遥かなる旅路(心臓バイパス手術手記)+(糖尿病日記)

実名で語る心臓バイパス手術手記+匿名で公開する糖尿病日記

- 第6章 -

2007年03月25日 | Weblog


6章 手術後



 6月30日、私は一般病棟の617号室に戻った。予定通り6月
22日にバイパス手術を受けた清水さんは手術後約1週間を経過し
てすでに元気になられていた。

私といえば、腕には点滴の管が、膀胱には尿を排出する為の管がそ
して、お腹からは2本の硬いホースがつながれていたのである。

 排尿量は非常に多く定期的に看護婦さんが計尿をして捨てに行く
のであるが、

「すごく出ている」


といって毎回、驚いて捨てていたようだ。1回の量が300とか50
0ぐらいはあったと思う。


「看護婦さん!たくさん出るのは良くないの?」

と尋ねた。

「たくさん出るほどいいのよ。肺に溜まっている水も尿から排出され
るから」

と、せっせと捨ててくれていた。そういう状態であったから、尿管を
外すのも早かったと思う。大部屋に戻って3日目に管を外した。管を
外す時が痛いのである。その状況といえば、管が太もものところでテ
ープによって固定されているのであるが、これが動くと激痛がする。 

動かないように固定してあったテープをはがし、管をスーと抜くの
であるが、その時、尿道が焼けるような痛さを感じた。管を膀胱に入
れる時はもっと痛いらしい。

私は、全身麻酔のときに管を入れているので苦痛は感じなかったが、
抜く時は、僅かな時間であったが激痛がした。

 膀胱から管を抜いた後、看護婦さんに尋ねた。

「長さはどのぐらいですか?」

看護婦さんは、抜いた管の始末をしながら、

「40cmぐらいです」

と答えた。尿道の長さは個人差があるが、入り口から大体40cm
ぐらいで膀胱に到達するのだろう。

膀胱に通す尿管については面白い話がある。経験者によって語られ
る体験談は、カテーテル検査が近づいていた私にとっては辛いもの
であった。しかし、周囲ははやしたてて大笑いをするのである。

 内容はこうである・・・。

「私の時は、検査が終わりベッドで5時間全く足を動かせない状態
であった。

看護婦さんが『水を飲んで早く造影剤を出さなければ良くない』
というから、水をどんどん飲む、そのうちに膀胱がポンポンになっ
てくる。でも尿が出ない。

看護婦さんが先生を呼びにいったかと思うと、先生は何かビニール
袋に入った管のような物を持ってきた。『管を入れます』といった
かと思うと一瞬の間に私の体に管を差し込んだ。飛び上がる痛さが
した。

 焼け火箸を差し込まれた痛さだ。痛かったけど膀胱に溜まった尿
は一瞬の内に空になった。あの痛さは言葉に表わせない。管を見た
瞬間に膀胱に差し込まれたので断る時間もなかった」と。



 聴いている患者は大笑いである。そして、その話題は検査を始め
る前まで繰返された。

 このような無邪気な事を毎日繰返しているものだから、617号
室は病室にもかかわらず笑い声が絶えなかった。看護婦さん達がそ
っと教えてくれたものである。

「617号室はいつも楽しそうで私たち看護婦もこの部屋に入って
くる時とても嬉しい」と。



 私は幸運にも手術後、元気を取り戻し、周囲の患者さんも驚くほ
ど日に日に元気になった。617号室に戻って4日目であったろう
か。心臓血管外科の本田先生が、突然にベッドに現れた。

先生は、

「どうですか?」

と私に尋ねられた。私の返事はいつも決まっていた。

「心臓は無風状態です。気分は晴天です」

 本田先生は例により、口を少しへの字にしたかと思うと、コック
リと2回うなずかれた。いつもの回診はそれで終わり、部屋を出て
いかれるのであるが、今日は、ドレーンの管をジーと眺め、手にと
って管に接続された機器のほうに目をむけられた。

しばらくして、

「外しましょう」

とつぶやかれた声が耳に飛び込んできた。

 ドレーンというのは、私たち電子屋では、FETという半導体の
構造(FET:電界効果トランジスタ)では、ソース、ゲート、ドレー
ンという電極の名前としてよく使っていた。

ドレーンという電極を、『集める』という意味として使っていたか
ら、この管は何かを集める働きをするのだと気付いていた。本田先
生に、

「ドレーンはどんな働きをしているのですか?」

と尋ねた。すると、

「手術後は出血があるので、それを集めてこの管から排出している」

と答えられた。(本田先生が作成された手術の説明文の中にも概要
が書かれている)更に続けて質問した。

「出血はどこかの膜に溜まるのですか?それを排出しているのです
か?」

先生は次のように答えられた。

「手術の後に出血をするがそれが流れ出てくる場所にドレーンを置
く、そして管の近くに来た血をこの機械で吸引している」

と指で床にある機械を指された。

「吸引するという事は、相当に遠くにある血でも吸い上げる事がで
きるのですね?」

と尋ねると、先生は続けて、

「機械の吸引力は強くはありません。流れ出る血が集まる場所にド
レーンの管を置かな

ければ血を捕捉出来ません」

と、私の矢継ぎ早にする質問に丁寧に答えられるのであった。



 ドレーンが腹部から抜かれる状態を、頭を少し上げて観察してい
た。

「息を吸って・・・、軽く吐きましょう」

 それに合わせて先ず1本、管が抜かれた。管を抜く前に先生の手
元がよく見えないのであるが、麻酔をかけて管の周りを何箇所か縫
っておられ、管を抜くと同時に先ほど縫った糸を絞るようにして傷
口をふさいでおられたような気がした。

こうして2本の管が抜かれ、私の身体に残されているのはペースメ
ーカーの単線のリード線が2本だけとなった。(おへその上に置かれ
たガーゼの上にペースメーカーの電源となる電池を接ぐ単線2本がテ
ープで止められている)。

その後、ペースメーカーも使用の必要がなくなり、仁科先生により
取り除かれた。

この時も、

「息を吸って、軽く吐いて」

と吐く息に合わせて取り除かれた。とくに痛みは感じなかった。ペー
スメーカーを何故手術後心臓に埋め込んでくるのだろうか?このこと
についても尋ねてみた。これについては、心臓が自力で動いている場
合は問題がないが、心臓の動きがおかしくなった時、ペースメーカー
の力を借りて心臓の状態を正常に戻す為との事であった。

ペースメーカーの作用は次のように説明されている。「不整脈になっ
た時、この機械で心臓に電気刺激を送り心臓を規則正しく動かす為の
ものである。ペースメーカーの電極を右心室内に挿入する。手術後、
もし心筋梗塞が起きた時、急に心臓のリズムは遅くなるので、そうい
う場合を想定してバイパス手術患者にもペースメーカーが埋め込まれ
るのである」と。

私は自分に埋め込まれていたこの小さい機械をいただこうと考えて
いたのであるが、

消毒後のガーゼと一緒に捨てられてしまいお願いする暇もなかった
のである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


病院での家族の面会は午後3時からと決められていたので、午後3
時20分頃に家族は私の面会に来ていた。

 妻は私が心配しないように、長男か二男のどちらかといつも一緒に
見舞いに来た。

家から病院までは、片道に1時間30分以上を費やしていたので、私
は彼らが病院を出る時間を遅くとも午後の4時頃と決めていたのであっ
た。

手術後、家族が帰ってしばらくしてから発作がおきた。痛みは強烈で
呼吸困難がともなつた。左横腹、腕の付け根のあたりからおへその横
あたりまで棒を入れたような鈍痛がした。それに伴って、呼吸が浅く
なり普通に吸い込む空気の3分の1の量も吸えない状態が続いた。

この時も40分ぐらい我慢したと思う。その後、ナースコールを押し
た。部屋はあわただしく緊張感に覆われ、同室の患者さんは動ける人
はすべて廊下に出された。

レントゲン技師が来て胸部レントゲンを撮り、心電図の機械はせわし
くガチャガチャと動く。何度も何度も心電図をとり、前の心電図と比
べ波形の変化を読み取っているようだ。結局、心臓が原因の発作では
なく、手術による筋肉の異常な興奮からくる痛みであると先生は説明
した。


「肋間神経痛のような痛さで、よく術後あることだから心配は要りま
せん。痛み止めを少し強いのを使います。
 しばらくゆっくり休んでください」と、私に説明し、看護婦さんに

