が示すように、父親の人生を越えて「次はお前達の番(人生)だ」という、子供達の将来にたいする期待と祝福、そしえ愛情。ファンが最期につぶやく言葉にこの映画のテーマが示されていると思います。

成長した二人の兄弟が砂浜で見る、雲間からもれる美しい陽の光。本当のラストシーンはこの場面でないでしょうか。

L0.
監督の実生活で、この映画と対応する出来事があったのか?という実証的検証は、僕には出来ません。いずれプロの方が語り明かしてくださると期待します。



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メモ


●あの赤い牛人間のイメージは、迷宮をさまようミノタウルス? 廊下が迷宮っぽかった?
サウナの乱交はディオニソス的祝祭ってこと? イジメのようなことが行われていたのは、生け贄の儀式を象徴?なんで髪型が違うの?なんでフランス語なの?

●夫婦がはじめに訪れた、サウナの変な部屋名「ヘーゲル」。すべては理性的であると言った人だ。ところが、夫婦が探していた部屋は「デュシャン」だった。
「マルセル・デュシャン」→彼の出していたシュルレアリスムの機関誌→「ミノトール」→創刊号の表紙・ピカソが描いたミノタウルス。
「赤い牛人間」につながる?

●夫婦が参加しているなんかスノッブなパーティ。話題がトルストイにドストエフスキー。いやいややっぱりチェーホフだよ。となる。チェーホフには「アリアドネ」という短編がある。ミノタウルスとかすかなつながり?

●メキシコだったら、ふるい神様は蛇じゃないのかな!



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