いそのまさはるの教育間欠泉

中学校教師を定年退職し、現在は大学非常勤講師をつとめる立場から、折に触れ教育課題への発言を間欠泉の如く吹き上げます

地震報道と「日本人はすごい」

2018年06月20日 | 日記

6月18日、大阪府北部で震度6弱の地震が起こった。テレビは通常の番組をカットして、一日中地震関係のニュースを流していた。報道機関としては極めて当然のことではある。

 で、夕刻の情報バラエティ番組を見ていたら、交通機関が全面的にストップする中、帰宅する人々だろうか、多くの人が歩いている新淀川大橋が画面に映っていた。新大阪方面から大阪市内に向かう人と逆に新大阪方面に向かう人が一列に並んで整然と交差している。大阪市内側の橋のたもとで螺旋階段で下に降りる人は、警察官に誘導されて、少人数ずつに分かれて階段をを降り、残りの人はストップして順番を待っている。

 その時、男性のコメンテーターがやや興奮した口調で叫ぶように話し出した。「誰も列を乱さない。整然と歩いている。これが日本人の素晴らしさだ。視聴者の皆さんは、震災時における日本人の素晴らしさを目の当たりにしているという自覚をもって見て欲しい」と。

 昨今、テレビなどの「日本はすごい、日本人はすごい」を強調する番組の多さにやや食傷気味だったけど、「地震報道でもそれをやるか」と少し白けてしまった。

 もちろん、我先にならず、整然と歩くことはいいことだ。しかし、場所は大阪。その列の中にだって外国人はいたはずだ。それに、他方では、「しまうまが逃げだした」というデマが流されたり、「在日や中国人、外国人が暴動を起こそうとしている」というヘイトスピーチまがいのデマも流された。あるいは、震災を利用した詐欺行為も過去にはあった。

 そして、多くの外国人が、「何が起こっているのかよくわからなかった」という、外国語による情報伝達が不十分であるという問題も浮かびあがった。

 マスコミは、こうしたマイナス面をも報道し、震災時における報道機関のあり方を考えてほしいと思う。地震報道でまで「日本はすごい」を視聴者に植え付けようというのは如何なものか。

 


アルマーニ標準服騒動から考える

2018年03月23日 | 日記

 3学期も終わり、短い春休みを経て、新学期が始まる。昨年11月以来、マスコミでも大きく取り上げられた東京都中央区立泰明小学校でも、新1年生たちがアルマーニの標準服を着て登校するのだろう。

 件の校長が、保護者宛の文章でアルマーニ製の標準服を採用することを発表して以来、マスコミでも報道され、各方面で大きな議論が起こったが、ぼく自身が考えたことをいくつかのべてみたい。

 まず、泰明小学校が、校区以外からの入学が認めらる「特認校」という存在で、多くの子が校区外から通っていたということである。昨今、義務制においても学校選択制がひろがり、税金で運営され、本来は、何処の地域であれ、同じ質、同じ内容の教育が受けられるはずの学校間に、「選ばれた」学校と、「毀棄された」学校という格差が生じている。 

 どうやら泰明小の校長の頭の中には、同小を「特別な存在」(校長配布の文書より)だという意識があったようだ。だからこそ、「言動やマナーなど、児童の心に泰明小学校の一員であることの自覚が感じられない」(同)と思った校長は、「自分は泰明小の一員であるから、そのようなふざけた行いはしないと自戒できる児童を育てたい」(同)という思いから、アルマーニの標準服の着用を思い立ったらしい。

 ぼくの勤めていた市でも、中学校に「通学地域の弾力化」が導入され、「選ばれる」学校と「毀棄される」学校という格差が生じた。ある時、「選ばれる」側にあった中学校の授業研に参加したが、受付で、市内の小学校から来たことを知ったその学校の教頭が「いい子を送ってください」といった。裏を返せば、「課題のあるような子は送らないでください」と言っているのと同じで、ぼくは、そこに「我々は選ばれた学校だ」という鼻持ちならないエリート臭を感じた。

 このように、管理職、時には教職員や子どもたちにまで「他の学校とは違う」という、他校を見下すような歪んだエリート意識を植え付ける学校選択制には大きな問題があるといわざるを得ない。  

 次に「標準服」の問題である。ぼくの勤めていた学校にも「標準服」と呼んでいた学校があったが、誰一人として、「標準服」以外の服を着てくる子はいなかった。同調圧力の強い日本の学校では、実質上は「制服」なのである。 なのに学校側は「嫌なら買わずに別の服を着て来たらいい」という。誰もそんな子はいないだろうと高をくくっているくせに、である。同時に「標準服」を名乗り、建前上は「着なくてもいい」とすることで、「制服」に対するさまざまな批判をかわそうという意図もある。言い換えで批判をかわすのは思想的退廃だとぼくは思うが・・・

