「『これまでの人権教育は、被差別の立場のマイノリテイの人々に焦点を当てたもので、多数の子どもにとっては自分のことではなかった』とおっしゃいましたが、先生は『自分の問題として考えよう』と子どもたちに言ってこなかったのですか」
ある若い教師向けの講演会で、話が終わった後の質疑の時間に参加者の一人からこう質問された。ぼくは「もちろん、子どもたちには自分の問題として考えるように言ってきたけど、なかなか難しかった」と答え、彼は「そう言われているとは思いましたが、先生の口からそう言ってほしかったのです」と応じたが、会場の他の参加者に「自分の問題として考えるべきだ」ということを聞かせたかったようで、その目はちょっといたずらっぽく笑っているように見えた。
それにしてもである。彼のように講演者に批判的な質問をする参加者に出会ったことは久しくなかった。
講演の後で主催者が用意した「振り返りカード」が配られることが多いが、後日送られてきたものを読むと、そこに書き込まれた参加者の感想は「ありがとうございました」「よかった」のオンパレードである。ある時など、主催者に「批判的な声も聞かせて」とお願いしてみたが、送られてきたカードには「批判的なものはありませんでした」という主催者の添え書きがつけてあったほどである。
決してぼくの講演が「良かった」からではない。これは、昨今多くの講演や研修の場で普通にみられることなのである。それだけではない、研究授業の後の研究協議でも、発言者は必ず「今日はありがとうございました」と言ってから意見を述べる。それも、「~がよかった」という話ばかりである。
ある全国レベルの研究会に出たとき、さすがに、発表者への批判的意見を述べる参加者がいたが、その時の発表者の「貴重なご意見ありがとうございました」には、呆れかえってしまった。その批判的に危険へのコメントは一切なしなのである。これでは議論など成り立たない。
人は他者を鏡して自分を知る。他者を鏡としない、また自らも他者にとって意味のある他者になろうとしない、こうした研修や研究のあり方で、教師の力が高まるはずもない。
最近、こうした思いが強かっただけに、件の批判的質問をしてくれた気骨ある青年教師にとてもうれしくなったのあった。