、「もし、痛みが止まらないようであれば、更に残りの薬を注射して
ください」と告げて部屋を出て

行かれた。



午後6時、何時ものようにご飯を運んできてくれたおばさん(お姉さ
んの時もある)の声に目が覚めたがすぐにうとうとと眠ってしまった。

その後看護婦さんが来て、

「ご飯たべないのですか、後でたべますか?」

との声に眼が覚めた。私は、

「片付けてください」

といったと思う。そしてまた、快い眠りにはいっていった。

声をかけられれば答えるが、ご飯を食べる気力はない。体全体を快い
感じが走りすぐに眠ってしまう。肋間神経痛の痛さに対する処置の後
に処方された睡眠剤は、そのような感じであった。

その時も、私の担当の看護婦さんが‘りーさん’であった。本当に不
思議である。

私が原因不明の高熱で集中治療室に送られることになった前夜の発作
の時も‘りーさん’が当直看護婦さんであった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

その後、もういちど、不安に襲われた出来事があった。それは以前に
経験したような強さではなかったが空気をいくら吸っても足らない気
がした時のことである。

酸素不足を感じた私は、‘お嬢’と名づけた看護婦さんに頼んだ。

「空気が薄いのです。酸素量を測ってくれませんか?いえ、今でなく
てもいいのです」

看護婦さんは、

「検温と血圧測定が済んだら持ってきてあげる」

と約束してくれた。それからしばらくして、別の看護婦さんが現れ
た。そして、

「どのような状態ですか?」

と私に尋ねた。私は先ほどと同じ言葉を繰返した。看護婦さんは、

「手術の後は、そのような状態になる事があるのですよ」

と言った。

そうこうしている内に、先ほどの‘お嬢’が現れた。

「山を3つ4つ越えて機械を持ってきてあげる」

と笑顔で答えてくれた。間もなくして、酸素を測定する小さな箱を
抱えて戻ってきた。

先ほどの‘お嬢’は笑いながら、

「3つも4つも山を越えて持って来た」

と言いながらその長方形の箱に接続されている細いパイプの先のセ
ンサーを私の人差し指に粘着テープで巻きつけた。

箱の前面にあるLED(7セグメント発行ダイオード)の表示は9
9の数字を示

していた。看護婦さん曰く、

「酸素量の最高はいくつと思いますか?」

私は95以上の値を示せば体内に吸収された酸素量は正常値である
との知識は先に得ていたが、最大値は知らなかった。黙っていると、

「最高値は100です。あなたは十分に酸素をとっています」

と言って指からセンサーを外したのであった。



私は、先ほどの、

「3つ4つ山越えして機械を借りてきました」

の言葉に合わせて、

「5つ6つの山を越えて看護婦さんにお礼の合掌をします」

といって感謝をしたのであった。手を合わせて感謝する仕草は手
術後、私がいつも誰にでもとった態度であるが、私はこの仕草を
海外派遣専門家として最初の研修旅行にタイ国のコンケンと言う
地方に行った時、その国の人々が、特に女性であったが、挨拶の
時必ずする仕草で、その時覚えたのである。2度と帰ってくる事
が出来ないと覚悟をしたこの世で、こうして手術後の副作用もな
く、元気に過ごしている私が表わせる感謝の気持ちは、手を合わ
せること意外に見つからなかったのである。


一般病棟ではこの種の機械は置いてなく、集中治療室から借り
てくるのである。

自分の領域外にある機器を使うのであるから、山を3つも4つ
も越えた仕事になるのであろう。

その意味から言えば私の要求は彼女らにとつては面倒なことで
あった事と思うのであるが・・・。



私が付けた‘お嬢’と言うあだ名を彼女は知らない。何時だった
か、彼女は私にこう言った。

「わたしには、あだ名が無いの?」

私は答えたものである。

「部屋の皆で相談して決めるから」

しかし、そのままになってしまった。そして、私の退院の方が
早く決まってしまったが、もし、この手記をインターネットで
読んでくれたらきっと自分の事だと思いついてくれると思うの
だが・・・。

そういえば、手を合わせるという仕草については、失敗談が
ある。同室のMr.高橋さんが手術を終えて無事に部屋に戻って
来た。いつも、私が手を合わせてから話をすることを知らない
若い患者さんは、私が、手を合わせてからMr.高橋さんに、

「お疲れ様、無事終わって良かったですね」

とねぎらいの言葉をかけた時、不思議に思ったのだろう。それ
が大きな声の言葉となって私の背中を飛び越えてMr.高橋さんの
耳に届いた。

「仏さんじゃないんだからさ!・・・」

 私は、無意識のうちに、手術の成功とねぎらいの気持ちを表
わしていたつもりであったが、その言葉で、一瞬、部屋には重
苦しい空気が流れてしまったのである。

私の合掌の仕草は何時もの事であり、感謝や喜びを表わして
いる事は同室の誰もがわかっていたことであるが、事情の知ら
ない方には問題のある仕草で、時と場所を考えなければいけな
い。その後は、時と場所を考えなければいけないと何度も自分
にいいきかせたものである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

同室のMr.高橋さんに触れたが、高橋さんの手術が明日に迫っ
たある日、麻酔科の高尾先生が高橋さんのところに来られた。

「私麻酔を担当する高尾といいます」

と名刺大のネームカードに手をあてがいながら自己紹介され
た。その後、麻酔の事について説明を始められた。



「今夜、安定剤を飲んで、明日朝、少し強い安定剤を更に飲
みます。その後、注射を2本腕にうちます。1本は麻酔がよ
く効くように、もう1本は、麻酔薬によって、身体をコント
ロールしている機能の乱れを防ぐものです。

 注射は少し痛いです。麻酔は手術後3時間ぐらいで覚めま
す。眼が覚めた事を確認できれば、人工呼吸装置を外します。

時々患者さんが手術の最中に目が覚めないかと心配されます
が、全く心配は要りません。すぐ眠っていただきますし、絶
対に手術途中で目を覚ます事はありません。目が覚めた時は
すべてが終わっています。ゆるんでいたり、ガタガタしてい
る歯はありませんか?もし、安定剤を飲みたくなければ飲ま
なくても結構です。前夜眠れなくても麻酔でねむりますから、

何か質問はございますか?」



非常にテキパキとした言葉である。栗色に染めた髪の毛を後
ろで束ね、安心感を与える笑顔をたやさない。

実は、私は高尾先生からこのように詳細に麻酔の説明を受け
ていないのである。

先生が私に言われた言葉は次のようである。先ず1回目の手術
日の前、

「麻酔を担当する高尾です。明日ですねがんばってください」

と。そして変更された2回目の手術日の前日、

「いよいよ明日ですね、がんばりましょうね・・・」

ただ、髪の毛の栗色と、あの優しい安心感のある笑顔は高橋さ
んの時と同じであった。高尾先生が高橋さんに説明された内容と、
以前に他の患者さんに説明されている内容に、ひとつ異なるとこ
ろがある。それは手術前夜に飲む安定剤と当日朝に飲む安定剤を、
飲まなくても飲んでも好きにしなさい。と言う内容を話されたこ
とである。これは私が、当日に服用した安定剤がもとで発作が起
こり手術時間を早めたことに原因があるのかも知れない。

こうして、Mr.高橋さんもストレッチャーの上に横たわりあの痛
い注射の洗礼を受け、公式化された同室の患者さんの挨拶に送ら
れて手術室に向かった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

私も1週間ほど前に同じ状況で手術に向かったのであるが、あ
の痛い注射の担
当が私の場合は‘姫’(姫大王とは別人の看護婦さん)であった。

私は、姫に

「お主が、私に注射をするのか、痛くないように頼むぜ」

というと、姫は予定より少し早められた手術時間を調整するよう
に、私の小さな右腕に注射針を刺したのである。

 それが不思議と痛くなかった。私が同室の患者さんを手術室に
送り出す時に見

た顔は、歯を食いしばって本当に痛そうであったのだが・・・。

誰もがあの注射は痛いと認めているから、本当は痛いのであろう。
しかし、姫は私に痛くないようにまじないをして注射をしてくれ
たと感謝をしている。

(私は、そう考えて喜んでいるのである)

その姫や姫大王はその後、担当が6階の他の部屋となって、私達
の世話をしてくれなくなったが、夜勤明けや手の空いている僅かの
時間をみて私たちの顔を見に来てくれたものであった。


