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いそのまさはるの教育間欠泉

中学校教師を定年退職し、現在は大学非常勤講師をつとめる立場から、折に触れ教育課題への発言を間欠泉の如く吹き上げます

「筆記重視」で「優秀な人材」が集まるか?

2016年03月28日 | 日記

 大阪市教委が、今年の教員採用試験で「筆記重視」の方針を打ち出した。マスコミ報道によると、「教科の中身に習熟していない若い教諭が目につくようになった」ということがその理由らしい。

 しかし、マスコミ報道でみるかぎり、そうなってきた理由についての市教委の見解はないようだ。一般的な「学力低下」が背景にあるとでも考えているのだろうか。まさか「ゆとり教育のせいだ」というつもりではないだろうな。

 大阪の教育の現状に関心を寄せている者なら、すぐに気が付くことだが、大阪の教員採用テストで受験者の「学力不足」が顕著なのは、倍率の低さによるものだ。すなわち「優秀」な学生が大阪の教員採用テストを毀棄しているからに他ならない。その根本的な原因をさぐり、有効な手立てをとらずして、「筆記」を重視すれば「優秀」な人材があつまるというのは、あまりにもノー天気な考え方だ。

 佐藤学さんは、大阪や東京など大都市の教育の難しさは世界共通だとして次のように述べている。少し長いが引用したい。

「大都市の教育は困難を極めている。子どもが発達する文化、経済、社会環境が劣化しているし、現代的な教育課題が集約して現れ、地域の共同体は崩壊し、教師は疲労困憊していて授業の質は低い。大都市の学校で何よりも困難に感じるのは、同僚性の構築が難しいことである。教師は孤立するか、数人のグループで徒党化しており、声の大きな一部の教師だけで学校が運営され、校内研修は形式化し形骸化している。それに加えて保護者も孤立するか、いくつもの小グループに徒党化しており、地域と学校との信頼関係も崩壊している。そうなると、一人残らず子どもの学ぶ権利を実現し質の高い学びを求めて、教師も子どもも保護者も一人ひとりが「主人公」になって民主的連帯を形成する「学びの共同体」づくりは困難を極める。しかも保守的な首長による数値目標至上の官僚的統制と競争原理による教育行政がいっそう困難な状況をつくりだしている。」(佐藤学「学び合う教室・育ち合う学校」小学館2015年)

 要は、大阪の学校現場はあらゆる面で極めて厳しい状況下にあるということで、ぼくもまったく異論はない。しかし、現状ではこうした状況に切り込む施策は打ち出されていない。それどころか、すべてを教師や学校のせいにし、苦闘する現場教師のやる気を削ぐバッシングが首長からさえなされているのが大阪の現状である。これでは、教師をめざす学生が大阪を毀棄するのは理の当然だ。

 今、教育行政に求められるのは、子どもをとりまく劣悪な社会環境を改善する施策を打ち出すこと、全国的に最下位に置かれている大阪の教師の賃金水準を引き上げること、そして、教職員がいきいきと学校づくりに取りくめる権限を現場に返すことである。このことを抜きにして、「筆記」重視で「優秀」な人材があつまるなどいうことはありえない。

 


マスコミの報道に違和感ー広島県府中町の「万引き」誤記録を用いた進路指導による中3生自死

2016年03月10日 | 日記

 昨年12月に広島県府中市の中3生が、一年次に「万引き」したことを理由に、進路指導において担任から「私学受験への学校推薦ができない」ことを度々伝えられたことを苦にして自死したと町教委が発表して以来、マスコミが連日この問題を大きくとりあげ報道している。

 ただし、マスコミの論点は、当該の生徒は「万引き」をしていないにも関わらず、他の生徒の行為がその生徒の行為として「資料」に誤記録され、それがそのまま進路指導に用いられたこと、そして、そもそもその中学校の「資料」の作り方がずさんであったことへの批判に終始している。

