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いそのまさはるの教育間欠泉

中学校教師を定年退職し、現在は大学非常勤講師をつとめる立場から、折に触れ教育課題への発言を間欠泉の如く吹き上げます

56度の白酒

2015年09月24日 | 日記

 小恵(シャオ・ホイ)は、いわゆる中国残留婦人のひ孫にあたる。ぼくが現場教師を退職し、中国人児童を支援するたの非常勤教員として勤めた小学校で出会った。

 彼女は日本生まれだが、家での会話では中国語、学校では日本語を使っていた。ぼくは、その学校に中国にルーツを持つ子どもたちが集える“場”を作ったが、当時5年生だった彼女は子どもたちの「ちょっとこわいお姉さん」的存在であった。

 その彼女との会話の中で印象的だったのは、「日本では中国人と言われていじめられる、長期間中国に帰ることがあるが、その時は中国人の子どもたちから日本人とバカにされる。いったい私は何人なのか」と漏らしたときだ。

 かようにアイデンティティが揺れていた彼女だが、中学校や高校では、本人曰く「泣きながら勉強がんばった」のだそうだ。で、今回、高校の推薦を得て、私立の外国語大学に合格したということを、小学校に担任に報告し、「いっしょにご飯でも食べよう」言われ、ぼくも誘われたのであった。

 待ちわせたレストランで5年半ぶりに再会した彼女は、うっすらと化粧もし、食事でもダイエットを気にする年頃の女性になっていた。

 小恵、彼女の友人(中国人)、もとの担任2人とぼく、久しぶりの再会で大いに話は盛り上がった。しっかりとした中国語を身につけ、将来は日中貿易の会社に勤めたいという彼女。おそらくは大学でも真摯な態度で多くのことを学ぶだろう。

 帰りがけに「いろいろ世話になったから」と白酒を手渡ししてくれた彼女。ふと見ると瓶には「56度」とあった。この熱い白酒のように、これからも山あり谷ありだと思われる人生を、小恵が熱くを送ってくれることを願わずにはおられなかった。

 


“しごとなでしこ”って?

2015年04月13日 | 日記

 ある日の新聞の一面広告に「しごとなでしこ」という文字が躍っていた。小学館が女性誌6誌の合同企画として、「元気で」「キレイ」な働く女性を“しごとなでしこ”と名付け、応援するプロジェクトをスタートしたという広告だった。

 それにしてもである。なぜ、働く女性は“なでしこ”なのか。男なら“企業戦士”と言われた時代もあったのに。

 スポーツの世界でも、野球の日本代表は「サムライジャパン」で、サッカー女子の日本代表は「なでしこジャパン」だ。

 おそらくは「大和撫子」からきているのだろうが、広辞苑によれば大和撫子とは「日本女性の美称」とある。また、大和撫子(カワラナデシコ)の花ことばは、「可憐・貞節である」ことを考えると、「日本女性の美称」として何を求めているのかは明らかである。

 すなわち「しごとなでしこ」とは、決して男女共同参画社会における働く女性を意味していない。あくまでも、“企業戦士”である男性を支える女性社員としての「元気」「キレイさ」を求めているのである。

 学校現場で感覚でいうなら、女子生徒が能力の点で男子生徒に劣っているということはない。にもかかわらず、女性の能力を正当に評価せず、男性社員より下位においておこうする企業文化や社会のあり方は、結局のところ社会の発展を阻害することになるのではないか。

 いいかげんに、男性には“戦い”を、女性には“可愛さ”を求める命名はやめたほうが良い。


映画「みんなの学校」を見てきました

2015年03月23日 | 日記

 大阪市の第七藝術劇場で、「みんなの学校」を見てきた。中国映画のファンで、こうした名画座的な小映画館にいくことが多いぼくだが、中国映画の場合は、昼間なら観客はせいぜい数人ということもあるのに、今回はほぼ八割方は埋まるという盛況ぶりであった。新聞でとりあげられたこともあるが、それだけ教育問題、とくに学校のあり方に対する市民の関心が高いからであろう。

 映画は、大阪市の大空小学校の日常を描いたものである。「一人の不登校児童も出さない」ことを掲げた当校の実践にはさすがにひきつけられるものがあった。発達障がいを抱えていたり、課題を抱え他の子に暴力をふるってしまいがちな子も、「困った子」ではなく、「うちの学校の児童の一人」として受け入れていこうという姿勢は、多くの学校に拡がっていってほしいものだと。いまさらながらに思った。