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- 第5章 -

2007年03月25日 | Weblog
5章  心臓血管外科医と心臓バイパス手術



心臓血管外科で、私の手術担当医師の1人である維田先生が、私の
部屋へ訪ねて来られた時はすでに外が暗くなっていた。

 6階617号室斜め前の廊下片隅に長椅子を4つほど並べた待合
室のような空間がある。

 その椅子に座っていた私に、比較的体格の良い男性が近づいてき
た。

 私の名前を呼び、

「遅くなってすみません。私は、心臓血管外科の維田と申します。
 少しお話してもよろしいでしょうか?」

と突然切り出された。向かい合った対の長椅子の一方に座られた
維田先生が、お話を始められた時、私はその話を遮って言葉を向
けたのである。

「先生、私は今まで自分の思うような生き方をして来ました。
 私の命が明日までと言われても何の悔いもありません。
(悔いが無いと言えば嘘でしょうが)明日までの命と知らず
 に生活するとすれば、その方が残念です。それに、自分の
 命の長さを知れば、その日までにやらなければならない事
 があります。 

 だから私には事実を伝えて欲しいのです。しかし、妻は心
 臓病を患っています。妻には真実を言わないで下さい。妻
 が倒れては困るのです」

先生は静かな口調で、

「奥さんの心臓病はどのようなものですか?」

と尋ねられた。

「はい、毎月病院で心臓病の薬をもらって飲んでいます。心
 臓病ということ以外にはわかりません」

「・・・」

しばらく沈黙が続いた。私が先に切り出した。

「先生のお立場はよくわかります。それでは妻には遠まわしに
 伝えてください」

 それに対する先生のご返事はいただけなかったと記憶してい
 る。しかし、その後の本田先生、(維田先生とチームを組んで、
 私の心臓バイパス手術をして下さった心臓血管外科の先生)
 維田先生の私の病気に対する妻へのご配慮は十分に私には感じ
 てとれたのである。

 維田先生はその時、私の心臓バイパス手術の今後の計画などに
ついてお話をしに来られたのだろう。しかし私はそれを聴かずに
終わってしまった。

 榊原記念病院では、医師は患者との対話を重視している。時に
は、それが本人に辛い内容のものでも、丁寧に、納得のいく情報
を患者に与えてくれる方針を治療の中心に置いているように感じ
たのであった。

 ただ、私の場合は医師側が計画している私に対する治療方法を
突然の発作等で変更することがあった為、病気に対しての事前説
明を私は医師から受ける機会が少なかったと思っている。  

それ故に私は同室の患者さんに対して医師が本人に事前説明され
る内容について精神を集中して聴くようにしていたのであった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 本田先生が集中治療室の私のベッドにこられて自己紹介をされた
後、看護婦さんに、

「ご家族に説明する資料です。ご本人に見せてください」

と、パソコンで丁寧に記載された文章を渡されていた。その文章
の日付は6月14日になっていた。

 その内容は素人用に記載された簡潔なものであり、心臓バイパ
ス手術を受ける者にとってはとても参考になるもので、以下に全
文を転載したいと思う。


『病名は 狭心症(3病変)です。
狭心症とは動脈硬化が原因で心臓に酸素を運ぶ血管(冠動脈)が
狭くなり心臓の筋肉に十分酸素が運べなくなり胸痛発作をおこす
病気のことです。

 心筋梗塞とは冠動脈が閉塞して心臓の筋肉が壊死になる病気です。
 一般に冠動脈は左右それぞれ1本あり、左はおおきく2本に分かれ
ています。左前下行枝、左回旋技、右冠動脈の3本があるわけです。

 現在のあなたの冠動脈の状況は、これら3本すべてに病気がありま
す。左前下行枝という最も大事な血管には、90%の狭窄(動脈硬化
で内腔が狭くなること)があります。左回旋枝には90%の狭窄があ
り、また別の枝は完全に閉塞しています。 右冠動脈は根もとからず
っと細く、途中で完全に閉塞しています。右冠動脈の先は左冠動脈よ
り自然に発達した細い血管によって補われています。あなたのよう
に長期間糖尿病を患っている患者さんには(症状が出てきた時にはす
でに)3本すべてに重症な病気(動脈硬化)が進行していることがよ
くあります。

現在は冠動脈をひろげる薬と血栓を予防する薬の注射でなんとか発
作はおさまっていますが、非常に不安定な状態です。

 手術をする理由

 冠動脈が3本とも狭くなっている場合、カテーテルでひろげる治療
は危険を伴います。また完全に閉塞している血管をカテーテルで広げ
るのも非常に困難です。

このため手術でバイパス(別の道)を作る方法が最良と判断しました。


 手術の目的

 冠動脈の狭くなっているところの先に血液が別の道〔バイパス〕か
ら流れるようにして、心臓に流れる血液を増やし、狭心症がおこらな
いようにすることも目的のひとつですが、これによってもとの道(狭
くなっている冠動脈)がつまっても心筋梗塞にならず大丈夫なように
すること、つまり命綱をつけることが大きな目的です。

 予定手術の内容

 全身麻酔で行います。まず、胸の中央に胸骨という骨があり、これ
を縦に切開します。心臓のまわりをとりまく心膜という膜を切り開く
と心臓と大動脈が現れます。

大動脈と心臓の右心房というところに太い管をさしこみます。この
管を人工心肺という大きな機械に接続し、この機械を作動させて全身
の循環とガス交換を行い、心臓と肺の働きは止まっても大丈夫な状態
を作ります。そして、大動脈の付け根から心筋保護液という薬を注入
すると心臓は止まります。この薬のおかげで最長4時間位は心臓を停
止させても大丈夫といわれています。そして心臓が止まっている間に
冠動脈のつまったり細くなっているところの先にバイパスを作ります。

 バイパスに使える血管としては、肋骨の内側にある左内胸動脈また
は右内胸動脈、左手の肘から手首にかけてある橈骨動脈、大腿の内側
にある大伏在性脈、胃の脇を通っている胃大綱動脈があります。


 あなたの場合


    1、 内胸動脈 ― 左前下行枝

    2、 橈骨動脈 ― 左回旋枝


の2本の枝にバイパスする予定です。バイパスに使う血管は手術中の
判断で(短いとか、細いとか)前述のさまざまな血管に変更する可能
性はあります。右冠動脈も閉塞していますが、その先にバイパスでき
るような良い血管がないことにより予定には入れませんでした。


 心臓手術の特殊性および問題点


 先ず、人工心肺という機械で全身の循環を行うため、全身の臓器
および血液が影響をうけます。血液の流れ方も普段と違うためたと
えば脳動脈硬化の強い方は脳の一部の循環が悪くなって脳梗塞がで
きてしまう可能性が少し高くなります。

 また腎臓や肺も影響を受けます。多くの患者さんは通常の治療で
数日で回復しますが、なかには腎不全が強くなって透析が必要にな
ったり、長期間の人工呼吸が必要になったりすることもあります。

 一時的に心臓を停止させるため、手術後に心臓の機能が低下する
ことがあります。また心筋保護液がうまく働かず心臓に大きな梗塞
ができたり、あるいは全く回復しないという心配が極めて稀にあり
ます(0.5%以下)。これら心臓の機能が薬だけでは回復しない
場合に、大動脈バルーン・パンピングという循環を補助する管を足
の付け根から入れることがあります。

 心臓の手術は、人口肺の回路に血栓ができないようにヘパリンと
いう血がかたまらないようにする薬をたくさん使うため血がとまり
にくく,胸骨を切ったところやまわりの組織からしばらく汗をかく
ような出血が続きます。この血液が心臓のまわりにたまって心臓を
圧迫しないようにドレーンという管を心臓のまわりにおいて血液を
体の外にだすようにします。これは2-3日で抜けますが、手術当
日はここから出てくる血液の量が多い場合もう一度手術室にもどっ
て止血することがあります。

その他、手術の影響でおこる可能性のあることとして、不整脈、
感染、消化器合併症、肝障害、薬剤に対するアレルギー、原因不明
のアレルギーなどがあります。

 糖尿病を持つ患者さんの場合、感染症を起こす可能性が少し高く
なります。


  ご家族の方へ

 手術の危険性ですが上記のさまざまな合併症を考慮すると、生命
に危険が及ぶ可能性は退院するまでを考えると普通の予定手術の場
合で2~3%とされています。

手術中になにか具合が悪い事があれば途中でお知らせしますので、
なにも連絡がなくて遅くなっている場合は血がとまりにくいなどの
理由ですから心配ありません。

手術は2~3時頃終わる予定です。(注:6月21日の手術に向
けて本多先生が書かれた文章である。6月27日の手術は午後1時
30分から行われるよう時間を設定されていた)

