goo blog サービス終了のお知らせ 

いそのまさはるの教育間欠泉

中学校教師を定年退職し、現在は大学非常勤講師をつとめる立場から、折に触れ教育課題への発言を間欠泉の如く吹き上げます

男性スポーツアナの男女観

2014年09月22日 | 日記

 韓国仁川で開催中のアジア大会の水泳200m自由形で荻野公介選手が金メダルを獲得した。たまたまTVの中継を見ていたが、150mの折り返しでは3位だった荻野選手の追い上げは見ていても素晴らしかった。

 ただ、彼が1位でゴールした時、実況していたアナンサーが荻野選手のことを、やや興奮気味に「やってくれる男」だと表現した時、ぼくは「ああ、またか」という思いを強くもった。スポーツ番組では、男性アナが、男子選手のことを「〇〇な男だ」と紹介することが、プロ野球中継を中心に、これまでもたびたび見られたからだ。

 しかし、女性アスリートのことを「〇〇な女だ」と紹介したり、賞賛した実況にでくわしたことはない。おそらくは皆無ではないか。それどころか、女子マラソン中継をしていた男性アナが、アップになったある既婚の女性選手に向かって「行け!人妻〇〇(名前)!」と絶叫したことすらある。既婚の男性アスリートにむかって「夫〇〇」なんていうはずもないのである。

 ぼくには、ここに男性スポーツアナの男女観が如実に現れている気がしてならない。

 スポーツ選手の大半が男性だった時代ならいざ知らず、ほとんどのスポーツに女性が進出し、世界で活躍する女性アスリートも多い時代に、ことさら「男」を強調する口調は時代錯誤だし、男女共生参画社会には似つかわしくない。

 男性アナ諸氏に意識改革を強く求めたいし、局全体でのとりくみを期待したい。

 

 

 

 

 

 


教師は「聖職」か?

2014年09月08日 | 日記

 仕事がら講演を頼まれることがある。ただ、当初から「〇〇円でお願いできますか」と講演料を提示されることはほぼ皆無である。もっとも、それでもぼくは「幾らでですか?」と訊くことはない。講演料について確認することなく、日時が合えばOKしている。

 これって、何事も商品化される資本主義に反していると思うのだが。ちなみに、ある団体が教師以外、例えば俳優、作家、知識人、スポーツ選手などに講演を依頼するの際、講演料を提示しないでというのはありえないだろう。

 で、講演が決定し、打ち合わせに入るのだが、この時になって「金額は〇〇円でお願いします」と申し出られる団体も半分に満たない。多くの団体では、講演終了後に、講演料を渡されるか、銀行振り込み手続き用紙に書き込む段になって、金額が分かることになる。なかには、それでも、金額を口に出さず、後日銀行通帳を見て金額が分かるという団体も少なくない。

 講演を依頼されるほとんどは教育委員会か教育団体。教師には「お金のこと」を口にするのに抵抗があるのだろうか。もっとも、そういうぼくも、講演料の金額をこちらから尋ねることはない。

 やはり、教育界には「教育を金の多少で計るることはよくない」という「聖職論」的な空気が強いのかもしれない。

 ただ、ぼくには、こうした空気と「教師が残業代もなく、無定量に働きブラック企業化している」学校現場と「教師が労働条件の改善などを求めるはおかしい」とする社会とがどこかでつながっているような気がしてならない。


都議会のおけるセクハラ野次に思う

2014年06月24日 | 日記

 18日、東京都議会で女性都議が「女性が一人で妊娠、出産、育児で悩んでいる」との質問中、「早く結婚すればいい」「子どもを生まないのか」などの野次が飛んだ。

 野次が低レベルなのは、今さら驚きもしないが、巷では「結婚できない男と結婚しない女」と言われているように、女性が結婚を躊躇せざるをえない家庭内の男女のあり方や、子どもを抱えながら働く女性への支援策が乏しいこと、何よりも「女は家で家事や育児をしてたいたらいい」という日本社会にいまだに根強い固定的な性別役割分担論に、男性政治家がどれほどの問題意識を持っているのだろうかとあらためて思わされた野次だった。

 さらに、問題なのは、23日まで、野次を飛ばした本人が「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいたことである。ご丁寧にも、20日、マスコミの取材の答えて、「品のないヤジは良くない。同じことが起きないようにしないといけない」とか「私はない。寝耳に水でびっくりしている。」とか述べていたのである。