 ただ、もと学校現場の教員だった者としては、映画が校長の言動を中心に作られていることにちょっと不満をもった。確かに、学校の姿勢というのは校長の姿勢に負おうところが多い。大空小学校の実践も、そうした校長の姿勢があったからこそであることは理解できる。

 しかし、課題のある子に実際に教室で関わるのは現場教師である。カメラがもっと、学級担任の日常を追ってくれたら、映画はもっと深みのあるものなったのではないかという思いを拭えなかった。

 さらに、映画は、障がいのある子や課題のある子が仲間に支えながら学校生活を送る姿を描いており、彼らの言動と成長は観るものの心を打つのだが、彼らを支えた仲間たちの声が登場しないことが画竜点睛を欠く気がした。

 ぼくの大学の講義で人権教育や「非行」を取り上げたときの振り返りカードには、必ず「先生は課題のある子にかかりっきりで自分たちはほっておかれた」と書く学生がいる。おそらくは「いい子」だった彼らに、熱心に人権教育や「荒れ」に取り組む教師の姿勢が必ずしも好意的にとらえられていなかったことの証である。

 だからこそ、ぼくは、この映画で、いわゆる「普通の子」が、課題を背負う子と共に生活することを「よかった」と語るシーンを見たかったと思うのである。

 


質問にイヤホンをはずした首相

2015年01月05日 | 日記

 年末の総選挙報道のさなか、TV番組に出演した安倍首相が、質問に腹を立てたのか、イヤホンをはずし、あとは自説を主張するばかりという光景が流れた。

 以前にも、被爆者の願いを「見解の相違だ」と切って捨てた安倍氏。一国の首相ともあろう人が、批判や異論など、自分にとって嫌なことを聴こうとせず、ただ自説を声高に喋りつづけるというのも大人げないし、危うさを感じるが、ふと、ぼくは以前に出くわした教育研究集会での場面を思いだした。

 現役の教師だった時に参加した教育研集会でのこと、報告内容を批判された報告者が、「貴重なご意見をありがとうございました」と答えたのみで、その批判に真正面から答えようとしないことにあ然とさせられるということがあった。

 これでは、相互批判を通して、お互いの考えや実践を高めあうという研究集会の意義が失われてしまう。報告者は若い教師だったが、ここにも他人からの批判を嫌う、自己防衛本能が高いといわれる若者気質が現れていると、妙に感心したことを覚えている。

 しかし、首相から学校現場の教師まで、ありとあらゆる場面で、相互批判を避け、他者との関わりを毀棄しながら、自己主張だけは大きなで行うといった傾向は、確実に日本社会を劣化させるだろう。

 先行き不透明な社会で、人々はイライラし、他者への寛容さを失い、他者の声には応えず、自己主張だけを声高に唱える。日本社会がそうなった先にいったい何が待ち構えているのだろう。


またまたスポーツアナの男女観

2014年11月10日 | 日記

 またまた「男」の大合唱。それも今回はアナウンサーだけでなく解説者も加わってだった。

 11月8日、中国・北京で開かれていたフィギアスケート・グランプリシリーズ第3戦で、練習中に他の選手と衝突し負傷した羽生結弦選手が、ケガを押して本番に出場したが、その中継中のことである。

 羽生選手は最後まで滑り切り、演技後に涙を見せたが、その姿に「感動」したのか、思わず「興奮」したのか、アナウンサーも解説者も、声をそろえて「これぞ男」「男を見た」などと繰り返して叫んだのであった。

 ぼくも、その場面を見ていたし、羽生選手のミスをしながらもケガを押しての演技に「すごい」という思いをもった。しかし、このアナウンサーと解説者の「男だ」大合唱に白けてしまったことも事実である。

 これまでも、女子スケート選手で練習中に衝突したが、本番に出場し滑り切った選手もいる。しかし、そうした女子選手の頑張りを「これぞ女だ」「女を見た」などとは決して言わない。

 スケートに限らず、男性スポーツ選手のがんばりを「男」として賞賛する報道は多い。選手自身が「男としてがんばる」といったコメントを出すこともある。

 一方、女性選手のがんばりを「これぞ女だ」と賞賛するような報道に出会ったことはない。むしろ、結婚していることや子どもがあることに注目がいったりする。

 何しろ男性の日本代表は「侍ジャパン」、女性の日本代表は「なでしこジャパン」と命名されるスポーツ界である。こうした男女観が、どこかで、女性の社会進出の壁となっている職場や家庭における男女観とつながっている気がしてならない。