 手術が終わるとすぐに集中治療室にはいります。そこで面会をし
ていただきます。

この時、患者さんはまだ麻酔がきいて意識がありません。目が覚
めるのは4~5時間してからで、自力で呼吸ができるようになった
ら気管チューブを抜きます。これが8時~10時頃でしょう。 

患者さんによっては翌朝になることもあります。集中治療室には
2~3日滞在します。病棟に移ってからは回復状況にもよります
が病棟看護婦の指示に従ってリハビリを進めていってください。

 2~3週間位で退院できるでしょう。バイパスは早期につまって
しまうこともあるので原則として退院前に確認の冠動脈造影をして
いただきます。退院後の生活については退院前にもう一度お話させ
ていただきます。』


2000.6.14  榊原記念病院心臓血管外科     
                   本田 二郎 


 私は、これによって手術前の事前の知識を得る事ができ、安心して
手術を受ける準備ができたのである。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 2度目の集中治療室で3日間を過ごした私は、症状が安定した為、
6階一般病棟の大部屋に戻る事が決まった。今度は、へパリンという
血液をさらさらにする薬と、ニトロという血管拡張剤の点滴を2つ静
脈につけたままの帰還となってしまったのである。


 午後、617号室に戻り、

「戻ってきました。よろしくお願いします」

と声をかけて入室した時、同室の患者さんは、出発時の患者さんの顔
ぶれとは相当に違っていた。

その中に、それも出発時私が使っていたベッドに清水忠夫さんがおら
れた。

(その後、清水さんは私が誕生日に女房と子供達にねだっていた誕
生プレゼントをベッドで聞いておられて、私の退院祝いとしてそれ
をプレゼントしてくれた。

それも、私の退院が急に決まったものであるから品物を家まで送っ
てくれた)


 6月21日に決定していた手術は、集中治療室へ移動や、新しい
薬の服用による肝臓機能の低下をおこした為、1週間ばかり延期と
なってしまった。最初は6月29日に手術日の変更が予定されたが、
肝臓機能の回復に伴い6月27日に変更された。

 肝臓障害の状況は、維田先生、本田先生から回診毎に知らされた。
維田先生は、

 「肝臓の酵素が2桁になったら手術します」

といわれた、私が、

「どのぐらいの値ですか?」

と尋ねると、維田先生は、

「200です」

と答えられたと思う。

「どのぐらいの傾斜で値が少なくなっていますか?」

とお尋ねした。

その時、毎日50位の値で減少していることがわかった。


 本田先生は次のように私に説明をして下さった。

「現在の酵素の値でも手術は可能ですが、肝臓の場合、悪くなると
手の施しようがありません。腎臓なら透析をするという手段も選べ
るのですが・・・。できるだけ安全な手術をしたいのです」

と、そして手術日は、肝臓の機能が回復する事を条件として、6月
27日午後1時30分に決まったのである。


 肝臓の酵素の名前を本田先生、維田先生にはお尋ねしなかった。
 しかしお話の中で、その値は40未満が正常値と知る事ができた。
 肝臓機能低下の原因とされる薬を止めてから手術日までには肝臓
機能も回復したのである。


 部屋では、清水さんと、Mr.高橋さん、同室の仲間の患者さんと
(どういうわけか馬が合い)笑いの声が途切れることはなかった。





                 第6章へ




- 第4章 -

2007年03月25日 | Weblog
新たなる航海(心臓バイパス手術の手記)


4章 手術日とその前後



 617号室で私は自称‘牢名主’となるほどの期間入院した。患
者さんの入退院は頻繁に行われ、最長老は私、その次は清水さんと
なってしまった。清水さんは手術日が6月22日で、本来なら私の
手術日の次が、清水さんの手術日となっていたが清水さんは、22
日にさっさと手術室に向かってしまった。

私たち同室の患者さんは、

「清水さんがんばってね」

と、テレビドラマで描写される病室のそのままの状況で清水さんを
送り出した。

その後は、不思議と当人の話をしなくなるのである。それから3日
が過ぎたろうか。清水さんのを最初に持ち出したのは、その日担当
の看護婦さんであった。(不思議と、看護婦さんが第1声を発する
のである)



 「清水さんが集中室から今日の午後もどりますよ。とても元気で
  すよ」

この言葉も大体において公式化されたものである。それ以後私たち
はその患者さんの話を始めるのである。そして患者さんが病室に帰
ってくると、この時もだいたいにおいて公式化された状況となる。

 例えば次のようにまず看護婦さんが、

「清水さんが戻りましたよ。よくがんばられましたよ」

 我々はその合図の後、各々が、

「お帰りなさい」

「ご苦労様」

「お疲れ様」

「・・・・・」

この情景もテレビドラマのそれとよく似ている。

 

身体には、ドレーンの管と付随する機器、点滴は数本点滴支柱
にぶら下がっている。尿管が膀胱まで差し込まれ自動的に尿が
排出され、看護婦さんは尿の量を測った後、それを捨てに行く。

 しばらくて、自然な部屋の雰囲気に戻った。



 6月25日だったと思う。心臓血管外科の維田先生と本田先
生が2人そろって回診に来られた。私は以前にスケッチブック
に心臓の画を描いて準備していたのであるが、それを持ち出し
て次のように尋ねた。

「先生、胸、左手の血管をバイパスに使った場合、それぞれの
 寿命はどれぐらいあるのですか?」

本田先生が答えられた。

「胸の血管では20年位はもつ。手足は、現在正確にはわから
 ないが7~8年だろうと思う」
(注:内胸動脈のデータはアメリカのもので20年、その他の
 バイパスに使われた血管の寿命のデータは少ないとインター
 ネットの情報にもある)。

私は続けた。

「再手術が必要になるのですか?」

それを受けて本田先生は、

「カテーテルでほとんど治療できる」

私は更に核心に迫った。

「もし、私の胸や手足を開いてどうしょうもなかった時、その
 まま何もせずに開いた胸を閉じるのですか?」

 一瞬私は、最初のカテーテル検査の時を思い出していた。本
田先生は力強く私に答えてくれた。

「最悪の時でも絶対に1本はバイパスを通します」

 あの言葉は私に望みを与えてくれたのであった。 

 私は更に質問を続けた。

「血管の太さがどれくらいで手術が不可能となるのですか?」

今度は、維田先生が答えてくれた。

「1mm位の太さになると手術の意味がなくなります。砂時計
 を知っていますね。

 砂時計の上の部屋から下の部屋への境界のところは細くくび
れています。そこを通る砂はすごい速さで下の部屋に落ちてい
きますが、上に残されている砂は静止しているように見えます
ね。血液も流れないでよどんだ状態では固まってしまうのです。

 手術をしても血流が止まって固まってしまっては意味があり
 ません」

私は更に維田先生に質問を続けた。

「そんな細い管をどのようにつなげるのですか?」

「拡大鏡を使い縫い合わせるのです。絶対にほつれないように
 山のように合わせて

縫います」矢継ぎ早に質問は続く。

「動脈にどのように穴を開けるのですか?」

「自在に切断半径の変化できるパンチのような機材で穴をあけ、
 これも、絶対にはずれないように山縫いをします。また血管と
 血管の接続はその切り口をストローのように斜めに切り縫い
 合わせます」

そのような内容の説明をしていただいたと思う。

 しばらくの間、2人の心臓血管外科の先生は私の質問に付き
合って下さっていたのである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

手術日の変更は私の心に動揺をもたらした。6月21日の手
術を伝えられた時は当然のように受け止めたのであったが、
手術日の延期を伝えられた時から、私は手術が怖くなってしま
ったのである。そして、不安な日々を過ごす事になってしまっ
た。

 そんな時、私は長男に次のような要求をしている。「仏陀の
本を何でもよいから探して買ってきてくれ」と、それに対して、
長男と二男は本屋でお釈迦様の本を探し回った。その後、長男
が私に与えた本は、


『仏陀の悟り33の物語』(菅沼 晃著、株式会社蔵館発行)、
『仏陀の生涯』(小林 正典著、株式会社新潮社発行)の2冊
であった。息子たちの考えは、差し当たり、この2冊を与えて
更に本屋さんで仏陀の本を探すつもりであったらしい。



 私は、『仏陀の悟り33の物語』を2日がかりで読んでしま
った。何の為に仏陀を求めたのだろう?
それは、まぎれも無く私が死を意識し不安に襲われ、無意識に
それから逃れようとしたことに他ならない。

 その結果、恐れずして死ねる方法を仏陀に求めたのだと思う
のである。

仏陀が頭に浮かんだのはフイジー共和国に専門家として赴任
していた当時、現地事務所の所長さんが、若い頃インドで協力
隊員をしていた時、インダス川を眺めて仏陀の偉大さをしり感
激されたことをお宅でよく話していたのが原因かも知れない。

