いそのまさはるの教育間欠泉

中学校教師を定年退職し、現在は大学非常勤講師をつとめる立場から、折に触れ教育課題への発言を間欠泉の如く吹き上げます

「七」を「ヒチ」と発音するのは「間違い」か?

2016年10月24日 | 日記

 最近、小学校一年生の授業を見せてもらう機会があった。

担任は新卒2年目の女性で、教科は国語。漢数字の読み方を学ぶ授業だった。

「一」から始まって、日本語の漢数字には単位によって読み方の変わる場合もあることを学んでいく。で、「七」になったとき、教師の「読んでみましょう」に指示に続いて、子どもたちが大きな声で発音したが、よく聴くと「シチ」という声と「ヒチ」という声が混じっている。そのことに気がついた教師が、それぞれどう言ったか手を挙げさせてみると、「シチ」派と「ヒチ」派はほぼ同数だった。

関西、特に京都では「七」を「ヒチ」と発音する。それだけではなく、「シ」と「ヒ」の区別が標準語と違うのだ。例えば「質屋」は「ヒチ屋」だし、「布団は敷く」を「ヒク」と発音する。もちろん、「京阪電車の「七条駅」は「ヒチ条駅」ということになる。生粋の京都人であるぼくなどは「職員室」を「職員ヒツ」と発音するぐらいだ。京都に近いその町は京都文化の影響をうけやすかったのかもしれない。だからこそ小学生の中にも「七」を「ヒチ」と発音する子どもいたというわけだ。

で、その授業だが、教師は「ヒチは間違っています。正しくはシチです。書くときも、発音するときもシチと言いなさい」と説明した。ただ「話すときはヒチといっている人もいるとい思いますが」と付け加えはしたが。

ぼくは、教師のこの説明に違和感をもった。「七」を「ヒチ」と発音するのは、明らかに方言だし、子どもたちが家庭の中で親たちとの会話のなかで 身に着けたものだ。これを「間違い」というのは、明らかに間違っている。もちろん、標準語でどう発音するかは教える必要がある。学習言語が標準語である以上、そのことは避けられない。しかし、その場合、日常会話の中にある方言をどうとらえ、子どもたちにその違いを「間違い」としではなく、標準語と方言に優劣をつけるのではなく、どう説明していくかということが大切だと考えさせられた。

かつて、沖縄の学校現場では標準語が強制された歴史があるが、方言でしか表せない気持ちの機敏というものもある。方言を「間違い」とはしない授業のあり方を考えさせられた授業ではあった。