いそのまさはるの教育間欠泉

中学校教師を定年退職し、現在は大学非常勤講師をつとめる立場から、折に触れ教育課題への発言を間欠泉の如く吹き上げます

違和感を覚えた水泳教室の風景

2018年01月15日 | 日記

 腰が痛くて歩きづらく、医師の診察を受けたら「股関節変形症」と診断された。

 「手術が唯一の治療方法」と言われたが、できれば手術を避けたく、スポーツジムに入会して、水中ウオークで尻周りの筋肉を鍛えることに取りくんでみることにした。

 で、さっそく近くのジムに通い始めたのだが、そこのプールで見かけた、子ども対象の水泳教室の風景には、違和感を感じざるを得なかった。

 そのひとつは、教室が始まるときに、プールサイドに集合させられた子どもたちが「正座」して点呼を受けていたことである。もちろん、硬いプールサイドのこと、子どもたちは、ビート版を敷き、その上に正座してはいたが。

 ぼくには、子どもたちを点呼する時に、なぜ「正座」させる必要があるのか、まったく理解できなかった。おそらくは、教室側が「しつけもしています」と保護者にアピールしたかったのだろう。水泳だけでなく、多くの子ども対象のスポーツ団体が、「しつけにも力を入れる」ことを宣伝している。保護者にとっては、そうしたスポーツ団体は、競技の楽しさや力量を身につける場としてだけではなく、「しつけもしてもらえる」場として歓迎されているのかもしれない。「しつけ」という本来家庭が果たす役割が、ここでもアウトソーシングされている現実がある。そして、このことが体罰をも容認する世論につながっている気がしてならない。

 こうして日本のスポーツはいともたやすく「スポーツ道」になってしまうのだが、ここでいわれる「しつけ」とは、「正座」や「あいさつ」、そして目上のものに「服従する」という形式上のもので見た目にもわかりやすいものに偏りやすい。「お互いを認め合い、尊重する」「弱い立場のものに寄りそう」といった、人として大切なことは、「しつけ」として考慮されていない。だからこそ、「礼に始まり、礼に終わる」などいい、「礼儀」を重んじているはずの柔道や剣道の全国でもトップレベルの選手が、セクハラという女性の人権をないがしろにする事件を起こすのだ。

 もうひとつは、待機室で待つ親たちについてである。小学生になるかならないかの小さい子ども対象の水泳教室なので、保護者同伴であり、プールサイドには、保護者が練習風景を見ることができるガラス張りの待機室もある。

 ところが、ふと見ると、そこで子どもを待つ保護者の大半は、子どもの泳ぐところを見ていない。お定まりのスマホである。

 当節、当然かもしれないが、これにも驚かされた。そういえば、近くの公園でも、子どもを連れてきた親が、子どもといっしょに遊ぶのではなく、自分はスマホを見ている場面を見かけることが多い。 電車の中やレストランでもそうだが、親子が同じ場所で同じ時間を過ごしながら、お互いが自分のスマホに夢中で交わっていない。

 子どもがスマホ依存症に陥ることの問題は議論されることも多いが、子育て世代の大人が、子どもといっしょにいる場面で、子どもとではなくスマホに夢中になっていることの弊害を、子育て問題としてもっと論じるべきではないか。この子どもたちが、どのような人間に育っていくのか、ぼくの不安はつきない。

などなど、考えることの多い、ぼくの水中ウオークである。

 

 

 


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