横浜市で、原発事故で福島県から自主避難した中学1年男子生徒がいじめを受け不登校になっていたことが明らかになったと思いきや、次には新潟市で、小学4年の男子児童が、担任から名前に「菌」をつけて呼ばれ、1週間以上学校を休んでいることが明らかになった。この児童もまた、原発事故で福島から家族と避難しており、しかも同級生からもそう呼ばれ、この担任に相談していたのだという。
横浜市の場合、被害生徒は同級生から多額の金銭を要求されており、父親はいじめ防止対策推進法にいう「重大事態」にあたるとして「法律に基づいて対応してほしい」と学校に訴えたが、学校は重大とは受け止めなかった。
新潟市の場合は、子どもをいじめから守るべき教師自身がいじめに加担する発言をし、しかもその自覚すらない。何をかいわんやである。
当然、マスコミは学校や教育委員会、そして当の教師をきびしく批判している。ぼくも、そのことに異論はない。しかしである。
いじめは決して学校だけの問題ではない。学校は無人島にあるわけではない。地域や日本という社会と同じ空気を吸っている存在なのだ。いじめは子ども社会特有の問題ではなく、大人社会にも存在する。子どものありようは大人たちのつくる社会のありようを映す鏡なのである。だとしたら、いじめ問題を学校内だけの問題とし、教育委員会や学校、ひいては個々の教師のみに責任を押しつけても、いじめのない学校は創れない(もちろん、学校におけるいじめ問題の第一義的責任は学校や教師、教育委員会にある)。
たとえば、福島の原発事故についていうならば、「被害者は補償金をもらって得している」という言い方が、ネット内だけでなく、リアル社会にも存在している。ここには、弱者が弱者を叩く、被害者があたかも加害者のように叩かれるという、生活保護バッシングと同じ精神構造があり、こうした“論”が、今回のいじめ加害者の生徒や児童に影響を与えていたことは想像に難くない。
それだけでない。沖縄東村の高江でヘリパッド建設に反対する市民に向けて、大阪府警の機動隊員が「土人」ということばを投げつけたが、大阪府知事は、この警察官を擁護し、政府でも、担当大臣が「差別とは断定できない」と発言。閣議もこれを了承した。
もしも学校で、ある子が他の子に「土人」という言葉を投げつけたら、教師や学校はどう対処しればいいのか。当の子どもが「政府も差別とは言えないと言っている」と居直ったら・・・・
悲しいかな、これが今の日本の人権をめぐる状況なのである。これでは学校からいじめがなくなる日は来ない。