 しかし、『仏陀の生涯』を読み終わる頃何となく、本当に何
となく仏陀の本を読むのが嫌になったのである。

 80歳の高齢まで人を説いた仏陀に対して又、それを紹介し
ている2冊の本に対して尊敬はしても、不満があるわけではな
い。私自身の心の移り変わりそのものであった。そして子供達
に言った。

「もう仏陀の本を探さなくてもいいよ」

と、子供達は私に言った。

「本屋に行って次の仏陀を見つけてあるのに、探し回っていた
 のに・・・」

と。

 それから数日が過ぎただろうか、私は、遺言をノートパソコ
ンにしたため、遺言状1として、子供がいちばん見つけやすいフ
ォルダに保存した。後に、清水さんと遺言の話をした時、清水さ
んは私に次のように言われた。

「その遺言状は効力がありません」

と。

 世間知らずの私は、パソコンで遺言状を書きパソコンのハード
デスクに保管したのである。元気になってから家族に確かめたら、

「そんなもの読む必要が無い」

と一言で否定されてしまったのではあるが・・・。



  遺言状を書いた後、何故か心が休まり、手術をする恐怖心も
消えていった。その後、手術室に向かう時、どんな話をして別れ
るか、思いはそちらの方に移ってきた。別れのときを思い浮かべ
るたび、感極まって人知れず涙を流したものであった。

私は、最終的に家族との別れを次のように決めた。妻,長男には
何も言わず握手で別れよう。二男には、

「がんばれよ!」

と声をかけて握手で別れよう。私が再びもどって来られなくても、
これで私の意思は妻と子供達に十分に通じると確信していたので
あった。

 手術の日、見送る妻の手を握り、長男に握手をし、二男には、

「がんばれよ!」

と声をかけた。背後から二男の声が返ってきた。

「がんばるのは父さんショ」

続いて看護婦さんの声がした。

「本当ね!がんばるのは父さんよね」

 こうして私は家族と別れたつもりであった。長男の言を借り
れば、安定剤が効いていて、私自身はもうろうとしていたらし
い。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 手術室に入れば、前日手術スタッフの1人が写真付きの説明
書を見せて私のベッドで手術の段取りを説明してくれた通りで
あった。

即ち、病棟から乗せられてきたストレッチャーから手術室で別
のそれに移り、最初に維田先生、本田先生が手術着で会釈され
た。

 マスクと帽子をかぶっておられるのでその表情は見えない。
 麻酔担当の高尾先生は例によって顔中に笑みを浮かべて会
釈をしてくれた。私はそちらの方を向き、

「先生、気が小さいからすぐ眠らせてくださいね」

先生は、

「はい」

と澄んだ声で答えてくれた。 

 目が覚めた時は、翌朝の午前7時頃だっただろうか、その時
には口にはめられていた管(私は全くその人工生命維持の管
を知らないが、胃カメラの時に使う管よりも太かったと妻は
言っている)は取り去られ、自分で呼吸をしていた。

ただ点滴は数えて7本、点滴を支える金属棒にぶら下がって
おり、それは左足付け根の血管と右手の血管に接続されてい
た。それにドレーンがおへそのあたりに2本6センチ位の間隔
を置いて開けられた穴に挿し込まれていた。

 更に膀胱には管が通され尿は自動的にちょろちょろと流れ
出ていた。このような姿で私は3階集中治療室にいたのである。

 術後の回復は順調で、集中治療室を2日間で出られると本
田先生が言われたと記憶している。予定では手術後意識が回
復し自分で呼吸ができるようになった事を確認して生命維持
の為の管を口から外すとなっているのであるが、私は夜中の
12時に目が覚め、苦しい苦しいと言いながら、頭を左右に
大きく振り、もがきながら痰を自分で出していたと集中治療
室の看護婦さんが教えてくれた。

 私自身は、夜中の12時に意識が回復した事も、どの先生
が私に呼びかけて下さったのかも知らなく、また口から太い
管を抜いてくださった先生が誰かも知らなかったのである。

 翌朝私はとても爽快に目が覚めた。経過も順調であり、た
だ集中治療室では、小さな子供が泣いているのが聞こえてき
て、かわいそうにあんな小さな子供が手術をしたのだろうか
と、悲しくなった。そんな時、看護婦さんが来て、


『ここは騒がしいから、別な部屋に移りましょうね』


と言われ、別の静かな集中治療室に移動する事になったので
ある。

 私が移動した新しい静かな部屋で本田先生は私に向かって
言われた。

「ここはいい」

と、私は家族の事が気になっていたので先生に尋ねた。

「家族への連絡が・・・」

先生はその言葉を受けて

「ご家族には連絡してあります。この部屋は家族の面会が出
 来ない事もご連絡してあります。面会ができるようになっ
 たら改めてご連絡しますとも話してあります」

と言う内容のものであった。



更に、本田先生は、

「良くある事ですが、肺に水が溜まっています。今から取り
 出します」

その時、仁科先生と一緒であった。仁科先生が私のベッドの
左側に来られて、ビニールの細い管を左胸の脇から挿入され
た。

 もちろん麻酔はかかっていたが、注射針が奥まで届かない
のか、細い管を挿入する時、大げさに言えば肉を引き裂く痛
さが走ったのである。

「ウッ!痛い」

と押し殺した声で叫んだ。本田先生がそれに気付いて、

「痛いですか」

と尋ねられ、長い注射針で麻酔をかけ直すように仁科先生に指
示されたようであった。

その後は痛みを感じることもなく細い管は身体の奥深くに挿入
されたが、管が細く、骨に当たると曲がってしまうとの事で目
的の場所まで行き着いたのかどうかはその後のお2人の会話か
らは知る事ができなかった。

 しかし、管の先端につながれた注射器に3cc程度の薄赤い
血液が吸引された。

本田先生は、まだ、


「60%ぐらい残っているな」と、仁科先生に向かって言われ
 た。そして、「代わるわ」、と言われ、自ら私の左胸の横を
 何度も指で押され骨の間を探しておられた。その後、麻酔を
 されたと思う。先ほどの位置より少し脇の方に位置したとこ
 ろを処置しておられたと思うが管を通される感じはしなかっ
 たのである。

どのような処置をされたか私にはわからない。私の心には、
「60%ぐらい残っているな」と、言われた先生の声だけが残
ったのである。

処置の後私に、本田先生は次のように言われている。「肺に
水が溜まる事はよくある事で、その残量が規定値より多い場合
はもういちど抜きます。自然に尿から排出されるので、規定値
よりも少なくなるようであればそのままにしておきます」

と。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 集中治療室では時々、看護婦さんが私の指に何かを巻いてそ
れが赤色でパカパカと光っていた。

「看護婦さん。これ何?」

と私は例のごとく質問した。

「酸素の量を測っているの」

と看護婦さんは答えてくれた。

「正常な値はどのぐらいですか?」

と質問は続く。

「大体95以上になれば正常です」

といわれた。そこで私は頭のメモ蘭に記憶した。指に何かを巻
きつけられ、それがピカピカ光ればそれは体内の酸素量を測定
している時である。値が95以上なら正常値、それ以下なら酸
素不足である。と、酸素摂取量の測定後、私は口全体を覆う酸
素マスクを1日中かける羽目になってしまった。そして、集中
治療室で更に1日過ごす事になった。

 その後、3階集中治療室での監視下から開放され6階617
号室に帰還する事になった。集中治療室での看 護婦さんの監
視は、カーテンを少し開けた窓越しから続けられた。維田先生
も例によって、にっこりと微笑まれて、3階集中治療室に回診
をして下さっていた。 

 このタイプの違う2人の心臓血管外科の先生に私は手術を受
けたのである。そして、私がそうしたと同じように617号室
では、ストレッチャーの上で仰向けになったまま、同室の患者
さんに迎えられた。

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- 第3章 -

2007年03月25日 | Weblog

3章 手術前


618号室の患者さんは比較的軽い心臓病の方達の集まりでバルーン治療の方、
ステントと呼ばれる治療で冠状動脈の狭窄部分に金属メッシュの筒を入れる方
などが入院していた。部屋にはベッドが8個あり1人の占める場所は少し窮屈
であった。



 患者さんの会話はバルーンやステント治療それに、政治、青少年の事件まで
と広範囲に展開されていた。会話は大体において窓際で行われ、毎日、特定の
患者さんの声が部屋に響いていたと思う。

