北の暮らしに役立つ防災コラム&豆知識

防災委員会情報部会((社)日本技術技術士会北海道支部)

「あの時から防災にのめりこんだ」 松井 義孝(建設部門)

2007-03-02 20:00:08 | 防災コラム
 1995年1月17日、あの途轍もない大地震「阪神・淡路大震災」に、誰もが何らかの形で遭遇した。私は、被災3日後に、ピルツ橋の崩壊現場、またバスが宙ぶらりんになっている橋梁現場、そして崩れ去った家並みからは、徐々に煙がくすぶり出し荒廃した現場に立っていた。それから約10年後の2004年10月23日新潟県中越地震が、同じく直下型地震として発現した。私は技術士会現地調査団として中越に飛んだ。神戸の人口密度の高い大都市災害とは異なり、人口密度が低く高齢化の進む農山村地域の被害であった。神戸に比べ、即時的死亡者は少なかったが被災経過後のストレスやショック性死因が目立った。10年前の阪神の大きな教訓から、「災害という犠牲者には、何をもってもくい止めねばならない」という思いが強かった。それは、人口密度の差であってもならない。我々は、我々の保持している科学や技術が、「人の生命を守ることに何にもまして第一義であらねばならない」との思いとともに、人間の為せる小ささを強く感じる。新潟県中越地震から4年目を迎えようとしている。あの山古志村は、いまだ閉塞されたままである。

 さて、技術士としての「防災へののめりこみ」は、あの「阪神・淡路大震災」の神戸で、ある技術士が「何かお手伝いをしたい」との申し入れに、自治体から「技術士なるものは知らない」と断られたことを耳にした。日本の多くの技術士は落胆し、またこれにより奮起したに違いない。北海道にいる我々も同じ思いから立ち上がった。当時は、現在の大島支部長や能登センター副会長を中心に120名の技術士で防災研究会を立ち上げた。そこで能登会長を柱に、私に幹事長をやれということで防災の組織活動が始まった。そして、5つの部会に分かれ1年間かけて地震防災について喧々諤々の論議をした。その結果、260ページからなる「技術士からの提言-地震災害に備えて」の書籍と「技術士からの27の提言」の冊子がまとまった。この頃のメンバーは、皆40代で一人ひとりが北海道の技術を担う第一線級技術者集団である。その集中力と見識の高さには驚いたものである。

 それから数年、その書籍をもとに北海道内への講演活動が続いた。さらに、会長が能登さんから高宮さんに代わった。今度は、広域な「地震防災から都市防災」に変わった。地震の奥深いハードな取り組みから防災まちづくりに関わるソフトな取り組みに移ってきていた。これもまた、技術士ならである。会のメンバーは、技術と技術士の多様性を表してきた。きっと、社会もそれを求めているのである。技術の応用能力の貢献こそが技術士の基本である。そして、われ等は防災・減災を通して公益性の高い社会貢献に寄与しなければならない。

 最後に、あの神戸のあの時から防災にのめりこみ、みんなで一つのテーマに集中したあの躍動感が肌から抜けないうちに、次の世代を担う多くの仲間に伝えたいと思うのである。

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