 で、世間から批判も高まり、自民党内からも名前を出されるいたって、名乗り出たという体たらくであった。

 また、テレビニュースで見る限り、そのヤジに対して議場内には大きな笑い声が起こっていた。諌める発言は皆無だったように思う。かの女性議員の口惜しさはいかほどのものか。都議会(だけではないだろうが)のレベルの低さを見せつけられたと感じたのはぼく一人ではないだろう。

 また、ヤジが起こった瞬間、その女性議員の口元が一瞬緩んだように見えた。学校でのいじめでも、いじめられた子が笑っているように見えることがある。それは、いじめに対して無力な被害者が、笑ってやり過ごすことでかろうじて自己の尊厳を保とうとするからだ。

 諌める発言がなく、笑いに包まれ、彼女が笑い過ごそうとせざるを得なかった議場。まったく、子どもたちのいじめの構造そのままの議員諸氏に道徳教育云々を語る資格はない。


「嗜好」と「指向」

2014年05月26日 | 日記

 ある県で、保守系議員が、県がすすめている男性同士の性行為によるHIV感染防止の啓発活動を疑問視する発言をしていたことが新聞で報じられた。

 しかもその県議、新聞社の取材に対して「偏った性嗜好で本来ハイリスクは承知でやっている人たちのこと。他にも重要課題がある中、行政が率先して対応する必要はない」と答えたという。

 同性愛を「性嗜好」だとする誤解や偏見もさることながら、「ハイリスクは承知でやっている人たち」と、昨今はやりの自己責任論をふりまくところは、さすが保守系政治家というべきか。

 人の愛が誰に向かうか、異性なのか、同性なのか、いわば性指向は個人のアイデンティティであって、「嗜好」などではない。同性愛や性同一障がいなど、性的マイノリティの人たちへの理解は徐々にではあるが拡がりつつある。そのような中での議員の発言のレベルの低さには驚かざるを得ない。

 文科省が全国の学校に配布している「生徒指導提要」に、「不登校の子どもにとって居心地の良い学校は、すべての子どもにとって居心地の良い学校である」とある。少数派のあり様が、全体の社会や組織のあり様を映し出す鏡であると、かの文科省も言っているのだと思う。

だとするなら、性的マイノリティの人たちがすごし易い社会は、誰にとってもすごし易い社会であるといえるのだ。日本社会がそのような多様性を持つことを目指したいと思う。

 


首長の思いつきで学校現場が振り回されたH市

2014年05月05日 | 日記

 かつて菊人形で有名だったH市の学校現場でのことである。

 もう20年ぐらい前の話だが、当時の市長が市の花でもある菊を市立の全小中学校で育て、その作品展を開くことを思いついた。当たり前といえば当たり前だが、学校現場には何の相談もなかった。

 で、ある日、突然市教委から、各学校長に、「指示」だったか「要請」だったかは定かでないが、「菊を育てる」ことが下ろされたのである。たとえ「要請」であったとしても、当時断れる校長は誰一人いなかった。しかも、作品展が開かれ優劣が付けられるのだ。中には、菊づくりの好きな校長さんもいたかもしれないが、大半の校長にとっては迷惑な話であったことは想像に難くない。

 とは言え、いい加減に育てることはできない。できばえが自らの身の安全に関わるからだ。当時のH市では、校長の他市への転勤も多く、「市教委に逆らうと他市に転勤させられる」とまことしやかにささやかれていたのだから。

 結果、各学校では、校長や教頭、そして地域の人までが動員されて、本音では「やりたくもない」菊づくりに追われることになった。失敗したり、いいものができなかったら大変だ。いつのころからか、誰言うともなく、学校現場では、その菊のことを「お菊さま」とやや自嘲気味に呼ぶようになっていた。

 毎年、全学校からの出展で作品展が開かれたが、ある年、作品展を見た市民が「こんな立派な菊を作っていて学校は大丈夫なのか?」と言ったという。笑うに笑えない話なのだが、「学校は他にすることがあるだろう」という、しごく真っ当な市民の声だった。

 当の市長が換わってすでに10年がたっている。にもかかわず、積極的に賛成する校長など誰もいない菊づくりが今も続けられている。

 たとえ思い付きで始まったものでも、そして今や誰も賛成していなくても、いったん始まったことを止める勇気をもたないのが、行政というものの性なのだ。

 昨今、教育委員会よりも首長の権限を強めようという動きが強まっているが、全国に1741ある市町村の首長が、すべて教育について専門的な知識があり、学校現場への理解があるとは到底思えない。

 しかし、人が誰でも「教育評論家」にはなれる。強い権限を握った首長の思いつきで学校現場が振り回されることだけは避けてほしいものだ。