 ぼくは、もとは中学校現場に身を置いた者として、このマスコミの論点に大いに違和感を持つのだ。

 なによりも問題にしなくてはならないのは、「万引き」した、だから高校受験において学校推薦はできないという、その中学校の進路指導の姿勢なのだ。精神的に不安定な成長期の子どものことだ。時には「万引き」をはじめrとする「問題行動」をとることもあるだろう。それを見過ごせと言っているのではない。「問題行動」を起こした子どもの心の闇に思いを馳せ、それを受け止めながら、「間違った行為」は正し、「立ち直り」に寄りそうというのが教師や学校のとるべき姿勢ではないのか。

 誤解を恐れずにいうならば、たとえ「万引き」が事実であったとしても、「君は万引きをした。これは許さない行為だ。しかし、学校は君の立直りを信じて受験で君を推薦することにした。これに応えて君もしんどいことに負けずにがんばったほしい」という姿勢を見せることこそが教育なのではないか。

 進路指導とは、決して「成績」に応じて子どもを高校などに「振り分ける」ことではない。一人ひとりの子どもが、自分を見つめ、こらからの生き方を考えていく中で、実際の進学や就職先を自ら決めていくことだ。我々は、それを「進路保障」と呼んできた。

 その中学校や地域の教師集団にそうした発想があったのか、なかったのか・・・・・

 今回の問題の背景には、「生徒指導」における「ゼロトレランス」という考え方は広がっている気がしてならない。アメリカから広がり、政府・文科省も広げようとしている、この「ゼロトレランス」、すなわち「不寛容」とは、「こういう問題を起こしたら、その背景などに斟酌せず、こういう罰を与える」ということを徹底するというものだ。ようは、罰に対する「恐怖感」で、子どもたちを抑え込もうというおよそ教育という名に値しない生徒指導方針なのである。

 今回の子どもの自死を誤記録批判で終わらせてほしくない。そもそも過去の「万引き」を理由に学校推薦しないことが教育としてただしいのか。そこに切り込んだマスコミの論点が現れるのを期待してやまない。


「組体操禁止」に思う

2016年02月15日 | 日記

運動会や体育祭での相次ぐ事故に対して、大阪市教委が「組体操の禁止」を打ち出した。

ぼくが現役時代に勤めていた中学校では組体操の中で「ピラミッド」や「タワー」が行われたことはなかったが、昨今は運動会や体育祭のメーンイベントとして多くの学校現場で行われていたようだ。

退職後に非常勤で勤めた小学校や他の小学校で、運動会の際にピラミッドを見たとき、「がんばれー」と思ったことや完成した瞬間に感動を覚えたことも事実だ。だからこそ、保護者や地域の人たち、すなわち見ている人に感動を与えるということで、ますます高いピラミッドやタワーの高さを競うようになったのだろう。そして、事故の増加が教育委員会としても見過ごすことができない状況になったのだと思う。

確かに、ぼくも含めて、これまで学校現場でピラミッドやタワーなどの危険性を科学的に検証して議論したことはなかったのではないか。たとえば10段のピラミッドの場合、一番重力がかかる位置の生徒(中学生)には200㎏を超える重力がかかるという(内田良)。これは「根性などで耐えられる重さなどではない。が、恥ずかしながらぼくがこの事実を知ったのはつい最近ことだ。おそらくは、学校現場でも、そんな事実に目も向けず、「感動」や「達成感」が優先されてこれまで組体操が続けられてきたのだと思う。そもそも、ぼくも現場にいたからわかるが、「感動」「達成感」を振りかざされると正面切って反対しにくいものなのだ。

ぼく自身が今学校に求められていると思うことは、こうした危険性を科学的に分析し、そのリスクを最大限避けながら、子どもたちに達成感をもたらし、見ている人に感動を与えるピラミッドやタワーについて折り合いをつける道を見出すことだ。

しかし大阪市教委は一方的に「禁止」を持ち出した。以前の「学校安心ルール」という名の生徒指導のマニュアル化もそうだが、学校の裁量を認めない、上意下達方式は、確実に学校の自主、自立、自律を奪い、学校力を低下させるだろう。

「学力低下」論争でよく登場するPISA調査を実施しているOECDの求める学力の一つは、「自分で判断する能力」である。自分で判断できなくなった学校や教師がどうして「自分で判断できる能力」を子どもたちに育むことができるのか。

