3学期も終わり、短い春休みを経て、新学期が始まる。昨年11月以来、マスコミでも大きく取り上げられた東京都中央区立泰明小学校でも、新1年生たちがアルマーニの標準服を着て登校するのだろう。
件の校長が、保護者宛の文章でアルマーニ製の標準服を採用することを発表して以来、マスコミでも報道され、各方面で大きな議論が起こったが、ぼく自身が考えたことをいくつかのべてみたい。
まず、泰明小学校が、校区以外からの入学が認めらる「特認校」という存在で、多くの子が校区外から通っていたということである。昨今、義務制においても学校選択制がひろがり、税金で運営され、本来は、何処の地域であれ、同じ質、同じ内容の教育が受けられるはずの学校間に、「選ばれた」学校と、「毀棄された」学校という格差が生じている。
どうやら泰明小の校長の頭の中には、同小を「特別な存在」(校長配布の文書より)だという意識があったようだ。だからこそ、「言動やマナーなど、児童の心に泰明小学校の一員であることの自覚が感じられない」(同)と思った校長は、「自分は泰明小の一員であるから、そのようなふざけた行いはしないと自戒できる児童を育てたい」(同)という思いから、アルマーニの標準服の着用を思い立ったらしい。
ぼくの勤めていた市でも、中学校に「通学地域の弾力化」が導入され、「選ばれる」学校と「毀棄される」学校という格差が生じた。ある時、「選ばれる」側にあった中学校の授業研に参加したが、受付で、市内の小学校から来たことを知ったその学校の教頭が「いい子を送ってください」といった。裏を返せば、「課題のあるような子は送らないでください」と言っているのと同じで、ぼくは、そこに「我々は選ばれた学校だ」という鼻持ちならないエリート臭を感じた。
このように、管理職、時には教職員や子どもたちにまで「他の学校とは違う」という、他校を見下すような歪んだエリート意識を植え付ける学校選択制には大きな問題があるといわざるを得ない。
次に「標準服」の問題である。ぼくの勤めていた学校にも「標準服」と呼んでいた学校があったが、誰一人として、「標準服」以外の服を着てくる子はいなかった。同調圧力の強い日本の学校では、実質上は「制服」なのである。 なのに学校側は「嫌なら買わずに別の服を着て来たらいい」という。誰もそんな子はいないだろうと高をくくっているくせに、である。同時に「標準服」を名乗り、建前上は「着なくてもいい」とすることで、「制服」に対するさまざまな批判をかわそうという意図もある。言い換えで批判をかわすのは思想的退廃だとぼくは思うが・・・
それに、そもそも小学校に「標準服」「制服」が必要か、という問題がある。育児や教育における「遊び」の大切さが言われている。「学力」だって、その根っこの「意欲」「関心」などは、遊びのなかで育つものである。休み時間に運動場で遊ぶのに、「標準服」「制服」はふさわしくない。汚れたからといって、翌日までに洗濯して乾かすことはまず不可能だし、2着持っている子などいないだろう。で、汚れることを気にして、外で思いっきり遊ばないというのでは、本末転倒である。
そして、アルマーニ標準服の採用が校長の独断だった点である。昨今、学校現場では、「校長のリーダーシップ」が声高に言われ、職員会議を議決機関ではなく、校長の諮問機関と位置づけたり、職員会議では多数決を採らないことが当たり前になっている。
もちろん、緊急で即断を要するような場面で、管理職が決断するなど、「校長のリーダーシップ」をすべて否定するものではない。しかし、教育というものは、先の先を見通しながらすすめるものだし、学校運営は、企業経営と違って、さまざまに意見を交わしながら丁寧に共通認識を生み出しつつ進めるものだと思う。5年前後で転勤していく校長があらゆることを専決し、校長が変わるたびに方針が変わるというのでは、リスクが大きすぎる。泰明小学校においても、標準服の選定にあたっては、他の教職員や保護者の意見をも取り入れながらの作業が必要なのではなかったか。 さすれば、アルマーニということにならなかっただろうし、ここまで問題が大きくはならなかったのではないか。
と、まあ、多くのことを考えさせられた「アルマーニ標準服騒動」だった。