いそのまさはるの教育間欠泉

中学校教師を定年退職し、現在は大学非常勤講師をつとめる立場から、折に触れ教育課題への発言を間欠泉の如く吹き上げます

久しぶりに出会った気骨ある質問

2013年06月24日 | 日記

 「『これまでの人権教育は、被差別の立場のマイノリテイの人々に焦点を当てたもので、多数の子どもにとっては自分のことではなかった』とおっしゃいましたが、先生は『自分の問題として考えよう』と子どもたちに言ってこなかったのですか」

 ある若い教師向けの講演会で、話が終わった後の質疑の時間に参加者の一人からこう質問された。ぼくは「もちろん、子どもたちには自分の問題として考えるように言ってきたけど、なかなか難しかった」と答え、彼は「そう言われているとは思いましたが、先生の口からそう言ってほしかったのです」と応じたが、会場の他の参加者に「自分の問題として考えるべきだ」ということを聞かせたかったようで、その目はちょっといたずらっぽく笑っているように見えた。

 それにしてもである。彼のように講演者に批判的な質問をする参加者に出会ったことは久しくなかった。

 講演の後で主催者が用意した「振り返りカード」が配られることが多いが、後日送られてきたものを読むと、そこに書き込まれた参加者の感想は「ありがとうございました」「よかった」のオンパレードである。ある時など、主催者に「批判的な声も聞かせて」とお願いしてみたが、送られてきたカードには「批判的なものはありませんでした」という主催者の添え書きがつけてあったほどである。

 決してぼくの講演が「良かった」からではない。これは、昨今多くの講演や研修の場で普通にみられることなのである。それだけではない、研究授業の後の研究協議でも、発言者は必ず「今日はありがとうございました」と言ってから意見を述べる。それも、「~がよかった」という話ばかりである。

 ある全国レベルの研究会に出たとき、さすがに、発表者への批判的意見を述べる参加者がいたが、その時の発表者の「貴重なご意見ありがとうございました」には、呆れかえってしまった。その批判的に危険へのコメントは一切なしなのである。これでは議論など成り立たない。

 人は他者を鏡して自分を知る。他者を鏡としない、また自らも他者にとって意味のある他者になろうとしない、こうした研修や研究のあり方で、教師の力が高まるはずもない。

 最近、こうした思いが強かっただけに、件の批判的質問をしてくれた気骨ある青年教師にとてもうれしくなったのあった。

 


教師をめざす学生の「体罰」論

2013年06月03日 | 日記

 大学の講義で「体罰」問題をグループ討議させた後、学生たちに書かせた「自分は体罰をこう考える」で、約四割の学生は「体罰」を否定しなかった。

 ある学生は言う。「私は行き過ぎ体罰(ケガ、流血)は反対ですが、ある程度の体罰は必要だと思います。理由は私自身体罰を受けて真面目になれたなーと思うからです」と。他にもスポーツ推薦で入学したという学生が「・・・ここまで有名な大学に来れるなど思ってもみなかった。振り返ってみれば全て部活動の顧問のおかげだと思っている。その先生は、何よりも礼儀に厳しく、試合に負ける事より礼儀だけは他の学校に負けるなと教えてくれた。時にはスリッパやパイプいすなどもなげるほど怒り易い先生だった」と書いていた。
 すなわち「体罰」を用いた指導で「良くなった」とか「強くなった」と本人が感じた経験を持つ学生は、「体罰」を肯定する傾向にあるということがわかる。彼らが教師になった時、「体罰」の連鎖は十分に起こりうる。また、今、そうした学生に「体罰」の問題点を指摘するだけではあまり抑止力になるとも思えない。ここにも学校現場で「体罰」をなくすことの難しさがあると思わされた記述であった。

 さらに、自らは「体罰」を受けた体験はなくても、いわゆる「生活指導」上の「体罰」を否定しきれない意見も多く見られた。
 「言葉を尽くしても伝わらない、しかし何としても伝えなければならない事柄というのは存在する。その時に出る手、その全てを悪として禁じていいのだろうか」「言葉だけで生徒全員をくまなく指導できるかというとはなはだ疑問である」「『指導』の域からでないことのほうが望ましいが、やむを得ない事情で多少行き過ぎることは仕方のないことだ」「指導者は、生徒に対して本気で接している。だから、気持ちが高ぶって手を出してしまうこともあると思う。指導者も人間なのだから、本気で生徒と接する以上は、手が出てしまったというのは理解できる」などである。
 「言葉で言ってもわからないから」-これもまた、現場で体罰が否定しきれない要因であることを考えると、こうした意見を書いた学生が教師になった時、「体罰」に依ってしまう恐れは十分にある。

 「体罰」をなくしていくことの難しさをつくづく考えさせられた学生たちの「振り返りカード」であった。しかし、それでもぼくが、学生たちが教師となった時の“今後”に期待しようと思えたのは、学童保育の指導員のアルバイトをしているという女子学生の次のような文章を目にしたからだった。 
「やんちゃな生徒も多く、何度口で言っても聞かずに暴れ回ったりケンカしたり、反抗的な態度をとってきたり・・・自分も人間なのでついカッとなって、手がでてしまいそうになります。手をあげるフリもしたことがあります。でも、それはその場の解決にはなるけれど、どうして自分が怒られているのか、その根本的なところを知らなければ、また生徒は同じことをくり返すかもしれないし、私の前ではやらなくなっても他のところではやり続けるかもしれません。なので私は、一緒に考えられるようにしています。(中略)たくさんの仕事とそのプレッシャーの中で、自制心を持ち生徒と関われるように先生自身心を鍛えていくことも必要なことなのかなと思いました」。   

 多くの現場教師は、元文科大臣のように「体罰を否定しちゃって教育なんかできない」と思っているわけではない。戸塚ヨットスクール校長のように「体罰は子どもの進歩を期待して」と考える教師もほとんどいないだろう。
 だが、その一方で前述の女子学生が書いているような子どもの現実を前にして悩んでいるというのが本当のところではないのか。元現場教師としては強くそう思うのだ。
 だからこそ、ぼくは、決して「体罰」を肯定せず、子どもの現実を前に悩み続ける教師こそが、やがて「体罰」に依らない実践力を身につけることができると確信している。そして、彼女のような次世代の学校現場を担うことになる学生たちに「悩む」教師になって欲しいとエールを送りたいと思っているのだ。