大阪市教委が、今年の教員採用試験で「筆記重視」の方針を打ち出した。マスコミ報道によると、「教科の中身に習熟していない若い教諭が目につくようになった」ということがその理由らしい。
しかし、マスコミ報道でみるかぎり、そうなってきた理由についての市教委の見解はないようだ。一般的な「学力低下」が背景にあるとでも考えているのだろうか。まさか「ゆとり教育のせいだ」というつもりではないだろうな。
大阪の教育の現状に関心を寄せている者なら、すぐに気が付くことだが、大阪の教員採用テストで受験者の「学力不足」が顕著なのは、倍率の低さによるものだ。すなわち「優秀」な学生が大阪の教員採用テストを毀棄しているからに他ならない。その根本的な原因をさぐり、有効な手立てをとらずして、「筆記」を重視すれば「優秀」な人材があつまるというのは、あまりにもノー天気な考え方だ。
佐藤学さんは、大阪や東京など大都市の教育の難しさは世界共通だとして次のように述べている。少し長いが引用したい。
「大都市の教育は困難を極めている。子どもが発達する文化、経済、社会環境が劣化しているし、現代的な教育課題が集約して現れ、地域の共同体は崩壊し、教師は疲労困憊していて授業の質は低い。大都市の学校で何よりも困難に感じるのは、同僚性の構築が難しいことである。教師は孤立するか、数人のグループで徒党化しており、声の大きな一部の教師だけで学校が運営され、校内研修は形式化し形骸化している。それに加えて保護者も孤立するか、いくつもの小グループに徒党化しており、地域と学校との信頼関係も崩壊している。そうなると、一人残らず子どもの学ぶ権利を実現し質の高い学びを求めて、教師も子どもも保護者も一人ひとりが「主人公」になって民主的連帯を形成する「学びの共同体」づくりは困難を極める。しかも保守的な首長による数値目標至上の官僚的統制と競争原理による教育行政がいっそう困難な状況をつくりだしている。」(佐藤学「学び合う教室・育ち合う学校」小学館2015年)
要は、大阪の学校現場はあらゆる面で極めて厳しい状況下にあるということで、ぼくもまったく異論はない。しかし、現状ではこうした状況に切り込む施策は打ち出されていない。それどころか、すべてを教師や学校のせいにし、苦闘する現場教師のやる気を削ぐバッシングが首長からさえなされているのが大阪の現状である。これでは、教師をめざす学生が大阪を毀棄するのは理の当然だ。
今、教育行政に求められるのは、子どもをとりまく劣悪な社会環境を改善する施策を打ち出すこと、全国的に最下位に置かれている大阪の教師の賃金水準を引き上げること、そして、教職員がいきいきと学校づくりに取りくめる権限を現場に返すことである。このことを抜きにして、「筆記」重視で「優秀」な人材があつまるなどいうことはありえない。