 それに、そもそも小学校に「標準服」「制服」が必要か、という問題がある。育児や教育における「遊び」の大切さが言われている。「学力」だって、その根っこの「意欲」「関心」などは、遊びのなかで育つものである。休み時間に運動場で遊ぶのに、「標準服」「制服」はふさわしくない。汚れたからといって、翌日までに洗濯して乾かすことはまず不可能だし、2着持っている子などいないだろう。で、汚れることを気にして、外で思いっきり遊ばないというのでは、本末転倒である。

 そして、アルマーニ標準服の採用が校長の独断だった点である。昨今、学校現場では、「校長のリーダーシップ」が声高に言われ、職員会議を議決機関ではなく、校長の諮問機関と位置づけたり、職員会議では多数決を採らないことが当たり前になっている。

 もちろん、緊急で即断を要するような場面で、管理職が決断するなど、「校長のリーダーシップ」をすべて否定するものではない。しかし、教育というものは、先の先を見通しながらすすめるものだし、学校運営は、企業経営と違って、さまざまに意見を交わしながら丁寧に共通認識を生み出しつつ進めるものだと思う。5年前後で転勤していく校長があらゆることを専決し、校長が変わるたびに方針が変わるというのでは、リスクが大きすぎる。泰明小学校においても、標準服の選定にあたっては、他の教職員や保護者の意見をも取り入れながらの作業が必要なのではなかったか。 さすれば、アルマーニということにならなかっただろうし、ここまで問題が大きくはならなかったのではないか。

 と、まあ、多くのことを考えさせられた「アルマーニ標準服騒動」だった。


夏休み短縮で「学力」は向上するか

2018年02月19日 | 日記

 全国順位や全国平均より上か下かばかりが注目される全国学力調査だが、2017年度の結果でも全国平均を下回っていた東松山市で、市教育委員会が、夏休みを5日間短縮することにしたと報じられた。

 同様の意図で、「学力向上」を掲げて夏休みを短縮することが全国的な潮流になっているようだが、本当に、それで「学力」は向上するのだろうか。

 PISA調査における順位低下が、「学力低下」だと大きく取り上げられた時期の文科省もそうだが、日本では、「学習時間を増やす」とか、「学習量」を増やす」と「学力」が向上すると信じる向きがある。しかし、ぼくの知る限り、そのことを比較研究したという話は聞かない。

 教育というのは、ただちに結果がでるというものではなく、その政策が妥当であったかどうかがわかるのは、10年先、20年先のことである場合も多い。しかも、もし、その政策が妥当性を欠いたものであったとしても、その時には開始時の責任者は、その部署にいない。すなわち、失敗の責任を誰もとらないし、とりようもないという性格をもつのである。

 だからこそ、新たな施策の導入には慎重であるべきなのだが、報道で見る限り、かの東松山市で、夏休みの短縮が「学力向上」に結びつくか否かの検証はなされていないようだ。例えば、モデル校を設定し、「短縮したクラス」が「従来通りのクラス」よりも「学力」が向上したというデータを基づいて全市的に実施するならば、調査結果だけを「学力」とすることの是非は別にして、夏休み短縮も「説得力」を持つことになるのだが・・・

 おそらくは、「なぜ全国平均より低いんだ」という市民、もっといえば議会の追及を受けて、「何か形の見える対策をとる」必要にかられた結果だというのが本当のところだろう。

 全国学力調査が始まって以来、全国順位を上げる、全国平均を上回ることを至上命令に、全国で、こうしたゆがんだ指示が現場に下ろされているという。

 ある市では、支援学級に在籍する子どもを集計からはずし(それ自体は違法ではないらしい)、平均点を上げようという動きがあるという。また、ある学校では、テスト結果を分析し、次回に向けて、子どものミスが多かった問題の類似問題を繰り返しやらせることにしたという。

「結果」だけにとらわれて、学校現場が歪みつつある悉皆調査による全国学力調査はやめるべき時期に来ているのではないか。

 


違和感を覚えた水泳教室の風景

2018年01月15日 | 日記

 腰が痛くて歩きづらく、医師の診察を受けたら「股関節変形症」と診断された。

 「手術が唯一の治療方法」と言われたが、できれば手術を避けたく、スポーツジムに入会して、水中ウオークで尻周りの筋肉を鍛えることに取りくんでみることにした。

 で、さっそく近くのジムに通い始めたのだが、そこのプールで見かけた、子ども対象の水泳教室の風景には、違和感を感じざるを得なかった。

 そのひとつは、教室が始まるときに、プールサイドに集合させられた子どもたちが「正座」して点呼を受けていたことである。もちろん、硬いプールサイドのこと、子どもたちは、ビート版を敷き、その上に正座してはいたが。