 私自身は、点滴からは解放され、一応自由な身に置かれていたが行動範囲は
まだ洗面所に1人歩 行することだけに限定され、いつ発作が起こるかわからな
い状況下にある為、ほとんどがベッドで安静にしていたのである。





一般病棟で私は、携帯心電図計を身体に付け、ナースステーションに設置され
たモニターで24時間心臓の監視を受けていた。それに血管拡張剤の服用及び
血液をサラサラにし、血小板の固まらない薬の服用などにより血圧値が上限値
(100~90台の範囲)、下限値(60台の範囲)にまで降下しており、脈
拍は60~80台にコントロールされていた。


体力の低下も著しく、目の前が暗く感じる日が多くなっている。食事は毎回全
部食べる事にしていたから体力を維持できると思っていた。しかし、ベッドで
ほとんど寝たきりの生活をすると想像以上に体力が低下してきたのである。





真中先生とそのグループの先生方の回診は朝食時に行われた。


「おはようございます。いかがですか?」


と、例の直立不動の姿勢から身体を約15~20度前方に傾けて挨拶され
る姿は退院当日まで変わらなかった。私が、


「心臓は無風状態、気分は晴れです」


と答えると、


「何も無いことが何よりです。スプレーは必ずしてくださいね」


と言われるのが常であった。しばらくの間、618号室にいた私は、その
後、617号室に移動した。


真中先生のグループの中に田中薫先生がおられて、何時もグループの後ろ
のほうで笑顔を送ってくださり右手を小さく振って私に挨拶をいつもして
くれていた。田中先生は真中先生が学会の出席でフランスに行っておられ
た約10日間、私の主治医を勤めていただいた先生である。





 田中先生は活動的で元気がよく、病棟中を走り回るように勤務されてい
た。先生はいつも笑顔を絶やさず患者に接しておられた。手術が終わって
病棟に帰ってきた時、ナースステーションにおられて、私に付き添って戻
ってきた看護婦さんに、


「どうだった。完全成功?」


と尋ねられ、


「よかったよかった」


と我が事のように喜んで下さった先生である。





◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





手術前に行われる検査は心臓バイパス手術の場合についてほとんど同じ
ものと考えられるが、私が手術前に受けた検査について触れてみたい。




① 絆創膏テスト 腕に6種類ぐらいの絆創膏を48時間貼りかゆみ
  等その患者の皮膚に与える影響のもっとも少ない種類を調べる。
② 抗生物質の皮内テスト 手術を受ける人は抗生物質を注射する為、
  アレルギー反応を調べる。
③ 腎臓機能検査
   イ、24時間蓄尿する。
   ロ、ドライ食事を前日の夜とり、水分を制限後就寝前にトイレ
     に行き、起床時全尿を採取し、1時間後採尿、更に1時間
     後採尿する。
④ 検便 手術までの間に1回行った。
⑤ 水分、尿量のチェック 飲んだ水の量と排尿の量を調べる(午後
  12時より翌日の午後12時までの1日間)

⑥ 首の頚動脈のエコー検査 首の横にエコーのセンサーを当ててけい
  動脈の内径と外形の厚さを測り血管のつまり具合を調べる。

⑦ 心電図 土曜日、日曜日を除く毎日。
⑧ 胸部レントゲン撮影 手術前複数回、手術後ほぼ毎日。
⑨ 血液検査 静脈より血液を(1本3~4cc位)3~4本採集。主な
  検査の種類は、コレステロール値、中性脂肪、心筋細胞からの成分
の血液中での有無、血糖値、尿酸値など必要分。 
⑩ 胃カメラ 手術前1回。 
⑪ 腹部レントゲン撮影 輪切り状にレントゲン撮影をする。
⑫ 胸部レントゲン撮影 心臓の辺りを輪切り状に撮影する。
⑬ 輸血の為の血液採集 手術前1回。
⑭ 心臓エコー検査 複数回。
⑮ カテーテル検査 入院後早い時期に1回(心臓処置の診断用)
  カテーテル検査 手術後1回(手術後の心臓バイパスの確認用)。 
⑯ 心臓核医学検査 放射性同位元素を用いた検査で心筋の状態を
モニターに表示して心筋梗塞の場所、大きさなどを画面から読み
取る。別名RI検査とも呼ばれる。
⑰ 止血時間検査 手術前2回、耳から血を採取してその血が固ま
る時間を測定する。正常値では2分から5分ぐらいとの事私は、
手術までに2回行う。最初の値は9分10秒、2回目の値が固まる
までの時間は1分30秒であった。


以上は私が記憶している検査の種類である。この他にトレッドミル
等の検査を受けておられる患者さんもあり、検査の種類は患者さん
により全く同じではないようだ。しかし、大筋において、心臓バイ
パス手術患者の検査項目はこのようなものであろう。

手術前の検査は、手術を担当する医師にとっても患者個人にとって
も非常に重要なデータである。 
このデータにより医師は手術を受ける患者の弱点を知る事ができ、
それに対する対処方法を検討できる時間も十分に持てるからである。


不幸にして意識不明で緊急入院をしなければならない場合、これら
のデータ不足から、予定手術に比べて危険度は大きくなると考えら
れる。


私の場合、いつ意識不明になるか判らないほど危険な状況であった
にもかかわらず手術日を事前に設定して、十分に検査を行った上で
の計画的な手術が出来たのは幸運であった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




集中治療室から一般病棟に移り更に618号室から617号室へ
と部屋の移動はあったが、体力維持の為の、合併症の無い人のス
テージ表にそってステージ3からステージ7までは訓練が続いた。


ステージ7にある入浴のメニューに進んだ時、私は何か悪い予
感がしたのである。その日、リハビリ担当の看護婦さんに次の
ように伝えている。


「風呂は午後に入っていい?あまり入浴したくないのだけれ
ど・・・」


と。しかし、結果的には、担当の方に薬剤注入用の静脈につな
がれた管をサランラップで防水し、ゴムの手袋でガードをして
防水用の準備をしてもらった後にシャワーを使い、風呂の湯船
に身体を沈めたのであった。


6月12日朝4時、体全体のだるさに目が覚めた。同7時、朝
の看護婦さんの検温時に、


 「今朝4時に目が覚めて、身体全体がだるかった」


と訴えたのであるがその日、私は理由のわからない高熱を出す
ことになってしまった。体温も38度から最終的には40度に
なってしまった。

12日夕方、看護婦さんに、


 「解熱をしてもらえないですか?」


と尋ねた。先生からは、


「ご本人の希望に任せてください。ただ僕としてはもう少し様子
をみたい」


との回答が看護婦さんを通して私に伝えられた。そこで私は、


 「わかりました。もう少しがんばります」


と看護婦さんに答えたと記憶している。


夕方の8時を過ぎていただろうか、ナースコールのボタンを押す。


「もう限度です。1日中高熱が続いています。これ以上我慢する
と体力が消耗します。

解熱をしてください」               

とベッドに駆けつけてくれた看護婦さんにお願いし解熱剤を服用
した。


その後、眠ったのだろう、13日の真夜中だと思う。胸の辺りが
押さえられたような鈍痛がした。食道にそって熱く痛い感じがした。
入院前の発作と同じ状態に目が覚めたのである。


これは普通ではないと感じた私はすぐナースコールのボタンを押
した。
この時、当直の看護婦さんが‘りーさん’と福岡出身の看護婦さ
んであった。彼女たちはテキパキと動いて先ず心電図をとり、当
直の医師を呼んだ。‘りーさん’はこれ以来、何故か私が発作を起
すたび、私の当番看護婦さんをしていた。


後日、彼女は笑ってこう言ったものである。


「私は、不幸を呼ぶ女?・・・」


と。とんでもない。あなたのテキパキとした対応が私を助けた
のだよ。


当直の女医さんは、看護婦さんに指示しながら、あらかじめ、
私の右腕の静脈に確保されている管から液剤を何度か注入し、
その後、


 「発作はおさまりましたか?」


と尋ねられた。しかし、発作は軽減されなかった。静脈から
薬剤が投与されるたび、血管に冷たさを感じた。先生はしば
らくの間、私の発作の処置をしておられたが、


 「だいぶ改善しました」


と心電図で確認後、当直医待機室へ戻って行かれた。


‘りーさん’は、


 「もう大丈夫、何かあったらすぐ呼んでね」


といって同僚の看護婦さんと共に戻って行った。


私自身はその時、発作がまだ続いていたが、いつの間に
か眠ってしまった。そして、夜が明けて辺りが明るくなる
と目が覚めた。

しかし、発作は続いていたのである。ナースコールのボ
タンを押して看護婦さんを呼ぼうとするのであるが、何故
かそれが出来なかった。
 
 意識はあるしかし、行動が取れない。しばらく天井を見
たまま、呆然としていたら、胸の苦しみ、食道付近の熱い
痛さが突然に嘘のように消えていった。この時、私は心筋
梗塞をおこしていたのである。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


