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伊波塾長の気ままブログ

スタディの代表者の伊波勝也塾長が、日常の出来事や生徒の勉強について思いつくまま気ままに書き込んでいます。

孟母三遷(もうぼさんせん)

2010-09-16 06:39:51 | Weblog
孟子(もうし)が幼い頃、彼の家は墓地のすぐ近くにあった。そのためいつも、葬式ごっこをして遊んでいた。孟子の母は、
「ここはあの子が住むにはふさわしくないところだわ」
そう考えて引っ越すことにした。
移り住んだのは市場の近く。孟子は商人のまねをして商売ごっこをして遊んだ。
孟子の母は言った。
「ここもあの子が住むにはよくないわ」
再び引っ越して、今度は学校の近くに住んだ。
孟子は、学生がやっている祭礼の儀式や、礼儀作法の真似事をして遊ぶようになった。
「ここならあの子にぴったりね」
孟子の母はここに腰を落着けることにした。
やがて孟子は成長すると、六経を学び、後に儒家を代表する人物となった。
故事成語のお話


中国の戦国時代の儒家、孟子の母に関する話である。
孟子の母は子供により良い環境を求めて3度引越しをした。子供の教育には環境が大切である。

さて、塾での勉強を振り返ってみよう。ひとりひとりの先生が環境である。
家での勉強を振り返ってみよう。お父さんお母さんが環境である。

先生方が変わらないといけない。お父さんお母さんが変わらないといけない。子供たちにとって、より良い環境になるように。

受容性

2010-09-05 10:37:21 | Weblog
猫が2階から落ちた。高窓から外階段に飛び移るのに失敗して下まで落ちた。見てはいないが、たぶんそうなのだろう。

動物病院で診てもらうと足先の着地部分の骨折、ギブスをしてもらい連れて帰った。家に帰ってカゴから出すと、ギブスが床に引っかかりまともに歩けない。すぐに、ものすごい興奮状態になった。ギブスがよほど気に入らないのだろう。うなる、威嚇をする、噛みつこうとする。必死に歯でギブスを取り外そうとする。

折れた骨がくっつくまで、この状態が続くのだろうか。凶暴猫で触ることもできない。心配していたのだが、半日程すると、穏やかな表情でおとなしくしている。足をひきずりながら寄ってくる。すりすりしてくる。おとなしく横になる。

猫が現実を受容した。不愉快な現実を受容し穏やかにふるまっている。本人というか本猫にはその気はないのだろうが、サッパリしていて健気だなと思う。

以前に近くの小学校の運動会で、順位をつけない徒競走を見たことがある。順位をつけない理由は、負けた生徒が嫌な思いをするから。勝った喜び、負けた悔しささえ生徒から取り上げてしまうのか。

競争に限ったことではないが、世の中には直面しないといけない不愉快な現実がたくさんある。不愉快な現実を受容する訓練を適切に与えられなかった子供たちはその後どういう大人になっていくのか。突然、切れる子供たち。切れる大人たち。自分をコントロールできなくなってしまう。

変えることのできる現実と変えられない現実がある。変えられない現実はそのまま受け入れればよい。簡単そうでなかなか難しい。それだけに小さい頃からの受容性の涵養が大切なのだろう。

「チリ拾い」、「ゴミ拾い」どっち?

2010-09-02 11:10:44 | Weblog
8月25日の投稿でチリ拾いという表現を使ったのだが、それでいいのか気になったので国語辞典で調べてみた。

塵[ちり]  :ごみ、ほこり
塵・芥[ごみ]:ちり、あくた
とある。

ちりはごみとあり、ごみはちりとある。漢字も同じである。

しかし、一般的なニュアンスとしてチリは埃(ほこり)のような小さな粒であり、ゴミは紙くずからガラクタまでを含め大きめなものをいうらしい。「らしい」いう表現をつかうしかない。そのニュアンスを感覚的につかめていないのだから。

昔はほぼ同じ意味であったが、時間の経過とともにニュアンスに違いがでてきたのだろう。沖縄では「チリ箱」の表現は今でもよく使われる。九州でも結構使われているようである。昔の古い言葉や古い使われ方は中央からより離れた地方に残っているということかもしれない。

観光客がゴミを捨てるとき、「チリ箱」に面食らうかもしれないが、それもいいんじゃない。ひとつひとつの小さな驚きと発見は楽しいことでもあるし、そのままでいいんじゃない。

琉球語が沖縄の日常語から忘れ去られようとしている。ウチナーグチはどうなってしまうんだろう。民族の独自性の原点は言語である。「チリ箱」は「チリ箱」でいいだろうという意識はウチナーグチを残していこうという方向性と重なるところがある。なんでも中央のものを取り入れて合わせるのではなく、沖縄らしさというのをいつまでも大事にしたいものである。