ぼくは、子どもに一番近いところにいる教師、そして学校にこそできるだけの裁量権が認められるべきだと思うし、教師や学校にはそれに応えられる力量と相互批判を可能にする職員集団づくりが求められているのだ思う。

 


なぜ教師に「起こっている」いじめが見えないのだろう

2016年01月28日 | 日記

 新春早々、沖縄県豊見城市で昨年10月に小学4年生の男児が自死し、いじめが原因ではないかということが報道された。

 報道を読んで驚いたのは、学校で男児が自死する直前に行ったアンケートに、その男児とおぼしき児童がいじめを訴える内容を記していたにもかかわらず、担任がそのアンケートを読んでいなかったいうことだ。

 これでは何のためのアンケートだ。「もしアンケートを読んで学校がいじめがあることを認識していたら」「学校がすぐになんらかの対応をしていたら」-その男児の保護者には忸怩たる思いがあるだろう。

 そもそも、ぼく自身はアンケートでいじめの有無を調査するという考え方には疑問がある。日々子どもに接している教師は、子どもの変化に敏感であるべきだし、いじめが起こっているなら必ずあるであろう教室の空気をキャッチする感度のいいアンテナをもつべきなのだ。

 そもそも担任として学級の子どもを見渡せば、「いじめに合いやすい」ステイグマを持った子どもに気がつくはずだ。またいじめっ子になりやすい子どもいる。そうした子どもに日ごろから寄りそっていることで、いじめが起これば、それに気がつきやすくなるのだ。そして、そうした子どもたちへのシンパシィのなさが、いじめを見えなくさせているのだと思う。

 AKB48は、「軽蔑していた愛情」の中で「いじめが"あった"とか"なかった"とか今更 アンケートを取っても聞いて欲しかった心の声 は風の中 届かない」と歌っている。我々教師に対する強烈な批判ではないか。子どもの物語に寄りそい、子どもの声を聴き取れる教師が、「起こっている」いじめが見える教師になれるのだと思う。

 

 

 


教師にこれだけの覚悟があるか

2016年01月07日 | 日記

 1月6日付の朝日新聞の「ひと」欄で、野口義弘さんという「非行少年たちを雇い続けるガソリンスタンド経営者」が紹介された。

 野口さんは、最初は「渋々雇った」そうだが、「同じ目線で話を聞く」と「人から認められたり、ゆっくり話を聞いてもっらたりしたことがない」という「非行に走る少年・少女たちが抱えているさみしさに気がついた」のだそうだ。

 で、今では「何回裏切られても、戻れば再び雇う。自分の店に押し入り、売上金を奪っていった少年も雇用した」という。その野口さんは言う。「信じ続ければ彼らは変わる」と。

 大阪にも同様の活動をしている人がいる。元受刑者を雇うことで社会復帰を応援しているお好み焼きチェーン店“千房”の社長中井政嗣さんである。その中井さんも新聞のインタビューに応えて「誰を店長にするかというときの基準は『こいつにやった裏切らても仕方ない』だ」と言っている。

 お二人とも、「非行」少年・少女に向かい合う時の覚悟がすごいと思うのである。

 で、学校現場である。

 学校言語の一つに「指導が入らない」というのがある。「問題」を起こした子どもに対して、教師が「指導」したが、子どもが聴く耳を持たなかった(と教師が判断した)時に、担任や生活指導担当教師が発する言葉だ。そのとき、決して子どもの琴線に触れる言葉を持ちえなかった自分の力量のせいにはしない。あくまでも、子どもの側に問題があるのだと考えている。

 ここには、野口さんや中井さんのような覚悟はない。本来は、「荒れ」ている子どもにもっとも接点があったはずなのが教師であるにもかかわらず、だ。

 教師に求められるのは、「荒れ」ている子どもたち一人ひとりの物語に寄りそい、その魂の叫びに耳を傾け、彼・彼女らの話をしっかり聴くということのはずだ。それでこそ、「間違った」行動への厳しい叱責も子どもたちの心に響くことができるというものだ。

 日ごろから「荒れ」に立ち向かう教育実践論を考えているぼくにとってたくさんのことを教えてくれた市井のお二人の生き様だった。