 ぼくには、子どもたちを点呼する時に、なぜ「正座」させる必要があるのか、まったく理解できなかった。おそらくは、教室側が「しつけもしています」と保護者にアピールしたかったのだろう。水泳だけでなく、多くの子ども対象のスポーツ団体が、「しつけにも力を入れる」ことを宣伝している。保護者にとっては、そうしたスポーツ団体は、競技の楽しさや力量を身につける場としてだけではなく、「しつけもしてもらえる」場として歓迎されているのかもしれない。「しつけ」という本来家庭が果たす役割が、ここでもアウトソーシングされている現実がある。そして、このことが体罰をも容認する世論につながっている気がしてならない。

 こうして日本のスポーツはいともたやすく「スポーツ道」になってしまうのだが、ここでいわれる「しつけ」とは、「正座」や「あいさつ」、そして目上のものに「服従する」という形式上のもので見た目にもわかりやすいものに偏りやすい。「お互いを認め合い、尊重する」「弱い立場のものに寄りそう」といった、人として大切なことは、「しつけ」として考慮されていない。だからこそ、「礼に始まり、礼に終わる」などいい、「礼儀」を重んじているはずの柔道や剣道の全国でもトップレベルの選手が、セクハラという女性の人権をないがしろにする事件を起こすのだ。

 もうひとつは、待機室で待つ親たちについてである。小学生になるかならないかの小さい子ども対象の水泳教室なので、保護者同伴であり、プールサイドには、保護者が練習風景を見ることができるガラス張りの待機室もある。

 ところが、ふと見ると、そこで子どもを待つ保護者の大半は、子どもの泳ぐところを見ていない。お定まりのスマホである。

 当節、当然かもしれないが、これにも驚かされた。そういえば、近くの公園でも、子どもを連れてきた親が、子どもといっしょに遊ぶのではなく、自分はスマホを見ている場面を見かけることが多い。 電車の中やレストランでもそうだが、親子が同じ場所で同じ時間を過ごしながら、お互いが自分のスマホに夢中で交わっていない。

 子どもがスマホ依存症に陥ることの問題は議論されることも多いが、子育て世代の大人が、子どもといっしょにいる場面で、子どもとではなくスマホに夢中になっていることの弊害を、子育て問題としてもっと論じるべきではないか。この子どもたちが、どのような人間に育っていくのか、ぼくの不安はつきない。

などなど、考えることの多い、ぼくの水中ウオークである。

 

 

 


学生を覆う「感謝する」空気

2017年12月21日 | 日記

 担当する教職課程の「特別活動論」で、学生たちに「卒業式の式次第と式に向けた取り組み」についてのペア学習をさせてみた。学生たちは自分たちの体験も踏まえて、「感動的な卒業式」にしたいと考え、そのためのプログラムや事前のとりくみを考え出した。

 ただ一つ気になったのは、いくつかのペアで「(保護者や教師に)感謝する」ことが強調されていたことである。あるペアの企画案の「どのような卒業式をめざすか」という欄には「感謝」と書かれ、それをめざすプログラムの欄には「仲間、親、先生への感謝を一人一人が述べる」とあった。また別のペアも同じく「感謝」する卒業式をめざすとし、そのためのプログラムには「感謝する人に手紙を書く」とあった。

 さらに、講義後の振り返りカードでも、「その一日は思い出や関わった人に感謝するとても大切な日なので、プログラムをどうしていくかが教師にとって大切だと思った」や「大切なのは感謝であると思います。なので、自分が卒業式を構成するなら、生徒の感謝の言葉を絶対に入れたいです」など書く学生がいた。

 ここにも、昨今、好成績をあげたアスリートがマスコミなどのインタビューに応える時、判で押したように「支えてくれた人に感謝している」と言う、というか「言わないといけない」と当事者に感じさせている社会の空気が影響を与えていると思えた。

 何も「感謝する」ことが悪いといっているのではない、ただ、「感謝」というのは伝えたい人に伝えればいいのであって、公の場で「~に感謝している」と言うべきものはないと思うのだ。まいしてや、そう言わざるをえなくしている「道徳自警団」(古谷経衝)的空気の広がりには嫌悪感を感じてしまうのである。

 さらに言うなら、ぼくは、「感謝」については、「感謝で大切なのは、感謝できる自分に感謝すること」だという発達障がいの当事者である東田直樹さんの説の大賛成である。

 卒業式のプランを考える中にも、今日の若者の考え方が垣間見えた講義であった。