朝7時を過ぎ、回診の時が来た。真中先生は1人で私のベ
ッドに来られた。


「どうですか?」


と先ず尋ねられたと思う。


「発作が先ほどとれました」


と、私は答えた。



先生は、更に続けて、


「集中治療室に今日戻ります」




 こうして、私は再び5階の集中治療室に戻る事になった。
 この日は6月13日の朝であった。




                                                 第4章へ    

- 第2章 -

2007年03月23日 | Weblog


2章 家族

 5階の集中治療室に落ち着いた私は、そこで循環器内科の真中先生にお会いす
る。先生は丁重に自己紹介された後、私の担当である旨を伝えられた。集中治療
室での最初の検査は心電図と心臓のエコー検査であったと思う。エコー検査は真
中先生が担当され相当な時間をかけて私の心臓を調べておられたようである。


検査が終わりしばらくして、真中先生は集中治療室の私のベッドに来られた。
そして、

「別の病気かも知れません」

と私にぽつりと話されて部屋を出て行かれたと思う。しかし、先生が言われたそ
の言葉が何を意味するのか私には理解出来なかったのである。

翌6月2日にカテーテル検査日が決まった。集中治療室の入り口から2つ目のブ
ロックのベッドに位置した私は、看護婦さんはじめ医療スタッフの方が集まる場
所であり、交代勤務の看護婦さんが担当する患者さんの状態を申し送りする言葉
が鮮明に聞こえた。引き継ぎの最初に患者さんの名前をあげるので、自分の症状
が手にとるようにわかった。

一方、私の身体には小さな異変が起きていた。緊張している為、尿意はあるのだ
が尿が出なく苦しくなってきたのである。夜の7時頃だったろうか、ナースコー
ルのボタンを押して看護婦さんに排尿したいと告げた。(集中治療室ではベッド
から患者は降りることを禁じられており、ベッドの高さも一般病棟に比べ相当に
高くセットされている。そのため看護婦さんは立ったままで腰をかがめる必要も
無く患者さんの看護ができるようになっている)

尿瓶(排尿のための容器)を手に持った看護婦さんはそれを私に渡し、

「口を開けてください。舌を上のほうに丸めて」

と言い、私の口元に何やらスプレーを吹きつけた。その後、

 「尿が終わったら知らせてください」

と私に告げてそこを離れたのである。

私は、慣れないベッドの上で中腰になり尿が出やすい姿勢をとろうとした。そ
の時である。突然に寒気がして、冷や汗が出て、気持ちが悪くなった。私は、
身体に変化が生じてもすぐには知らせずしばらくの間、状況が好転するのを待
つ癖がある。この時も冷や汗をかきながらしばらくの間待った。よくなる様子
がないので、ナースコールのボタンを押した。

 看護婦さんはすぐにベッドに駆けつけてくれた。

「冷や汗が出て、寒気がして気分が悪い」

と私は看護婦さんに告げた。ほんの少しの間、彼女は状況をつかめず呆然とし
ていたように見えたが、すぐ心電図担当のスタッフを呼び心電図をとった。そ
の波形をそれ以前の心電図と比較していたようであるがその後、私の血圧を測
りに来た。

発作が始まってから私自身が我慢した時間と心電図を測る時間、それに前の
心電図と比較してから血圧を測るまでの時間を総合すると発作が生じてから
すでに相当の時間が経過していたのである。

「66(血圧の低いほうの値)です」

と、報告を受けてすでに駆けつけていた真中先生に看護婦さんが報告してい
る声がカーテン越しに聞こえた。 
私自身は、経過した時間を考えると、最低血圧値はもっと低くなっていたと
思っている。その後、真中先生がどのように処置されたのか私には判らないが、
寒気も、冷や汗も消え正常な状態に戻った。先生は、『無理に排尿をしようと
したことが原因だと思う』と私に告げて退室されたのである。

もう一度、看護婦さんに尿瓶の準備をお願いし、その時、

『先ほどのスプレーを拒否したいと先生に伝えてください。なぜなら、スプ
レー後3分以内に症状がでた。原因はスプレーとしか考えられない』と先生
に伝えて欲しいとお願いした。看護婦さんは電話ですぐ先生に連絡をしてく
れたようであった。

「わかりました。スプレーをしなくていいです」

その言葉を聞いて私はベッドの上で中腰になり片手でベッドの手すりを掴
み出来るだけいつものような姿で排尿をした。尿瓶の排尿量は500を示す
ほどであった。

翌朝、真中先生は私のベッドへ回診に来られた。

「スプレーはあなたの守り神です。絶対、絶対して下さいね」

と念を押された。私は、

「少しずつ慣れます」

と答えたと思う。

後日、一般病棟に移り看護婦さんに聞いた話であるが、

『スプレーは即効性があり、身体の隅々の血管を拡張することにより血圧
を下げ心臓の負担を軽くする。その為、立った状態では絶対に用いてはな
らず(低血圧になり倒れる恐れがある)スプレー後は1分間ほどじっとし
て動かないこと』

というのである。それ以後、私は身体を動かす前はスプレーをし、約1分
間静止時間をとってから行動することにした。スプレーの名は、「ミオコー
ルスプレー」100回用で、ニトログリセリン6.5mgがスプレー容器に
含まれている。

舌下にスプレーした看護婦さんあるいは真中先生は、ミオコールスプレー
に対する注意を事前に私に話されていたと思う。ただ、私自身がその注意を
認識しなかったのであろう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

今日はカテーテル検査の日である。この検査によって私の心臓にある冠状動
脈の閉塞の状況がわかり心臓治療の方法が決定されるのである。

カテーテル検査の意味は次のように書かれている。 

『手足の動脈や静脈からカテーテルと呼ばれる細い管を心臓の血管内部まで送
 り込みカテーテルの先端から造影剤を注入して、環状動脈の病変を写し出す
 方法を冠状動脈造影法といいますが、これにより狭心症や心筋梗塞の原因と
 なる冠動脈の狭窄の程度が把握できます。ACバイパス術やPTCAを行うかどう
 かを決める不可欠な検査です』(注1)

 カテーテル検査の順番は、私が午前の1番目に行われると決まっていたので、
家族は検査が始まる前に病院に来るように言われていた。家族が病院に到着し
たのは8時50分頃で、私が5階の集中治療室から4階のカテーテル検査室に
運ばれたのは午前9時30分頃であった。

4階でエレベータを降りると家族が待機していて、私を見送ってくれた。カ
テーテル検査室の前で、集中治療室の看護婦さんからカテーテル検査室の看護
婦さんに代わり、検査室に入ると私は検査用ベッドに移されたのである。

カテーテル検査の部屋は薄暗く、ベッドに仰向きに寝かせられた私の左前方に
は、ブラウン管モニターが3台並べられ、胸の上のほうには直径30cmぐらい
の円筒状のものが草色のシーツのような物で包まれて下向きに設置してあり、
それが胸の上あたりで移動するとモニターに写し出された白黒のレントゲン写
真のような画面が移動する。

その円筒形の物体の上にアーチ形をした柱があり、先ほどの円筒型をした物体
はこの柱をレールのように使い半円を描いて左右に180度回転し、又、私の首の
あたりからおへそのあたりまで自由に移動できるようになっていた。

この移動はモニター画面の表示位置の移動となり、画面には造影剤を注入され
た心臓の環状動脈とカテーテルの細い管が映し出されるようになっていた。

以上が、私がベッドの上で観察したカテーテル検査室の状況である。緊張下に
おかれた私の精神状態での記憶であるが、カテーテル室の大体の雰囲気を感じて
いただけるのではないだろうか。

真中先生が手術着の姿で待機していた。看護婦さんは2名ぐらい、他に2人の先
生が、1名は私の左側に位置し、他の1名は、右側に位置して私の両手を台の上に
乗せたり、手を頭の上に移動するよう指示されていた。他の医師が1名、ベッドか

