BMW320iツーリング顛末記

初めての外車【BMW E91】とのお気楽日記!(駆け抜けられない年金生活)

父は神戸の大空襲から工場を守った!

2019-08-14 18:16:34 | 人物
8月15日は終戦の日ですね!
私がまだ子供の頃、父はたまに軍隊時代の思い出話をすることがありました。
その中でも工場に軍の監督官として神戸のゴムベルト工場に赴任した時の話は面白かった。
空襲から工場を守ったという事ですからね!
父は亡くなる前に「私のバカ一代記」なるものを書き残していたので、それをここに書かせて貰います。
『 私のバカ一代記 平成23年9月24日記す

私は、大正9年2月27日神戸の垂水(たるみ:地名)という寒村に生まれた。
今は神戸市垂水区となっているがなぜそんな寂しいところで生まれたのか分からない。
まあ父の勤務地の故だったのだろう。
小学校は6年のうち5回、中学も2回替わり、最終学歴は神戸高商である。
時は戦時中、そんな中神戸製鋼所に就職した。

然し入社して間もなく兵隊にとられ、熊本の第6師団の兵営に入隊した。
八代が本籍地というものの熊本には何の縁もなかった私、もう入隊早々に何の落ち度もないのに打たれ叩かれの毎日であった。
何糞今に見ておれ士官になって見直してやるからと猛勉強をした。
あれ程勉強したことはない。そのお陰か師団のトップで久留米の予備士官学校に入校した。
ところがである。軍隊というところはすべてが序列だった。
おい、6師団の一番がやってみろ、という訳である。そこで考えた、軍隊というところは一番というのは危ないぞと思った。
それからは適当にサボった。学科試験も分かっていてもわざと間違えたり書かなかった。学科でもわざとヘマをした。こういう努力(?)の甲斐あって原隊に帰ったときはビリから1番だった。
怒られたのなんのって、唯々頭を下げていた。しかし何が幸いするか分からない。
トップの鹿子木(かなこぎ)君はガダルカナルへ、2番の下条君は南方戦線に征って2人とも還ってこなかった。

ビリの私は北満州の北のそれも大連安嶺山脈を越えてソ連との国境に近いハイラルという辺境の地に赴任となった。極寒零下30度の寒さを味わった。
私はそれまでに女を知らなかった。少尉に任官したときに同輩達と酒を飲み、その勢いで軍の施設である「いろは」という慰安所に行った。
遊んでみると面白い。目を丸くするような毎日だった。毎日のように遊びに出かけていた。
その日も遊んでいると、当番兵が来て直ぐに隊にお帰り下さいとのこと、何事ならんと飛んで帰ったら、陸軍航空本部付を命ずとの転出命令が待っていた。
そこで汽車にゆられ朝鮮を経て下関に着くと特別列車に将校ばかりが乗せられ着いたところが大阪だった。直ぐ神戸の家に帰ったら親爺が目を丸くした。

そして特命したのは工場の監督官だった。
経営の「ケ」の字も知らない軍人に工場の監督官とは陸軍も馬鹿なことをするなと思いつつ赴任した所が「三ツ星調帯」という自転車のタイヤや工場で使うベルトを製作する工場だった。
三ツ星の監督官室が私の仕事場だった。
社長の小田さん、工場長の尾木さん、現場主任の井上さんと皆いい人ばかりだった。若い女の娘が2人いて付きっきりで何くれと世話をしてくれた。
赴任して直ぐに私は工場を隅々まで見て廻った。
1週間後、私は監督官室に小田さん、尾木さん、井上さん3人に集まって貰った。
「私は工場の監督官だが生産向上とか生産については一切口は出さない。ただ、防空については責任の大事を持たせて貰う」
ここ1週間、工場を見て廻った上での感想を一言で言えば、今の侭ではこの工場は『焚き付け工場』だ。石炭は工場の庭に山積み、生ゴム、布にベンゾールと燃えやすいものばかりと一度空襲があり焼夷弾が落ちてきたら直ぐに火の海になるだろう。
従業員は女ばかりのこの工場をどうやって火の海から守るか真剣に考える必要がある。
敵の空襲は先ず夜間だろう。
そんな時に従業員が駆けつけてくるのは期待できない。男の手が全くないに等しいこの工場をどうやって守るかだ。先ず落ちてくる焼夷弾の7割を水に着けてしまおう。
残る3割を消す工夫をすることだ。酒造りの灘に転がっている大きな酒樽を集めよう。ドラム缶を集めて生産に支障がない程度に工場に置き水を張ろう。酒樽は工場の敷地に穴を掘り埋めて水を張った。
この作戦は功を奏し3月に入っての大空襲で丸焼けになった神戸の町で唯一軒無疵だった。あの朝工場に出勤して来て涙を流して喜びに溢れた女子行員の顔は今でも瞼の底に焼き付いている。
役員として会社に残って下さいと社長の小田さんに言われた。あの時言葉に甘えていたら私の人生もまた違った道が開けていただろう。だが、たかが一介の軍人だし軍服をつけていたから出来た功績だと割り切って八代の帰った。財産を守って呉という父の頼みもあった。』

まだ続きがありますが神戸の時代はここまでです。
工場に残ってくれと言われた父は代わりに弟を会社に入れて貰うことにしました。
この会社は現在もあり、父の代わりに会社に入った私にとっての叔父は子会社の社長まで上り詰めた方でした。
当時の資料が何か残ってないかと会社に問い合わせしましたが、何も残ってないそうでとても残念でした。

空襲からどうやって工場を守ったかよく分からない方で疑問があればコメント欄にお願いします。




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