ら少し離れたところで見ておられた。更には、複数の医師が別室でモニターを見
ていられたようであった。

先生は私に、

「よろしくお願いします。今から検査をはじめます」

といつもの直立不動の姿勢で少し身体を前に傾けて挨拶された。検査室の雰囲気
は全く緊張感がなく、このことは私を少なからず安心させた。更に続けて先生は、


「これからは絶対身体を動かさないでくださいとても危険ですから、もし、おっ
 しゃりたいことがあれば言葉でいってください」

と言われた。私はモニターを見たかったので、

 「すみません。もう少し頭を上げてください。モニターが見たいのです」

と答えた。すると看護婦さんが何かタオルのようなものを持ってきて私の頭を高
くしてくれた。さらに真中先生は、

 「頭に力を入れないでください。お腹に力が入り危険ですから、首を上げてモ
  ニターをのぞかないように気を付けてください」

と付け加えられた。

「それでは、始めます。局所麻酔をしますのでチクリとします」

と先生はその都度、言葉に表しながらカテーテル検査を進めていかれた。看護婦
さんの1人が私の左手を軽く握りしばらくの間、私を安心させて下さっていた。

 私はその時、右足の付け根あたりに何か差し込まれる圧迫感と鈍痛を感じた。
 しばらくして、モニターには細い白い色をしたチューブが少しずつ水の中に浮
いているようにくねりながら心臓の方向に移動した。


先生が、

 「少し身体が熱くなりますが心配は要りません」

といわれた。その後、ジワーと熱さを感じた。モニター画面は急に心臓の環状
血管の姿が写し出され、海草の枝のような姿で花火のようにぱっと広がり、ス
ーと消えていった。

カテーテルの先端から造影剤の残りが、筆洗いにつけた筆の絵の具が水に広が
るように、少し噴出してこれもスーと消えた。

 モニターは白黒画面であるが幻想的であった。

真中先生が何か私に言われたが、それは聞き取れなかった。

 次に、

 「もう1本管を入れます。今度は心臓の右部分を調べます」

と言われたと記憶している。その後、右足の付け根を圧迫された。

 鈍痛が走り私は、

 「ウッ!」

と唸った。

「痛いですか?」

と先生が尋ねられた。私は、

 「続けてください」

と答えたのである。

その後しばらくして、前の1本のカテーテルに沿うようにしてもう1本のカテ
ーテルが画面に浮かびあがった。以前に挿入されたカテーテルと同じように水
に浮かび少し揺れているようであった。そして、造影剤が噴射されるときだけ
管は生き物のようにまっすぐ伸びて、残留造影剤が排出されるとまた、管の先
が少し曲がって水に浮いているように見えた。

右側の心臓部分(右環状動脈のあたりを造影されたのだろうか)の血管が、先
ほどの検査のように花火のように画面に浮かびそして、消えていった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

真中先生は、カテーテル検査の前、私が集中治療室にいるときに次のように私
に話されている。

『カテーテル検査で冠状動脈の狭窄部分が見つかれば、すぐにバルーン治療を
(注2)施します。また、ご本人とご家族には検査の結果をお話します』

と。

しかし、真中先生は2本目のカテーテルを血管に挿入して冠状血管の撮影をし
た後、

「カテーテル検査を終わります」

と告げられたのであった。
検査スタッフがベッドの周りに集まり私は、先生を含めた数人の方で移動用の
ベッドへ移され集中治療室に戻った。

カテーテル検査に要した時間は30分ぐらいと思う。午前10時頃、家族(妻、
長男、二男)は真中先生に別室に通され、カテーテル検査の結果の説明を受けて
いた。その時私も同席しているはずであったが、集中治療室に運ばれてその成り
行きすら知る由も無かったのである。

病院という特殊な環境で、その部屋は少し暗く感じたと言う。真中先生は妻に
むかって次のように話されたと、私の手術が成功した後、長男が私に語ってく
れた。

 (というよりも私が強要したのだ)『ご主人の心臓にある3本の環状動脈は
右冠状動脈が根元から完全に閉塞しており血管も途中から消えています。左の
冠状動脈は2つに枝分かれしていますが、1本は100%閉塞、残り1本が9
0%閉塞し、10%の隙間からかろうじて血液がチョロチョロの状態で流れて
います。そして、左冠状動脈の先から血液の不足分を補充するように細い血管

が何本か右冠状動脈の方に発達し、僅かながらも右冠状動脈側に血液を送って
います。非常に危険な状態です。

 いつ発作が起きるかわかりません。また、わずかに血液を流している血管が
つまった時、緊急手術を行う必要があります』

と言う内容の説明だったという。そして、『いつ呼び出しても連絡がつくよう
待機するよう』にと、付け加えられたとのことである。

家族はこの時、私の死を覚悟したとの事であった。帰宅した家族は誰一人とし
て話をすることも無く3日が過ぎた。妻は夫の死の準備を考え、長男は父の死
後の生活をどのようにすればよいかと考えたといいます。ただ二男は、父の死
という言葉を避け話しの中に入らなかったということであった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

5階集中治療室での平日の面会時間は午前9時から5分間許され、家族は、集
中治療室にいる私には何事もなかったように面会をしている。そのような事情
を私は知らず、カテーテル検査から戻ってから、いつ検査後の説明を受けるの
かと待ちながら集中治療室のベッドに仰向けに横たわっていた。


 カテーテル検査から集中治療室に帰って、4時間ぐらい経ったであろう。真中
先生が私のベッドに来られ、

「尿はでましたか?」

と尋ねられた。

「いえ、まだそのような気持ちがありません」

と答えると、先生は、

「早く排出しないと造影剤が悪さをします。管を通さなければならないかも
 知れません」

と言われた。そして、

「それでは、カテーテル検査用の管を抜きます」

「局部麻酔をかけますから」

と言われた後、2度、3度チクリとする痛さを感じた後、私の右足付け根で何
をしておられたか仰向きの私には判らなかった。ただ、両手親指を使ってカテ
ーテルを挿入した動脈の場所を20分ぐらい圧迫しておられたと思う。その後、
3~4回ほど圧迫したり指をはずしたりして様子を見られた後、看護婦さんに
帯を締めるように指示された。

2名の看護婦さんが私の右足付けのあたりを含む腰に相当な力で帯のような
ものを巻きつけた。

カテーテル検査は、足の付け根からカテーテルを挿入するため、動脈に穴を
あける。その為、検査後は足を動かさないように注意を受ける。現在はその検
査された足をベッドに固定することは無い。

しかし私は、動かしてはいけない足を忘れて動かして出血するのが怖いから
足をベッドに縛って欲しいとお願いしたのである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


集中治療室での集中管理を受けて3日目の午後だったと思う。看護婦さんが
私のベッドに来られて、耳元で静かに話された。

「ご家族にお尋ねしたら、『本人の希望通りにして下さい』と言われたので
 ご本人にお尋ねいたします。小さな個室ですが空いています。そこに入ら
 れますか、周囲の会話などストレスはご本人によくないと思います。個室で
 しばらく静 かに過ごされたらいかがでしょうか?」

との内容の話であった。
 
 私は、

「有難うございます。しかし、大部屋をお願いします。これ以上家族に負担を
 かけたくありません」

と答えた。そして、入院後4日目に大部屋に移ることになったが、急患が5階
集中治療室に救急車で運ばれて来て集中治療室の看護婦さん達はその対応に追
われ、その日の午後もだいぶ経ってからの移動となってしまった。

 集中治療室から大部屋へ移る前に初めて治療室のベッドから少し離れた洗面
所まで看護婦さんに付き添われて歩いて移動した。その後、心電図と血圧を測
りベッドから洗面所までの運動に対して心臓の異常が認められないことを確認
していた。

 そして点滴の代わりに口径薬の使用をする事になったのである。しかし、い
つでも点滴や注射液を注入できるように左右の腕の静脈にはパイプを通されて
テープで固定されていたのである。

 午後の2~3時ごろだったろうか、6階一般病棟の看護婦さんが迎えに来た。

 集中治療室で顔見知りになった心電図担当の男性スタッフには、がんばってく
ださいと声をかけられ、看護婦さん達には、「また、こちらにも遊びに来てネ」
と笑顔で送られ、6階の618号室に車椅子で移動したのである。その時、一般
病棟618号室の担当看護婦さんが“姫大王”であった。

“姫大王”に入院の注意などを聞き、次の日から、合併症がない人のステージ表
のメニューにそってステージ3(廊下二周歩行、トイレ歩行)からステージ6
(階段20~49段昇降、入浴B(石鹸あり))までの訓練に入ったのである。

 (但し、階段20~40段昇降の訓練はその後の、急な発熱で受けられなく再
び5階の集中治療室に戻る事となる)

                                                 第3章へ